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文字・活字文化の日 10月27日

2022年10月27日 11時20分00秒 | 新聞を読もう

文字・活字文化の日は、2005年に施行された文字・活字文化振興法に基づいて制定された日本の記念日

概要

2005年7月に議員立法として、文字・活字文化振興法が施行された。

この法律は、日本における文字・活字文化の振興に関する施策の推進を図り、知的で心豊かな国民生活及び活力のある社会の実現に寄与することを目的としている

この文字・活字文化振興法の第十一条により10月27日を「文字・活字文化の日」とすることが定められた。

なお、10月27日は読書週間11月3日文化の日を中心とした2週間)の最初の日でもある[2]。この期間、さまざまなイベントが、図書館や出版社、書店などで開催される

 

公益財団法人 文字・活字文化推進機構 

団体概要ご挨拶

日本の学校教育は、いま、明治の学制施行以来、最大の転機を迎えています。

 政府は2024年度のデジタル教科書の本格導入をめざし、すでに小学校、中学校の全児童・生徒にタブレット端末の配布を終えました。

日本が国際社会を生き抜き、リーダシップを発揮するためには、情報通信を基盤とする先端技術を活用して各分野の改革を促進することは、時代の流れに対応した施策の展開として歓迎すべきことです。

 しかし「学校教育のデジタル化」一辺倒には慎重でなければなりません。学校教育は「経済の論理」ではなく、「子どもを育てる」という人類の将来と深くかかわる本質的な問題を内包しているからです。

教育を通じた人間性の豊かな涵養は、どのような教育教材・教育方法が最適なのか、国民的な論議をさけてはなりません。

 当機構は2007年の設立以来、文字・活字文化の振興に取り組み、制度・政策の面でも大きな成果をあげてきました。

この成果を踏まえ、持続可能な「創造的な国づくり 言語力で日本の未来を拓く」の理念を掲げて前方に着実に邁進する決意であり、引き続き、各界のみなさまのご指導・ご支援をたまわりますようお願い申し上げます。

公益財団法人 文字・活字文化推進機構 
会長 河村建夫

基本理念

私たちは「子どもの読書活動の推進に関する法律」や「文字・活字文化振興法」の具現を通じて、国民の言語活動(読む・書く・考える・伝える)を支援し、文化の発展と創造的な国づくりをめざします。

私たちは文字・活字文化推進機構を担い、そして応援します。

概要

名称
公益財団法人 文字・活字文化推進機構
Characters Culture Promotion Organization
設立年月日
2007年10月5日
基本財産
1億円
事業年度
毎年4月1日から翌年の3月31日
連絡先
TEL: 03-3511-7305
FAX: 03-5211-7285
メール
以下のフォームをご入力ください。
お問い合わせ
所在地
〒101-0051
東京都千代田区神田神保町2-2-30
共同ビル神保町4F
交通手段
  • 神保町駅 A3出口 徒歩2分
    (地下鉄 東京メトロ半蔵門線、都営新宿線・三田線)
  • 九段下駅 5番出口 徒歩7分
    (地下鉄 東京メトロ半蔵門線・東西線、都営新宿線)
  • 水道橋駅 西出口 徒歩7分
    (JR総武線・中央線)

こども政策の推進(こども家庭庁の設置等)

2022年10月27日 11時10分06秒 | 新聞を読もう
「こども政策の新たな推進体制に関する基本方針」(令和3年12月21日閣議決定)に基づく「こども家庭庁設置法」及び「こども家庭庁設置法の施行に伴う関係法律の整備に関する法律」が、第208回通常国会で成立しました。
このページでは、こども家庭庁に関する情報を掲載しています。

こども家庭庁

お知らせ

こども家庭庁設置法/こども家庭庁設置法の施行に伴う関係法律の整備に関する法律/こども基本法

法律名(法律番号) 成立日
公布日
資料
こども家庭庁設置法(令和4年法律第75号)
(注)こども基本法附則第10条の改正を反映したもの
(成立日)
R4.6.15
(公布日)
R4.6.22
こども家庭庁設置法の施行に伴う関係法律の整備に関する法律(令和4年法律第76号)
(注)こども基本法附則第11条の改正を反映したもの
(成立日)
R4.6.15
(公布日)
R4.6.22
こども基本法(令和4年法律第77号) (成立日)
R4.6.15
(公布日)
R4.6.22

