「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か

2022年11月25日 11時58分46秒 | 社会・文化・政治・経済

久保(川合)南海子 (著)

認知科学でみる 人間の知性

漫画やアニメの登場人物に感情移入し、二次元の絵や映像に実在を感じる。
はたまた実際に出会い触れることはほとんどないアイドルやアーティストの存在に大きな生きる意味を見出す。
これらの「推す」という行為は、認知科学では「プロジェクション・サイエンス」と呼ばれる最新の概念で説明ができる。
「いま、そこにない」ものに思いを馳せること、そしてそれを他者とも共有できることは人間ならではの「知性」なのだ。
本書では、「推し」をめぐるさまざまな行動を端緒として、「プロジェクション」というこころの働きを紐解く。

【目次】
はじめに
第一章 ♯「推し」で学ぶプロジェクション ―応援―
第二章 プロジェクションを共有するコミュニティの快楽 ―生成―
第三章 「推し」との相互作用が生まれるとき ―育成―
第四章 ヒトの知性とプロジェクション ―未来―
第五章 とびだす心、ひろがる身体 ―拡張―
第六章 プロジェクションが認識世界を豊かにする ―救済―
おわりに

(本文より)
「推し」に救われたという経験は、「推し」が自分に直接なにかしてくれたということではありません。
「推し」によって自分がなにかに気づいたり、自分がなにかできるようになったり、自分をとりまく世界のとらえ方が変わったということなのでしょう。
あらためて考えてみると、このような自分のありようとこころの変化は、本書のテーマである「プロジェクション」がもたらす事象そのものです。
はじめて聞いたという人が多いと思いますが「プロジェクション」とは、こころの働きのひとつで、認知科学から提唱された最新の概念です。

【著者プロフィール】
久保 (川合) 南海子 (くぼ (かわい) なみこ)
一九七四年東京都生まれ。
日本女子大学大学院人間社会研究科心理学専攻博士課程修了。
博士(心理学)。
日本学術振興会特別研究員、京都大学霊長類研究所研究員、京都大学こころの未来研究センター助教などを経て、現在、愛知淑徳大学心理学部教授。
専門は実験心理学、生涯発達心理学、認知科学。著書に『女性研究者とワークライフバランス キャリアを積むこと、家族を持つこと』(新曜社)ほか多数。

 
 
プロジェクションという初めて聞いた言葉、知らず知らず自分もプロジェクションで幸せを感じていたのだ、と気づきました。
 
 
 

 

周りの人達が「推し」について楽しそうに語っている中、どうして自分は好きなこと=「推し」にならないのだろうと思って読んでみました。

まず、プロジェクションという概念(仮説?)が非常に面白く、そこから生まれる行動、共有・遷移・変容への流れもとても興味深かったです。
特に、二次創作と科学理論の醸成の相似については、なるほどと思う一方で検証の有無が大きな違いだなと。
そして、こういうことを考えること自体がプロジェクションであると気がつき、知った理論をそのまま体験するのはなかなか新鮮でした。

そして、プロジェクションという概念を知ることで、社会での様々な事象(事件)の動機にプロジェクションを見いだすことができ、これもプロジェクション、あれもプロジェクションと楽しくなってきました。
筆者はおそらく意識してポジティブな事象を事例として取り上げていますが、私はネガティブな事象の中にプロジェクションによると思われるものを見つけることが多く、これまで理解出来なかった人の心の動きや行動について、納得するものがありました。
そして、自分がプロジェクション能力が低いから「推し」ができないということもわかってしまい、もう推しを作ることは諦めました。
楽しく読み進めていけます。
 
 

心理学の実験は「どういう風に設定するか」という最初の時点で、すでにものすごく面白いと思いますが、冒頭の実験シーンから引き込まれて、一気に読んでしまいました。
上手く言えないですが、著者の人間や人間社会に対するあたたかい視線を感じて、知的好奇心を刺激されつつ、心にじんわり沁みる本でした。
推し活をしている方だけでなく、そうでない方も楽しめる1冊だと思います。
 
 

