16年前に財産移転先決める 解散想定か、旧統一教会
配信 共同通信
東京地裁から解散を命じられた世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が16年前、解散となった場合の財産の移転先として、友好関係がある北海道帯広市の宗教法人「天地正教」を指定していたことが29日分かった。25日の解散命令の決定内容から判明。宗教法人法に基づき2009年6月に決議していた。印鑑販売を巡る事件で、警視庁が旧統一教会の施設を家宅捜索した直後だった。 当時、教団は「コンプライアンス宣言」を発表したが、並行して解散命令を受けることを想定し、財産の移転先を探っていたとみられる。 解散命令に効力が生じると、財産の清算手続きが始まる。宗教法人法は、清算後に残った財産について、宗教法人内部の規則などに基づいて処分するよう定める。被害対策に取り組む弁護士らは、旧統一教会の残余財産が天地正教に移ると、清算後に新たに判明した被害の弁済につながらない上、天地正教を舞台に新たな被害が発生することを懸念している。
旧統一教会の田中富広会長は27日の記者会見で決議を認めた上で、財産移転の動きを否定した。
天地正教(てんちせいきょう)は、北海道帯広市に本部を置く仏教系[3][4]の宗教法人。文化庁の『宗教年鑑』では「諸教」に分類される[5]。現在は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の管理下に置かれている[5][6]。
概要
川瀬カヨが1970年代に「世界基督教統一神霊協会」(現・世界平和統一家庭連合。旧名の通称:統一教会または統一協会、以下、統一教会と略称)の信仰を持ち、自ら率いていた「天運教」の組織をそのまま受け継いだもの。「天運教」は祈祷師の信奉者団体で、帯広市で霊能による占いや病気治療を行っていた[7]。1988年に「天地正教」と改称してからは、弥勒信仰を中心とする。この世に下生するとされている弥勒が統一教会の教祖、文鮮明であると教えていたとされる。宗教学者・櫻井義秀によれば、信者の大半は主婦層であり、信者を統一教会に導くダミー教団である[7][8][9]。「霊感商法」で販売されていた壺や多宝塔を「霊石」として扱っていた。1998年の内紛により、 1999年に法人としては正式に解散していないが“和合”ということで統一教会に事実的には吸収された形になった。
- 聖火の郷 報恩殿 北海道清水町御影地区にある教団施設。
沿革
1956年11月12日、川瀬カヨが「汝、天運教の教主たれ」との啓示を受けたという。天地正教ではこれをもって創立とする。しかし、周囲の理解を得られず、精神科病院に入院させられる。退院後、教団で「百日日参」と呼ぶ修行を行い、そのころから徐々に信者が集まり始める。
1957年3月4日 「おさしず」と称する啓示を受ける。宗教法人認証以前においてはこの日を立教の日としていた。
1963年、信者会として「冨士会」が設立され、教団としての体裁を整える。当時は八大龍神・馬頭観音・弘法大師等を本尊とし、先祖供養を中心とした教えを説いていた。
1973年[注 1][10]、信者の一人が「幸福の壺」をもたらしたことを通し、統一教会の教えを受け入れる[注 2]。
1982年10月14日 川瀬カヨが数人の信者と共に「統一教会」の6000組合同結婚式に参加。川瀬は「独身祝福」を受ける。
1987年10月1日、役員会において宗教法人認可の申請を出すことが決定され、同月26日、北海道知事より認証された[7]。また、川瀬カヨが初代教主についた[7]。この時、本尊を弥勒慈尊(弥勒菩薩)に改める。翌1988年1月14日[要出典]、法人の名称を「天地正教」と改めた[7]。
同年3月3日[要出典]、統一教会の霊感商法関連団体「霊石愛好会」が天地正教に移行することを発表する[7]。この「霊石愛好会」という団体は、霊感商法が社会問題となったため、その種の商品を扱っていた販売業者が「自粛宣言」を出した後に結成された任意団体である[7]。全国で「霊石に感謝する集い」という集会を開き、内部の道場で壺や多宝塔などを頒布していた[7]。販売すると霊感商法といわれるので、売るのではなく団体へ献金するという名目が使われていた[11]。
これにより、天地正教は実質的に統一教会系の幹部に牛耳られることとなり、旧天運教関係者はお飾りの立場におかれた。しかし、統一教会の幹部による霊感商法的運営によってさまざまな問題が噴出し、次第に川瀬カヨを中心とする旧・天運教系幹部が主導権を握るようになった。
1994年2月4日[要出典] 川瀬カヨが83歳で亡くなり、三女・新谷静江が二代教主となる[11]。なお、三女は統一教会の信者ではない[11]。
1995年2月3日、本山において文鮮明夫妻の写真を祭壇に掲げる儀式を行い、公式に弥勒慈尊が文鮮明夫妻であることを表明した。それまで、内々に文夫妻を弥勒として教えていたが、教団として文夫妻の写真を拝することはなかった(ただし、各地の道場が非公式に文夫妻の写真を拝することは少なからず行われていた)。
またこの年、北海道清水町における本山の宿泊施設建設計画が地元の激しい反対を受けた。当時、天地正教の青年が作務衣を着ての訪問托鉢を行っていたが、その姿が折から問題になっていたオウム真理教を彷彿とさせ、地域住民の警戒感を招いたためである。
1997年10月1日 信者一行が北朝鮮を訪問。「金日成主席永生祈願祭」、「朝日歴史総懺悔式」(人民文化宮殿)に参加[12]。
1998年5月、新谷静江が教主の座を追われる[9][11][注 3]。新谷教主や天地正教の一部の幹部・信徒は統一教会による支配を排除しようとした[11]。彼らは韓国の統一教会幹部らの献金の扱いに非常に不信を持ち、文鮮明教祖に韓国の「世界日報」の財務、送金した献金の監査請求をし、調査を求める12人の署名をした嘆願書を出したが、受け入れられなかった。これに対して韓国及び日本の統一教会幹部は、天地正教の完全支配を目論み、教団内の旧・天運教系幹部主導の体制に不満を持つ統一教会系幹部を扇動し、教主の追い落としを図った。
文鮮明は、777双[注 4]で、アメリカの統一神学校を出て、当時役職に就いていなかった[要出典]松波孝幸(後に原理研究会会長)を天地正教の会長にさせ、教主制度を廃止[要出典][11]。 12人の嘆願書を出した人たちは、皆、左遷された。しかし、この処置は信者の多くに不信感を抱かせ、信者数は激減した。
その結果、天地正教は教団存続を断念。1999年3月[要出典]天地正教は、松波会長の申し出(和合宣言文)という形をとって、事実上、統一教会によって、吸収合併された[13]。ただし、法人としては現在も存続している。統一教会・天地正教側は法人の解散を望んで信者の署名活動まで行ったが、文化庁が乗っ取りによる教団の吸収合併という前例ができることを嫌ったためといわれている。
統一教会との関係
- 裁判の原告らの主張:統一教会の方針に従って霊石(壺や多宝塔)を授かって喜んでいる人達を装った被告の婦人信者を中心に発足した「霊石愛好会」の組織をそのまま天地正教に移行させたものであり、統一教会と霊石愛好会及び天地正教とは一体のものであると指摘している[14][9]。
- 統一教会に吸収され、事実上、天地正教としての活動を停止した後、問題視した地元の町議から反対運動を起こされている[13]。
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