

原作:大泉実成 脚本:山元清多
出演:ビートたけし 大谷直子 森本レオ 斉藤洋介 渡辺いっけい 斉藤晴彦 鶴田忍 小日向文世 小坂一也 反田孝幸 青木秋美 森廉 ほか
「昭和46年大久保清の犯罪」(1983年)や「イエスの方舟」(1985年)に続く、ビートたけし主演の社会派ドラマとして1993年に制作された「説得」。交通事故にあった小学生への輸血を信仰上の理由から両親が拒否し、結果死に至らしめてしまった実際の事件を取材した大泉実成の原作を映像化。ビートたけしは、我が子と信仰との狭間で揺れる父親を好演している。ドラマでは、両親が出会って結婚したのち信仰と出会うまでのエピソードを織り交ぜながら、事件当時あまり知られていなかった医師たちと両親のやり取り、それぞれの立場での葛藤を描く。重傷の患者を救うために輸血を行いたい医師たちの苦悩。衰弱する息子を目の当たりにしながらも輸血を承諾できない両親の苦悩。山元清多による脚本は、偏ることなくそれぞれを鋭く描写している。平成5年度文化庁芸術祭芸術作品賞受賞作品。
【ストーリー】
昭和60年11月。少年の乗った自転車がトラックに巻き込まれるという交通事故が起きた。救急車で病院に向かう時点では、少年・荒木健(反田孝幸)の意識ははっきりしていた。処置室に運ばれた健は、複雑骨折をしており、裂傷もひどく出血も多い。容態を落ち着かせるためには輸血が必要だが、それには親の承諾が必要だった。
病院からの連絡を受けた健の父・昇(ビートたけし)と母・ますみ(大谷直子)は、車を飛ばして病院へ向かう。その車中、二人は胸が張り裂けそうな不安をひとつ抱いていた。
「輸血を受けなければならないような大怪我でなければいいが…。」
宗教上の教義によって、父親が、息子の輸血を拒否し、死に至らしめる。
こんなニュースを耳にすると、多くの人は、その宗教の「反社会性」と父親の「狂信」に眉を顰め、「世の中には自分とは全く異なる人間をいる。信じがたいとだ」と感想を漏らし、いつしか忘れ去っていく。
1985年に起こった「エホバ証人輸血拒否事件」はそれから30年近くがたった現在、そういう風に忘れられ、わずかに憲法の判例集の中にその痕跡が残っているだけだ。
本書は事件が「忘れ去られようとしていた」1988年に、無名の20代の学生だった著者によって書かれた。実際にエホバの証人の集会などに参加し、輸血を拒否した父親とともに「信者」として生活を送ることで、彼が「なぜ輸血を拒否したのか」を明らかにしていく。
「反社会的宗教の狂信者」というあまりにもわかりやすく平凡なレッテルをともに生活することで一枚ずつはいでいった先にあったのは、私たちと同じように普通に仕事や家庭に苦悩し、喜怒哀楽をかみしめながら生きているおっさんの姿だった。
息子の輸血を拒否し、死に至らしめた父、荒木昇は「研究生」という立場で、エホバの証人の教義を全面的に信じていたわけではなかった。信仰の救いを見出しながらも、書店経営という「俗世」仕事に邁進し、家族を養う、父親でもあった。
「あの時私は、彼が後ろ手をして、シャッターの降りた書店をじっと見ている姿が、店への想いいため息をついた理由が、全く理解できなかった。エホバの証人には、店なんて日々の糧を得る手段にすぎないはずだと思い込んでいたのだ。そして、なぜそんな昇の姿に惹かれるのだろう、と不思議でならなかった。だが、今、その理由がはっきりとわかった、ゆり書房は、父とダイエーという大きな山を苦しみながら踏破した昇が、その40年の人生をかけてやっと産み落とした一つの結晶だったのである。昇は、この小さな書店を、本当に深く愛していたのだ」(P164)
私のように、強い信仰を持たないものは、ある教義を熱心に信じるものを目にすると、「自分とは全く違う価値体系を持つ人」とある種の恐れを感じる。そして知らず知らずのうちに、「生まれつき宗教に没頭しやすい」自分とは違うタイプの人間だと論を進める。
しかし、私たちの仕事や恋愛といった小さな日常生活が、偶然にもたらされたものではなく、選ばざるを得なかった必然の累積であるのと同じように、強い信仰を抱くに至った人々も必然的にその信仰を選び続けてきたのだ。
荒木昇の場合は、自分を律する規律を求め続け、たどり着いた先がエホバの証人だった。
自分を律していた父親から独り立ちすべく、中内功の「生活提案」などの理念に共感し、ダイエーマンとしての自分を磨き続けてきた。次第に、中内の理念への疑問が生じ、次なる自分の律する存在を求め、見つけたのが、聖書を文言通り解釈し、生活の隅々を神の教えによって律するエホバの証人だった。
だが、父の厳格な哲学や、経営者としての中内功の経営哲学と、宗教には異なる点があった。
「ある宗教に関心を持つ。次々と教義を理解していく。矛盾はないか、しっくりこないところはないか。理論的にどんどん詰めていくと、ある究極的な一点で人は先に進めなくなる。その先へ進むためにはもはや跳ぶしかないのだ。宗教が『賭け』であると最初に論じたのは、一体どこの誰だったのだろう」(P277)