こども政策の新たな推進体制に関する基本方針(令和3年12月21日閣議決定)

※上記画像をクリックすると資料(PDF/2,367KB)をご覧いただけます。


利根輪太郎の競輪人間学 勘違いがまさかの結果に

2022年10月25日 14時01分59秒 | 新聞を読もう

FⅠ 伊東競輪スマホで競輪買うならチャリロト

情けないが、<勘違い>が多い

つまり、思い込みや過信であり、軽率なのだ。

そんな、男に幸運が転がり込んできたのである。

昭和期の女子競輪の話と同様に、女子競輪は「つまらない」と多くの競輪ファンたちが、敬遠する。
つまり、車券的な魅力がないのだ。

この日も、女子競輪を見送る。

だが、女子競輪レースを見送っていたのに、買った8レースの車券が何と7レースになっていたのだ。

7レース

2車単

2-6(2.3倍) 

2-1(2.7倍)    

2-3(4.2倍)  

3連単 

2-6-1(4.5倍)

2-6-3(6.4倍)

2-1-6(5.6倍)

2-1-3(7.4倍)

 2-3-6(9.4倍)

オッズ表を見ただけで、車券を買う気が失せる。

そこで、8レースを検討する。

8レース

並び予想 1-7-5 2-4 6-3

レース評
捌きと差し脚は佐藤龍が一番。同県の川越に乗り白星発進。吉田次第で宿口が浮上。
捲り破壊力は佐藤博、乗る五日市も圏内。

1番人気4-2(6.7倍)

4-2
4-3
4-1
4-7
各3000円

だが、車券が8レースではなく、7レースになっていたのだ。

7レースは、2番の尾崎 睦選手が圧倒的な支持を受けていて、とても4番からの車券など買いようもない失態。
がっくりした。

1万2000円がこれで、「紙屑か!」と落胆するより、自らの愚かな<勘違い>には、言いようもなく腹が立ってきた。

頭に血がのぼったので、鎮めるために7レースを見ないで酒を飲みに行く。
だが、競輪場に戻るとまさかの結果となっていた。
最近は、3連単車券で痛いめにあってきたので、2車単勝負に切り替えた結果だった。

4-3 4万5,430円(21番人気)

4-3-6 18万5,640円(73番人気)

136万2900円の払い戻しとなる。

ちなみに、8レースは本命の4番が2着に。

2-4ラインの2番は7番選手に分断されて、あえなく失速する。

結果

7-4 2,430円(9番人気)

7-4-1 4,840円(15人気)

 

<参考>

昭和期の女子競輪

昭和の競輪創世期には、女性のプロ競輪選手だけで行われた競輪「女子競輪」が存在し、代表的な女子選手として、奈良の田中和子や神奈川の渋谷小夜子、山口の畑田美千代などがいた。

『競輪の生みの親』とされる倉茂貞助は、競輪創設時に「競馬に対抗するためには何とか新機軸をひらかねばならん」という考えから、(ショービジネス的な側面も含めて)女を走らせなければ自転車競技に新鮮味を持たせることができない、としきりに言って女子競輪の開催にこぎつけた。

まずは103名を募集し、1948年11月、小倉競輪場での競輪初開催と同時に女子競輪もオープンレースとして開催された。

倉茂は女子のレースも男子のそれと同様に車券の対象としたかったが、一条信幸に強硬に反対されたこともあり、当初はオープンレースとしての開催となった。

だが、観客からは拍手喝采で迎えられ、その反応は車券の対象となる男子の競走にも劣らないものであった。

1949年10月に行われた第2回全国争覇競輪で正式な競輪としてのレースとなり[187]、当初は女性の新職業として大いに脚光を浴びた。

のち日本サイクリストセンター(現在の日本競輪選手養成所)が設立されてからは、1951年の男子に続いて1952年4月に女子選手の全国一斉募集が行われ(ただし応募は25歳までという年齢制限があった)、この時は100名程度が採用され、2か月程度の期間で訓練が行われた。

