仕事などの労働における時間の使い方は、「○○する」という作業を中心にした「する時間」です。
一方でケアでは「いる時間」つまり存在を共にして時間に価値があるんです。
一見すると無駄に思える時間も、そこにいることが、「あなたと共に考え合う」という姿勢につながります。
ケアし合う関係は、お互いを必要とする関係性であり、こうした相互依存的な関係性こそが、ケアの醍醐味だと思います。
「相互依存の世界」の意義は、その対極にある「自己利益の世界」を考えると分かりやすいです。
自己利益を追求するだけという弱肉強食の論理では「次に追い落されるのは自分かもしれない」という不安と恐怖が生まれます。
そこには、競争に負けるのは自分の責任という強迫的な自己責任の論理があります。
それとは違い、妻や子どもと一緒にいる相互依存的な関係性は、自分中心主義では成り立ちません。
子の体調、やりたいことを優先しつつ、親自身の考えと折り合いをつける日々は、親の自己利益のみでは完結できません。
子どもを中心に回る生活は、親にとっては利他的というか、没我的な関係であります。
私の場合、自己利益の世界を超えることで、「責任」に関する感覚の転換がありました。
「自己利益」には懲罰的な響きがあります。
自分でしたことなのだから、自分で責任を取らなければならない、という義務の論理です。
一方、子どもの養育は、親にとって義務でもありますが、同時に喜びでもあります。
懲罰的な自己責任とは違った、より肯定的な責任を引く受ける感覚があるのです。
政治学者のヤシャ・モンクは、育児や困窮状態の親類の世話についても、それも一つの社会的貢献であると述べ、肯定的責任像を提起しています。
私も、家事や育児の責任を引き受ける中で、自分には父親として生きる意味や価値があるのだと、自分の存在を丸ごと肯定的に感じられるようになりました。
娘へのケアは、私を力づけてくてることもあったのです。
ケアし合う関係は、ケアを試みる側の人間的な成熟にも、大きな役割を果たします。
かつて、仕事の成果や他人との比較でしか自分を評価できなかった私自身が、娘へのケアを通して、生きる姿勢が大きく変わっていたのです。
こうした変化は、親子だけに限りません。
私自身の学生との関わり方の変わりました。
以前は、リポートの提出期限を守れない人を「ダメな学生」と思い込んでいました。
けれど、今は「言語化できない苦しいことがあるのかも」と、考えるようになりました。
自己責任の論理で見れば、「期限を守れないと、社会では通用しないよ」と、責めたくなります。
しかし、本当は社会が許さないのではなく、「私があなたを許せない」と言いたかったのかもしれません。
弱肉強食の論理の中で、これまで「ちゃんとやってきた」自分の成功体験に引き当てると、一人一人の事情に思いをはせた関わりが、できにくくなります。
だからこそ、変わらないといけないのは「指導する側」だと思います。
ケアし合う関係性をつくるために、子どもでなく親が、生徒ではなく教師が、部下でなく上司が、変わることが求められているのです。
神戸県立大学・竹端寛 准教授