自分はコンテンツ業界にいて裏側から推しに関わる立場だが、一面的な視野の狭さから語られる内容ばかりで参考にはならなかった。
未だ明確な定義のない推しとはなにか、あやふやなまま著者の主観中心の語りが進むので読んでいて常に違和感が拭えない。
仮にも研究者が研究対象であるはずのオタクとしての我を抑えられないのではこちらも困る。
そのため著者が”推し"ているプロジェクション・サイエンス理論の説明のために一部の概念だけを恣意的に持ち出しているようにしか感じない。
例えば二次創作について触れた章ではBLを取り上げているが、夢や恋愛要素のない創作は排除されている。
それでは推しという概念を理解したことにはならないだろう。
「科学」というからには深い内容を期待したのだが、不愉快で期待はずれだった。
 
 

著者の「悪乗り」の過ぎる趣味の押しつけはやめてほしい。
自分の趣味を正当化するために、各種文献を引っ張ってくるのも痛い。
また、この「推し」現象が操作可能であり、人のマインドコントロールに使われる可能性が高いものであるという危機意識がないのも、いただけない。
後書きの「痛さ」についての自覚のなさも含めて、非常に不愉快な本でした。こんな教員に感化された学生がかわいそうです。
 
 
アイドルやスポーツ選手や球団などが好きで熱心に応援する対象が「推し」と定義する。
単に好きというだけでなく、グッズ集めやSNSへの投稿など、自分が能動的に行動してしまう対象こそが「押し」だと著者は説明している。
人の「押し」の姿を見て、頑張る(肩入れする)自分の心や行動も変わる場合がある。
「推し」を推すことは、自分を外の世界とつなぐ働きかけ。
つまり、自分と世界をつながりを意味づけること。
 
 
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祈り(いのり)キリスト教

2022年11月25日 11時52分28秒 | 社会・文化・政治・経済

祈り(いのり)とは、宗教によって意味が異なるが、世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。

利他の精神。自分の中の神と繋がること。

など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。神の定理は各宗教による祈祷祈禱、きとう)、祈願(きがん)ともいう

儀式を通して行う場合は礼拝(れいはい)ともいう。

キリスト教

キリスト教において、祈りは信仰生活の中心をなす宗教行為のひとつである。

その形は、賛美、感謝、嘆願、執成し、静聴、悔改と多様であって、これらの組合わせが、一般的に「祈り」と言われる[4]。他教の祈りと根本的に異なるのは、まず神の言葉を聞いて、それに基づいて祈ることが肝心で、単に自分の願いを披露するのではなく、自身の信仰に基づいた決意表明という点である

その意味で、祈りと聖書を読むこととは、クリスチャン生涯では一体的な営みとされる。

祈りは神に、また教派によっては神の母マリアをはじめとする聖人に対して捧げられる。プロテスタント諸教会では、マリアあるいは聖人への祈りを偶像崇拝として排除している。

祈祷の意義

キリスト教における祈祷は、神への賛美を本来的な形とする。

祈願・罪の告白等も、究極にはそれによって神の栄光が顕わされることを願うのであり、現世利益は本来的なキリスト教の信仰が追求するものではない。

祈りの意義の最大のものは、永遠なる神との人格的な交わりにあるとされる。

また「絶えず祈る」ことがキリスト教では奨励されている

天使たちは神への賛美を絶えることなく行っていると信じられている。これが公的な礼拝にしばしば参加すること、私的な祈祷をしばしば行うこととも解され、修道士たちが寝ずの番を交代でしながら24時間祈祷を行う不寝修道院を生むに至った。

一方、「祈り」を霊が神に向かうことと解すると、言語化されない祈りという観点が生じる。

中世の正教会では、「祈りの文言を理解せずに祈る」「祈りの文言を理解して祈る」「祈りを口にすることをまたず、すべての行為が祈りとなっている状態」の3つの祈りの形が考えられた。