女子選手の格付けは、開始当初はA級・B級の2層(当時の男子はA級・B級・C級の3層)とされたが、1951年3月の全国競輪施行者協議会の総会において、男子はA級・B級の2層とした上で、女子は男子B級待遇とすることが決まり、B級1班・2班の2班制となった。

当時の自転車はリムが木製であり、またバンク地面がセメントではなく板張りのところもあった。
元選手によると、移動は夜行列車が中心で、四人が向かい合うボックス席の座席と座席の間に板を渡して、足を伸ばして寝ていたこともあった。

賞金は、大卒の初任給の平均が9,000円の時代に、多い時で4万円あったという。

他に優勝者には副賞として賞品もあり、18金ネックレス、着物、鶏肉、タンスなどが贈呈されたが、宅配便などなかった時代であり、荷物はすべて自分で持って帰っていたという。

開始当初は女性誌等のグラビアで取り上げられるなど、多方面に話題を提供したこともあった。
また、主に開設記念で年に1度「ミス・ケイリン」と題した女子選手のみでの開催が行われていたことがあり、特に京王閣競輪場の開催ではオール女子選手による開催でも売り上げはそれ以外の普通開催にも劣らなかったことから、その企画が賞賛されたこともあった。

女子競輪においても特別競輪(現在で言うGIレースに相当)があり、当初は全国争覇競輪、高松宮妃賜杯競輪、全国都道府県選抜競輪、競輪祭にて女子の部が開催されていた。

だが、1957年の第12回全国争覇競輪の女子の部が直前になって突如中止されて以降は徐々に縮小され、競輪祭は1958年の第4回大会以降では実施されず、また全国都道府県選抜競輪でも1962年の第19回大会が最後となり、女子競輪が廃止された1964年時点では高松宮妃賜杯競輪のみとなった(各大会の優勝者はそれぞれの項目を参照のこと)。

畑田美千代が田中和子に取って代わって優勝した1956年の第11回全国争覇競輪あたりまでが女子競輪の人気のピークであっが、後述の理由で次第にその人気は下火となり、多くの競輪場が女子競輪の開催に及び腰となっていった。

 

7レース




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 4 黒河内 由実   10.1   捲乗り内伸
2 3 伊藤 のぞみ 1/4車輪 10.4   絶好番手交
3 6 加瀬 加奈子 1/4車輪 10.5   B 前受先行し
4 2 尾崎 睦 タイヤ差 10.2     捲り及ばず
× 5 1 中村 由香里 1/2車身 10.0     後方追走し
6 5 岡村 育子 大差       加速に離れ

 

8レース




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 7 五日市 誠   10.0   巧牽制差す
2 4 佐藤 龍二 1/2車身 9.8   後方踏上げ
3 1 佐藤 博紀 微差 10.2     脚使い捲る
× 4 3 宿口 潤平 1車身1/2 10.3     牽制及ばず
  5 5 佐々木 省司 1車身 10.1     張り飛んで
6 6 吉田 昌司 1車身 10.6   B 打鐘先行し
7 2 川越 勇星 2車身 10.5     再三牽制受
 

断じて戦い抜こうとする熱き一念

2022年10月21日 09時26分52秒 | 新聞を読もう

▽僕ら一人一人がかけがいのない存在-詩人・ホイットマン

▽皆が互いに尊重し力を合わせる社会のために貢献する。

▽<たとえ、一人になっても持ち場で頑張る>という責任感。
同時に皆で力を合わせてという<団結の心>が必要だ。

▽勝敗の成否を分けるのは、断じて戦い抜こうとする熱き一念。

▽<私は若い>という意識は健康を増進させる。

▽自身の生命の境涯が、そのまま仕事に反映されるものだ。

▽<絶対に諦めない><自分ならできる>と一歩も引かないで挑戦する。

▽自分というミクロな世界が、宇宙というマクロな世界と融合しつつ作り出すダイナミックな一つの命―そこに生きた芸術がある。
人間の可能性を引き出す「価値創造の空間」に。


生きづらさとは?

