巨悪は死なない 死ぬのは秘書か部下

2020年03月19日 10時36分03秒 | 事件・事故

青木 伊平(あおき いへい、1930年12月9日 - 1989年4月26日)は、政治家秘書竹下登の秘書として知られている。

青木 伊平(あおき いへい、1930年12月9日 - 1989年4月26日)は、政治家秘書竹下登の秘書として知られている。

リクルート事件、自殺

竹下が首相に上り詰めた後の1988年、リクルート事件が勃発する。竹下も未公開株であるリクルートコスモス株の名義人になっていたため、国会で追及を受ける。1989年4月10日、翌日の集中審議への対策として青木と小沢一郎官房副長官が打ち合わせを行い、リクルート社による資金供与の総額を1億5100万円で確定、翌11日の集中審議で竹下が「今後、これ以上出てくることはない」と断言した

しかし、リクルート社から竹下に対しては、1億5100万円の他に、5000万円の献金の申し出があった。しかし青木はこれ以上は受けられない、と返答して5000万円を貸付金として処理し、事件発覚時には既に返却していた。青木が受けた事情聴取では事務所の出納記録を確認した佐渡賢一が「事件性無し、シロ」と判断、公表の有無については竹下側の判断であると返答されたため、この分は含まずに公表していた。ところが21日に取り調べ内容が朝日新聞にリークされ、同日夜に取材がやってきた。事態を楽観視していた青木は重大性に気付き、22日早朝に竹下邸に弁明に訪れるが、普段は感情を表に出さない竹下が声を荒らげて青木を叱責した。この日の取り調べでは平和相互銀行事件について詳しい説明を求められ、青木は金丸信に電話で報告をした際「もう、かないません。辛抱ならん」とこぼしている。朝日新聞が同日夕刊で新たな貸付金のスクープを報じ、竹下批判の声はさらに高まった

25日、竹下は記者会見で退陣を表明する。青木はこの日も事情聴取の予定であったが、多忙を理由に回避していた。この頃、青木は記者の取材を避けて夫人と外泊を続けており、夕食後にホテルを出て、竹下邸に向かった。しかし玄関前に取材記者が大勢いたため入れず、近くの公衆電話から竹下事務所に連絡をし、そのまま消息を絶った

26日、自宅の寝室で首吊り自殺を遂げたところを夫人に発見された。ベッド脇には、夫人や竹下に宛てた遺書が4通残されていた

死後

竹下は青木の死の直後、「突然のことですので……。30年以上私と一緒にいたわけだから、まことに残念に思う」「これは"死の問題"だから、(カネの問題と)絡めた書き方はしないで欲しい。仏様に申し訳が立たない」とコメントした

竹下は長く、青木の死についての自身の心情は語ってこなかったが、1992年11月26日、衆議院予算委員会に東京佐川急便事件について証人喚問された時、中野寛成が最後の質問で、青木をはじめ、竹下の周囲の人物に起こる悲劇と竹下の政治的な体質についてどのように思うか、と問うたのに対して、竹下は初めて自身の心情を語った

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安倍自民「選対委員長」を告発した元秘書が自殺していた社会・政治 投稿日:2017.10.27

「Aさんは9月15日、自宅から少し離れた浜松市内の河川で、遺体で見つかりました。発見時の状況から、警察は自殺と判断しています」(地元紙記者)

Aさんは生前、塩谷立・自民党選対委員長(67)の秘書を務めていた。なぜ、30代の若さで、死を選んだのか。

塩谷氏といえば、安倍晋三首相(63)の出身派閥・細田派に所属。当選8回、麻生内閣では文部科学相を務めた。

「自派拡大を続ける二階俊博幹事長と、ポスト安倍候補の岸田文雄政調会長の牽制役を担っている」(自民党関係者)

総選挙では選対委員長として実務を取り仕切った。塩谷氏の存在感は高まっている。

「Aさんは塩谷氏の地元事務所の、元私設秘書。議員の代理で地域の集会に出たり、陳情を永田町の事務所に伝えたり、秘書業務を真面目にこなしていた」(地元政界関係者)