第3の状態を「祈らずして祈る」といい、ヘシカズムではこれを重視し、そこに到るの段階として短い祈りを絶えず繰り返す「イイススの祈り」を奨励する。

祈りは信者の意思的・能動的行為である一方、神学的にはすでに神の力を得てその恩寵の元に行われていると考えられる。

パウロ書簡には、祈りにおいて言語化されない思いを神の霊がうめきによって表すとの考えが表明されている

祈り、とくに公的な祈りは神への奉仕と考えられているが、一方でキリスト教には「神は人間の奉仕を必要としない」という考えがある。

また、ユダヤ教さらにはその発展であるキリスト教では、いったいに、神は人間の隠れた思いをすべて知っているという観念があり、したがって祈りが行われずとも神は人間の思いをすでに知っている。

したがって、祈りは本来的に人間の側にとって意義をもつ行為であるとも言えないことはないが、しかし、神は人間が己に立ち返って、神と交わることを喜ぶとされる。

かつ祈りによって人間は神に近づき、神との絆さらには共に祈る者としての他の人間との絆を更新することができると考えられている。

形式

クリスチャンの祈りに形式があるとするならば、それは「キリストの御名によって」祈ると言うことである。

それは罪ある人が、聖なる神に近づくためには、キリストの十字架上の死を通してのみ可能であるという理解がある。

祈祷の主体に着目すると、集団での公的な礼拝行為(公祈祷)と私的な個人ないし集団での祈祷(私祈祷)に分かれる。祈祷の内容に注目すると、定まった祈祷文をもちいるものと、個人の自由で自発的な祈祷に任せるもの(自由祈祷)がある。

伝統的教会は、定まった祈祷文を用いることを奨励し、プロテスタント教会では自由祈祷を奨励する傾向がある。

定まった祈祷文は、各教団・教派ごとに異なる。教派でその内容・文言を精査した上で認可を与え、信者にこれを奨励する。教派を超えて用いられる祈祷文には「主の祈り」、各種の信条がある。

伝統的教会は古代から中世初期に起源をもついくつかの祈祷文を共有しているが、東西教会の分裂以降制定され、したがって特定教派にのみ行われる祈祷文も数多い。

また同じ祈祷文を用いることがあっても、それを用いる状況・時節等の定めを異にすることもしばしばみられる。定まった祈祷文を収録した本を祈祷書という。

公的な礼拝を典礼奉神礼等と呼ぶ。

これはギリシア語ではライトゥルギアと呼ばれ、「人々の仕事」を原義とする。

一般に公的な礼拝は、あらかじめ定められた形式・祈祷の文言に則って行われ、しばしば奏楽や歌唱を伴う。

ミサ聖体礼儀はこのような典礼の代表的なものである。伝統的教会における典礼には、時刻を決めて行われるものがあり、これを時祷、時課等と称する。

時祷の習慣はユダヤ教から受け継がれたもので、修道院で発達し、1日に9回ないし8回の祈祷を行うのを基本の形とする。伝統的教会には、キリスト教本来の祈祷は、このような集団があらかじめ定められた形式での祈祷であるとする見解がある。

これに対して、プロテスタントをはじめ、個人の祈祷を重視する立場がある。

祈祷は、声に出して行われることもあれば、黙して行われることもありえる。

歌唱を伴うものを「聖歌」「賛美歌」等と呼ぶ。東方教会では、基本的に、すべての祈祷は歌唱を本来の形とする。

他者に神の恩寵が施されることを願う祈りを代求、執成しの祈りという。

伝統的教会における聖人への祈願は、基本的に、聖人に神への代求を願う祈りである。

プロテスタントは一般には聖人への祈りを否定している。

 

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南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)

2022年11月25日 11時48分11秒 | 社会・文化・政治・経済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)とは、仏教で用いられる言葉である。

南無」はnamoサンスクリット語)の漢語への音写語で「わたくしは帰依します」を意味し、「妙法蓮華経」の五字はサンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ (saddharmapuNDariika-suutra、सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र) 」を鳩摩羅什[注釈 1] が翻訳した版の法華経の正式な題名(題目)である。

「南無妙法蓮華経」の七字で「法華経の教えに帰依をする」という意味である。

これらの文字を五字七字の題目とも呼ぶ。(浄土教系の宗派では「阿弥陀仏に帰依する」の意味で「南無阿弥陀仏」「南無不可思議光如来」「帰命尽十方無碍光如来」などと阿弥陀仏の名号を唱えることがあるが、これらの称名念仏題目とは認められていない。)