2022年10月21日 09時09分20秒 | 新聞を読もう

生きずらさには、二種類ある。
一人一人が個別に抱えている生きづらさと、社会が共有している生きづらさである。

「多様な生きづらさ」と「共通の生きづらさ」とも言えるだろう。

現代の日本に共通しているのは、一言で言えば「将来への不安」。

経済面で言えば、1997年に実収入が頭打ちとなり、実収入が300万未満の世帯が全体の3割、400万未満が5割を占めている。

特に注目すべきことは、現在、共働きの世帯が圧倒的に多いことだ。
つまり、二人で働くようになっても、30年前と同じ水準だといことだ。

この間に、自己責任が問われる社会になった。
高度経済成長期のように「頑張れば報われる」「明日か今日より豊かだ」と皆が思えた時代であれば、自己責任でも良かった。

 


  


すぐ怒る人の心理

2022年10月20日 11時58分19秒 | 新聞を読もう

smartlog.jpからの引用

 怒ることで相手に対して自分を大きく見せたい
すぐ怒る人は、実はとても小心者である可能性があります。

本来はとても小心者にも関わらず、上司などの人の上に立つ立場となった場合、まずは「人から見くびられないようにしたい」という心理が働きます。

そのため、人に怒ることで自分は怖い人間であると認識させようとするでしょう。

すぐ怒る裏には、本来は小心者の自分を隠したい心理があるのです。

すぐ怒る人の心理2. 完璧主義で、自分の思い通りに物事が進まないと苛立つ
すぐ怒る人の中には、常に自分自身が正しい、自分が世の中のルールである、と考えている人もいます。

そのため、自分のやり方や考えと少しでも違った物事があれば、間違いであると判断して排除しようとするでしょう。

少しでも自分のやり方や思い通りに物事が進まないと、
自分を否定されたと思う心理があるため、すぐに怒ってしまうのです。

すぐ怒る人の心理3. プライドが高く、自分が常に正しいと思っている
すぐ怒る人はプライドが高く自分が正しいと思ってる

すぐ怒る人の中には、とにかく自分が大好きで大切と考えている人もいます。

そんな大切な自分自身が、誰かにバカにされたり、けなされたり、誰かよりも劣っていたりするのは耐えられないでしょう。

自分のことが大好きで、自分を傷つけたくないという、誰にも負けたくないプライドの高さから、自分の品位を守るために先手を打って怒っておこうとします。

プライドが高い人の原因や特徴とは。負けず嫌いを治す方法まで解説!
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すぐ怒る人の心理