中内功の経営理念を現場で一つ一つ検証し、最後にはそれから離反したのと同じように、昇は地道にエホバの証人の教義を検証していく。だが、最終的に、「本当に」そに教義を信じるためには、論理を超えた飛躍が必要となる。今までの人生で経験したことのない課題を前に、昇は逡巡を繰り返す。輸血拒否事件が起こったのは、こういう時期だった。
「昇は研究の過程で、自分なりにどんどん理論的な側面を詰めていったのだろう。そして、その先に進むためにはもはや跳ぶしかない、という一点までたどり着いてしまったのだ。美紀が伝道者になり、大が真神権学校に入校した。ますみは三人の子供を連れて、活発に伝道を続けている。昇は、跳ぶか否か、という決断を、喉元に突き付けられていた。
どうすれば神を信じることができるのか?どうすれば、『跳ぶ』ことごできるのか?答えは一つだった。エホバの存在を、その力を少しでも実感することができさえすれば、昇は新しい一歩をふみだすことができるのだった。
エホバを実感したい。昇は強くそう思った」(P291)
教義に殉じて輸血を拒否し、息子の「復活」をに賭ければ、「超越的な何か」を体験でき、本当に教義を信じることができるのではないか。
医師や警察といった社会のこちら側の人の「説得」に悩みながらも最後まで、耳を貸さなかったのは、平凡で常識的な書店経営者のあえて「社会とは異なる価値体系に跳ぶ」決意だった。
宗教でも、イデオロギーでも、愛でも何かを本当に信じるのには、「狂気」といった生まれ持った性質は必要ではない。機能までこちら側にいた普通の隣人が、日常的で常識的な価値判断によって、状況を積み重ね、ある日「跳ぶ」こと決意するだけでいい。
輸血拒否事件に怖さを感じる本当の理由は、それが、自分たちに理解できない狂信者によってではなく、自分たちと同じ普通の人の必然によってもたらされたものであるからかもしれない。
本書は、1985年に川崎で起きたいわゆる「大ちゃん事件」についてのルポルタージュである。「大ち ゃん事件」とは、当時10歳の男子小学生がダンプカーに轢かれ、聖マリアンナ医科大学病院に救急搬送 されたものの、エホバの証人の熱心な信者である両親による輸血拒否により輸血治療が行われず、結果 的に死亡させてしまったという事件である。エホバの証人の教義である輸血拒否を社会に知らしめる結 果となり、1993年にはビートたけし主演でテレビドラマ化もされている。
さて、本書は、著者の大泉氏が実際にエホバの証人の研究生(キリスト教で言う求道者)となって教団内部に潜入し、その実態をあからさまにレポートしたものである。エホバの証人は極めて閉鎖的な組 織として知られているが、本書は、その閉鎖的な組織の内部で何が行われているかについての一端を知らせる貴重な情報ソースとなっている。エホバの証人の組織はある種の平和な雰囲気に満たされている 。大会も信者の献身で盛り上がり、研究生達に「こんな人達と一緒ならだまされてもいいや」と思わせ る雰囲気がある。信者はお互いを「兄弟、姉妹」と呼び合い、「神に選ばれた兄弟」として認めあっている。
しかし、最終的な読後感は、やはりエホバの証人はカルトであるとせざるをえないというものであっ た。輸血を絶対に拒否するという一種の「殺人教義」を組織ぐるみで守ろうというのは、もはや非常識という以前に、悲しいまでに馬鹿馬鹿しい。
いずれにせよ、エホバの証人はキリスト教ではない、それどころか多くの問題を抱える危険なカルトであるという事実を、特に我々日本のクリスチャンはもっと声高に喧伝しなければならないと感じた。 エホバの証人問題に対して積極的な行動をとってこなかった日本のクリスチャンこそ、本書を読むべきである。
子供たちは皆美しい、まだ大人のコントロールできなくなった、エゴに溢れ、歪み、執着に満ちた心を知らない。みな一様に美しく澄んだ心を強く秘めている。
大人のにごり、ゆがんだ心で、この美しい芽を摘む権利は針の先ほども無い。
あらゆるものは社会に出ると困難に出合う。小さなものからとてつもなく大きなものまで。
全く困難の無い現実を求めるのは余りにもナンセンスで有るだう。困難に真正面から立ち向かい乗り越えると、そこにはより強靭な精神が育ち、より広く洗礼された知性を得て、とらわれの無い心を持った精神へと変化していく。
過去に10才から数年間証人を目指した経験のある著者が、もう一度、組織の中枢まで入りきっていない末端の証人達の中に入り、できるだけ証人の目線に立って理解しようとしている姿が有ります。しかしそうした中でも彼らの中に違和感を覚えていきます。
ある信者との会話では、証人の大会で伸び伸びと活動するたくさんの証人達を見て「こんな人達と一緒ならだまされてもいいや」と思ったという。
たとえ自分が間違っていてもいい、この人達と一緒にいたい。確かにエホバの証人の大会には、そう思わせるだけの温かい雰囲気がある。とも書いている。ここに大きな鍵の一つが隠されていそうだ。
古代文章の稚拙でいびつとも思える解釈で、復活があるから現世では死んでもいい。この理論が通のなら何でも有りになってしまう。
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