紅葉を観に日光へ

2023年11月11日 22時36分43秒 | 日記・断片

自宅に迎えにきた長男車は、結局、下妻、下舘をへて日光へ向かった。

下館駅は、茨城県筑西市乙にある東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道・真岡鐵道・関東鉄道の駅。筑西市の代表駅である。

日光駅前の道から、いろは坂方面へ。

船村徹記念館に立ち寄る。

中禅寺湖から明知平ロープウエーまえまで向かう。

目の前が男体山であった。

紅葉は今年の異常なまでの夏日続きで、紅葉は遅れていた。

戦場ヶ原、竜頭の滝、華厳の滝を観に行く。

竜頭の滝 2023年11月11日

華厳の滝を―2023年11月11日

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日光を散策2023年11月11日
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日光を散策:戦場ケ原
 
日光を散策2023年11月11日
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日光を散策2023年11月11日
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日光を散策2023年11月11日
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日光をを散策
 
二荒山神社の前を通るが、ここが男体山の登山口であった。

帰りは下館のばんどう太郎で食事。

取手の自宅には、午後10時10分ごろ到着した。

日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館施設貸出について 

日光街道 ニコニコ本陣のシンボルであり、日本を代表する作曲家 船村徹氏に関連する作品を紹介する施設です。

 船村徹プロフィール

日光市ゆかりの日本を代表する作曲家。
昭和7年、栃木県船生村生まれ(享年 84歳)。

世に送り出した作品は約5500曲。
「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」「あの娘が泣いてる波止場」「矢切の渡し」「おんなの宿」「王将」「新宿情話」など、多くの人たちが、折りにふれて口ずさむ歌の数は、圧倒的に多い。

船村徹プロフィール詳細を見る

 

 

休館日・入館料

開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週火曜日(祝日の場合その翌日)
12月29日から翌年1月3日まで

入館無料

※館内では飲食・喫煙・ペットの連れ込み(補助犬を除く)・展示物(映像音声等含)の写真動画等による撮影録音はご遠慮ください。

 

フロア概要

3F  展示ブース/貸しスペース
2F 展示ブース/視聴コーナー
1F エントランス

 

 


紅葉を観に行く予定

2023年11月11日 06時56分18秒 | 日記・断片

今日は、地元で地域の会合・行事もあるが、紅葉を観に行くことになる。

朝7時半に自宅を車で出発する予定だ。

昨日についで、今日も早朝散歩に行ったが、これまでの午前5時が30分遅くなる。

月も見えていたが、直ぐに雲に覆われる。

先日は、一番星と月とかなり接近していたのに、今朝はかなり離れている。

星と月が最接近する写真を期待したが、期待が外れる。

マラソンランナーのような女性が颯爽と行く。

犬も散歩の人は懐中電灯持参だ。


創作 今な亡きナオちゃんと人(女)たち 5)

2023年11月11日 02時58分24秒 | 創作欄

私が無罪となり、再就職した共同農業新聞社は、上野駅に近い昭和道り面した雑居ビルの5階にあった。

私は記者ではなく、広告とりの営業マンとして採用されたのだった。

農業は機械化され、個人の農家まで農機具が普及していく時代である。

「君はな、頑なになっているのではないか?広告とりは、決して難しいものではない」口髭を生やした加賀太郎社長は、ヒトラーの様な容貌をいていた。

私は、初めての営業に気乗りがしなかったのだ。

そして、事務員の村岡純子は「社長は強引な広告とりをしている。ヒトラーを尊敬しているのよ。変わった人」と言うのである。

純子は、38歳で独身であった。

私は昼休みに妻が用意した弁当を食べていた。

「愛妻弁当か」純子はため息をつく、彼女は自分が作った弁当を食べていた。

3人の記者たちは外食だった。

農機具の特集のために社長は地方へ出張していた。

加賀社長は、全国共同農業協同組合連合会をバックにするような営業方針だった。

つまり、営業企画書には、全国共同農業協同組合連合会が協賛しているような表現と地方の傘下共同農業協同組合の理事長印まで押されていた。

純子はその日、「私がおごるからね」と私を上野のアメ横近くの居酒屋へ私を誘った。

その日は、私は大津典子と会う約束をしていたが、連絡の取りようもなかった。

まだ、携帯電話は普及していなかったのだ。

2軒の梯子酒になるが、純子は酒が強い女だった。

私の方が先に酔ってしまった。

「南さん、私を神楽坂まで送ってよ。いいわね」二人は中央通りからタクシーに乗った。

純子の住まいは、神楽坂の路地裏の2階建てアパートの6畳一間だった。

純子は、私が抱いた初めての太めの女である。

下北沢のアパートへ、妻が息子連れて福島の実家から戻って来てきいたのだが、私の不祥事を妻が許さねば離婚する他ない状態が続いていた。

妻は、私と寝ることを、かたくなまでに拒絶していたのだ。

私は、尚子が想像すらできないような浮気な男に成り下がっていた。