日頃からストレスが溜まっている
そもそも怒るという行為は、何かに対して不満やストレスを感じ、それを排除するために感情を怒りで爆発させること。

日ごろから不満やストレスを解消せずにいると、積もり積もって常に不満やストレスを抱えている状態になり、いつでもすぐに怒る状態になってしまうのです。

誰これ関係なく当たり散らすすぐ怒る人は、何らかの不満やストレスと思っていることが考えられます。

すぐ怒る人の特徴|ちょっとしたことでキレる人の共通点とは

すぐ怒る人の特徴

近所にすぐ怒る男性がいて怖い、職場の上司がすぐ怒るので周りの雰囲気が悪くなってめんどくさい、など。

すぐ怒る人の特徴1. 執着心が強く、いつまでも根に持ち続ける
すぐ怒る人の中には、物事に対する気持ちの切り替えが苦手な人もいます。

いつまでも過去の失敗や失態を引きずってしまうため、気持ちがイライラして怒ってしまうのです。

例えば、誰かのミスによって自分の評価が落ちてしまったとしたら、いつまでもそのことを根に持ち続けるのも特徴。

何かがあった時には「あの時お前のせいで自分の評価が落ちたんだ」と過去をぶり返して、いつまでもネチネチと怒るでしょう。

すぐ怒る人の特徴

理屈っぽく自分の意見を人へ押し付けやすい
すぐ怒る人の中には、自分の意見は絶対に正しいと信じて疑わない人もいます。

もしも自分の意見を曲げたり、意見を聞かなかったりする人が現れたら、自分の意見を押し付けるために全力で怒るでしょう。

職場の上司でも、今までのやり方を変えようとしたらいきなり怒鳴られた、という経験をした人も少なくありません。

上司にとっては、今までのやり方が一番正しいと信じていて、それを他人に押し付けるためにすぐに怒るのです。
すぐ怒る人の特徴3. 何事に対しても熱しやすく冷めやすい
すぐ怒る人は熱しやすく冷めやすい

感情の起伏自体がとにかく激しく、すぐ怒るけれどもすぐに忘れる、という人がいませんか。

とにかく感情的なため、その人はちょっと気に障ることがあればすぐに怒りますが、逆に嬉しいことがあればすぐに笑顔になりますし、悲しいことがあれば涙してしまうかもしれません。

子供並みに何事に対しても熱しやすく冷めやすいため、すぐに怒ってしまうのです。

熱しやすく冷めやすい男女の特徴10選|飽き性な性格を改善する3つの方法とは
感情の起伏が激しい人の特徴&原因|気分に波がある男女が喜怒哀楽をコントロールする方法
タップすると移動します

すぐ怒る人の特徴4. 神経質で細かい部分までケチをつけてしまう
「どうしてこんなところまで気が付くのだろう」と思うくらい、何事にも細かくて神経質な人。

神経質な人は、人が気にしないところまで気になってしまうため、どうしても他の人よりも気持ちがイライラしやすい気質を持っています。

例えば、書類のファイルの順番がバラバラだったとします。おおらかな人は全く気にしませんが、神経質な人は気にしてしまい、イライラしてすぐに怒りやすい状態になるのです。

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すぐ怒る人の特徴5. せっかちな性格ですぐに結論を求めようとする
身近に「早くして!」とすぐに怒る人はいませんか。せっかちな性分の人は、とにかく早く結果や結論を出して安心したい、という心理から人を急かします。

そのため、相手がもたついていたり、スムーズに物事が進まなかったりするとイライラして、怒りが爆発するのです。

例えば、職場でも大切なお客様にお茶を用意している横で「お客様に失礼があってはいけない」という心理からイライラし、「早くお茶を出して!」とすぐ怒ってしまうでしょう。

せっかちな人のあるあるな特徴とは?

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せっかちな人の心理やあるあるな特徴を解説すると共に、せっかちな人がやってしまう注意点を解説していきます。

すぐ怒る人の特徴6. プライドが高く、冗談を真に受ける
すぐ怒る人はプライドが高く冗談を真に受けやすい

生真面目な人は比較的すぐ怒る人も多いです。これは、物事を真正面からしか捉えられない視野の狭さと、自分がいつでも一番正しいというプライドの高さを併せ持っているからです。

飲み会の席などで冗談を言われたり、からかわれたりしたとしても、冗談と受け取れず自分が否定されたような気分になるため、すぐに怒るでしょう。


すぐ怒る人の特徴.

論理的思考が苦手で、感情に大きく左右されやすい
常に冷静沈着な人は、論理的に物事を考えているため感情で行動しようとすることはありません。

一方で感情の起伏が激しい人は、論理的に考えるのではなく逆に感情の赴くままに行動してしまうため、すぐに怒ったり泣いたりと感情的になってしまうでしょう。

仕事上で何か失敗した人がいれば、とにかく失敗をフォローするのが先決。ところが、すぐ怒る人は失敗をした人を責めることに注視してしまうでしょう。


すぐ怒る人の特徴8. コンプレックスや劣等感を抱えている
人は誰でも自分が可愛いと思いますよね。特にプライドが高い人やナルシストな人は、自分可愛さ故に人一倍傷つくことを恐れています。