そんなAさんは、なぜ亡くなったのか。

「じつは、Aの死には、『週刊文春』9月14日発売号に掲載された、塩谷氏の事務所の秘書給与疑惑の記事が関係しています」(Aさんの知人)

《自民党選対委員長 塩谷立のダークマネー》と題された記事にはこうある。

塩谷事務所で2007年から2011年まで務めていた女性公設秘書には「結婚して静岡県藤枝市で子育てをしている」という証言があり、勤務実態がない疑惑があるという。このことが2012年に東京新聞に報じられると、Bという秘書が真相究明を求めたが、塩谷氏は突っぱねた、と「文春」は報じる。

《小誌は、疑問を呈したというB氏を直撃した。「(中略)事務所として質すべきことですから、先生に聞いたのですが、勤務実態を全く答えられなかった」》(「文春」より引用)

「塩谷事務所は、Aを呼び出し『文春』の記事の『Bという秘書』がAではないかと問いつめたというのです。最終的に、Aは認めたそうです」(知人)

 疑惑を告発したAさんだが、精神的に追いつめられていった。

「提供した情報を撤回し、『文春』に記事を差し止めるよう要求しろ、と言われたそうです。9月11日になって『大変なことになってしまった』と話していました」(知人)

Aさんの遺体が発見された9月15日は、「文春」の発売翌日だった。

「発端は、Aさんが出馬した2015年の浜松市議選にある」と話すのは、Aさんの当時の支援者だ。

「Aさんは当時36歳で、あるベテラン市議の後継として擁立されました。塩谷先生の若い秘書として地元では知られていましたから、当選すると思っていました。

しかし擁立にあたって、塩谷先生の根回しが不十分だったんです。そのために、反発したベテラン市議が結局立候補してしまった。Aさんは落選してしまいました」(支援者)

それでもAさんは諦めず、地元の集会に出るなど、政治活動を続けていた。

「2019年の浜松市議選には、塩谷事務所の別の現役秘書が、Aさんと同じ選挙区から立候補することが内定しました。今年、Aさんがある夏祭りに行ったら、追い返されることすらあったそうで、ひどく落ち込んでいました」(支援者)

Aさんは将来に悩んでいたという。

週刊文春編集部は本誌の取材に「取材過程につきましては、従来より回答を差し控えさせていただいております」とのこと。塩谷氏の事務所からは、締切りまでに回答はなかった。9月21日夕刻、党本部を出る塩谷氏を直撃した。

ーーAさんが自殺されました。
「うん、うん、知ってる」

ーー「文春」発売前に、Aさんを事務所に呼び出して問いつめた。彼は憔悴していたそうです。
「僕は海外にいたから。(憔悴していたことは)わかんない。なんでそういうことになったのか、聞いていたら教えてほしいよ。なんで死んだのか」

ーー「文春」へ告発したのは、Aさんだったのか。
「彼が語ったことは知っています」

ーーAさんは、市議選への支援が受けられずに落ち込んでいた。
「そんなことはないよ」

ーー今日は告別式だが……。
「僕は今から行きますから」

だが通夜には、塩谷氏や事務所からは供花もなかった。Aさんの母親は「お話しすることはありません」。告別式の夜、Aさんの自宅を再度訪ねた。自宅にいた友人らしき男性に、塩谷氏が来たかと聞くと、驚いた顔でこう答えた。

「えっ、塩谷さんや事務所から連絡や問い合わせはありません。来る予定もないはずです。もう、関わりもありません」
(週刊FLASH 2017年10月10日号

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財務省の決裁文書の改ざんに関与させられ、自殺した近畿財務局の男性職員が、改ざんの経緯などを書き残していた「手記」などを、遺族が弁護士を通じて公表しました。