日本における妙法蓮華経(法華経)信仰[編集]

日本では、615年には聖徳太子が著したとされる『法華義疏』の中に「妙法蓮華経(法華経)」が紹介されている。

聖徳太子以来、日本における仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本には縁の深い経典として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており、聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。

平安時代初期には、「妙法蓮華経(法華経)」を根本経典とする天台宗の祖である最澄も「妙法蓮華経」を至上の教えとしており、現在も天台宗においては朝の勤行に「南無妙法蓮華経」を唱えている。

鎌倉新仏教においても妙法蓮華経は重要な役割を果たした。

 
如来神力品。江戸期の両点本(経文の漢文の右側にふりがなで「真読」を、左側に訓点で「訓読」を示してある)

曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも妙法蓮華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。

臨終の時に彼が読んだ経文は、妙法蓮華経の如来神力品であった

日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。

近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として加藤清正は法華経を納経している。

近代においても妙法蓮華経は、主に日蓮を通じて多くの小説家・思想家に影響を与えた教典である。

島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話小説家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(革命家)、石原莞爾(軍人)、創価学会を結成することとなる牧口常三郎戸田城聖(両者とも元教員)らがよく知られている。

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人間の内面的な変革が重要である

2022年11月25日 10時38分54秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽人も自分も共に喜ぶことが「真実の歓喜」である。

人との関わりの中でしか本当の歓喜は生まれない。

▽人の心は、人の優しさと温かさによってしか、元気にしていくことができないのだ。

▽特別な人が、特別な行為をするのではなく、それぞれが身近な場所で、自分にできる「何か」を見つける。

その連続の中で生まれる力の大きさを「草の根」の連帯は教えている。

陰に隠れそうな庶民の地道な活動をたたえる。

▽とりわけ、女性に力を「与える」というより、本来女性が持つ力を「引き出す」ことに思い立っている。

▽対話とは「聞く力」だ。

相手が何を語るのか。それが自分に何をもたらすのか。

相手を決めつけたり、自分が不安になる必要もない。

そうした空間をつくることだ、全ての女性に「声」を与えることになる。

▽「利他」の実践。その行動が、人種や民族、国境といった枠を超えて、多様な人々を包摂していく。

▽それぞれが抱える現実的課題を乗り越える方途として、人間の内面的な変革が重要である。

戦争は人の憎しみの心や生命の軽視から生まれるのだから。

▽人類の平和と繁栄が危ぶまれる「危機の時代」に私たちはいる。

いかなる時代や場所でも、人間一人一人の幸せがあってこそ「世界平和」といわれる状態を実現できる。

▽戦争や紛争がなくとも人権の抑圧や慢性的貧困といった「地球的問題群」が私たちの眼前に立ちはだかっている。

▽抽象論ではなく、実際に何ができるか模索する「開かれた対話」。

人間の精神には、どんな困難な状況でも打開し、より豊かで実りある価値を創造し、平和を成し遂げる力が備わっているはずだ。

 

 

 

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目の前の課題にベストを尽くすこと

2022年11月25日 10時11分58秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽行き詰ったら原点に戻ることだ。

▽大事なのは裏方の存在。栄光の陰には、スポットライトの当たらない影の人の労苦がある。

▽励ましは、人の声を「聴く」ことから。

真摯に耳を傾け誠実に向き合う心が大切。

▽近隣の小さな集いに多様な人の連帯がある。

それは生命の触発の場でありオアシス。

▽真剣な一人の行動が皆の心を鼓舞する「誰か」ではない。

自分が壁を破ることだ。

▽飛躍的な成長の過程には、幾つかの苦悩の壁を破る道程である。

苦しみを乗り越えたあとには、見違えるような、広々とした挑戦の場が開けるものだ。

▽努力が報われず、希望を失いこともある。

だが、それで人生が決まるわけではない。

使命の道は他にあるかもしれまい。

遠回りをして、後で夢がなかうこともあるもだ。

大事なのは、目の前の課題にベストを尽くすこと。

 

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