国会での追及をかわすため、財務省の本省が主導して、抵抗した現場の職員に不正な行為を押しつけていた内情が克明に記されています。

公表されたのは、森友学園に関する財務省の決裁文書の改ざんに関与させられた近畿財務局の職員で、おととし3月、改ざんが発覚した5日後に自殺した赤木俊夫さん(当時54)が書き残していた「手記」と「遺書」です。

「手記」は2種類あり、自殺した日の日付の手書きのものには「今回の問題はすべて財務省理財局が行いました。指示もとは佐川宣寿元理財局長と思います。学園に厚遇したととられかねない部分を本省が修正案を示し、現場として相当抵抗した。事実を知っている者として責任を取ります」などと記されています。

また、もう1つの「手記」はパソコンで7ページにまとめられたもので「真実を書き記しておく必要があると考えた」との書き出しで始まります。

学園との国有地取り引きが国会で問題化する中、野党の追及をかわすために財務省本省が指示していた不正行為の実態について、財務局の現場の職員の視点で細かく記されています。

この中では、実際には保管されていた学園との交渉記録や財務局内の文書を、国会にも会計検査院にも開示しないよう最初から指示されていたと明かしたうえで、事後的に文書が見つかったとする麻生財務大臣など幹部の国会での説明に対し、「明らかな虚偽答弁だ」という認識を記しています。

さらに「虚偽の説明を続けることで国民の信任を得られるのか」と財務省の姿勢に疑問を投げかける記述や「本省がすべて責任を負うべきだが最後は逃げて、財務局の責任にするのでしょう。怖い無責任な組織です」と組織の体質を批判する記述もあります。

そして最後に手記を残す理由について「事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任をどう取るか、ずっと考えてきました。事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません。今の健康状態と体力ではこの方法をとるしかありませんでした。55歳の春を迎えることができない儚さと怖さ」と締めくくっていて、死を覚悟してまでも自身の責任を果たそうとした赤木さんの思いが読み取れます。

一方、「遺書」はすべて手書きで3通あり、家族に宛ててこれまでの感謝の気持ちを記したもののほか、1通は「森友問題」という書き出しで、「理財局の体質はコンプライアンスなど全くない これが財務官僚王国 最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ。手がふるえる。恐い命 大切な命 終止符」と財務省への憤りが記されています。

■「手記」の詳細

※抜粋

管財部長に報告し、当初は応じるなとの指示でしたが、本省理財局の総務課長をはじめ国有財産審理室長などから部長に直接電話があり、応じることはやむを得ないとし、美並近畿財務局長に報告したと承知しています。

美並局長は、本件に関しては全責任を負うとの発言があったと部長から聞きました。部長以外にも、次長ら管財部幹部はこの事実をすべて知っています。本省からの出向組の次長は、「元の調書が書き過ぎているんだよ。」と調書の修正を悪いこととも思わず、本省の補佐の指示に従い、あっけらかんと修正作業を行い、差し替えを行ったのです。(大阪地検特捜部はこの事実関係をすべて知っています)これが財務官僚機構の実態なのです。パワハラで有名な佐川局長の指示には誰も背けないのです。

佐川局長は、修正する箇所を事細かく指示したかどうかはわかりませんが、補佐などが過剰反応して、修正範囲をどんどん拡大し、修正した回数は3回ないし4回程度と認識しています。役所の中の役所と言われる財務省でこんなことがぬけぬけと行われる。』

■「遺書」の内容

1通は「森友問題」という書き出しで「佐川理財局長(パワハラ官僚)の強硬な国会対応がこれほど社会問題を招き、それに指示NOを誰も言わない理財局の体質はコンプライアンスなど全くない これが財務官僚王国 最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ。手がふるえる。恐い命 大切な命 終止符」と手書きされています。 

ほかの2通も手書きで家族に宛てたもので、妻や義理の母親などに「これまで本当にありがとうゴメンなさい恐いよ。心身ともに滅いりました。ゴメンなさい大好きなお母さん」などと書かれています。

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