さらに、可愛い自分を傷つける要素であるコンプレックスや劣等感はひた隠しにしようとします。

もしも誰かが自分のコンプレックスや劣等感に触れるようなことをすると、傷口をえぐられるようなショックを受けてしまうでしょう。

自分が傷つくのが怖いため、コンプレックスや劣等感に触れられないように先に怒って威嚇をするのです。


すぐ怒る人の特徴9. 意外と小心者で、内心では周囲からの印象を気にしている
すぐ怒る人は意外と小心者

本当は自分が怒られるのが怖い、周りからバカにされたり評価が落ちたりするのが怖い、と思っているのも、すぐ怒る人の特徴の1つです。

これは、臆病な自分を隠すために、自分よりも弱い立場の人にすぐ怒ったり怒鳴ったりすることで、自分の威厳や怖さを誇示しようとしているから。

逆に自分よりも立場の大きな人や、本当に怖い人には怒らないはずですよ。

すぐ怒る人の特徴

支配欲が強く、人よりも優位に立ちたがる
すぐ怒る人の中には、怒ることを人に自分の立場を誇示したり、マウントを取ったりする手段として用いている人もいます。

人よりも優位に立ちたがりますが、仕事で成果を出せなかったり、他の面で勝てる要素がなかったりします。

どうしても自分の立場を保つことに執着してしまうから、すぐ怒る手段にしか出られないのです。

支配欲が強い人の特徴・心理・原因とは|自分の思い通りにしたい男女への対処法も解説!

怒りっぽい人になってしまう主な理由や原因

怒りっぽい人は生まれ持った気質や性格だけでなく、実はその人自身を怒りっぽくさせてしまった理由や原因もあるのです。

どのような理由や原因で怒りっぽい人になってしまうのでしょうか。

具体的な理由や原因を知ることで、もっと怒りっぽい人とも上手に付き合えるようになりますよ。

怒りっぽくなる原因
周囲から怒られた経験がないため
ストレスをうまく発散できていないから
自己顕示欲が人よりも強いから
普段から人を見下しているから


怒りっぽくなる原因

今まで親や上司など、周囲から怒られた経験がないため
人は自分の経験から、「これをしたら人に嫌われるから止めよう」ということを学び、それを避けますよね。

ところが、すぐ怒る人は、すぐ怒るのは人に嫌われる行為であると分かっていないからこそ、すぐ怒ってしまう場合があります。

自分自身が親や上司などの周囲から怒られた経験があまりなければ、「怒られることはとても辛い事」というのが分からないため、怒ることに抵抗のない人になります。


怒りっぽくなる原因2

ストレスをうまく発散できていないから
どうにもならない慢性的なストレスが、実は怒りっぽさの原因になっていることがあります。

不満やストレスがたまると、寝不足や慢性疲労などの体の不調としても出てきます。さらに、不満やストレスの原因に対する憎しみや怒りもどんどん高くなってきて、気分もイライラして怒りっぽくなりますよね。

当然ストレスをためたままにしていると、より怒りっぽい状態が続くことになってしまうでしょう。


怒りっぽくなる原因3.

自己顕示欲が人よりも強いから
怒りっぽく徳仁は自己顕示欲が強い

自分がとにかく大好きで大切という人は大切な自分が傷つくのをとにかく恐れています。

普段は大好きな自分は素晴らしい人間だと周りの人にも伝えたいと思っているため、自分の成果や評判を誇示しています。

そんな大切な自分をおとしめたり、少しでもバカにしたりする人に対しては、大きな怒りをぶつけるでしょう。

「我が強い」とはどういう意味?

我が強い男女の原因・特徴・直し方を大公開!「我が強い」とはどういう意味?我が強い男女の原因・特徴・直し方を大公開!
今回は、我が強い男女の詳しい特徴から我が強くなってしまう原因、さらには我が強い人への対処法までご紹介していきます。

怒りっぽくなる原因4.

プライドが異常に高く、普段から人を見下しているから
プライドの高い人は、自分の立場や面子に強いこだわりを持っています。

自分の立場や面子をとにかく保つために必死なため、自分を上げるために人を下げることも日常茶飯事。

逆に、大切な自分の立場や面子をつぶされるような発言があれば、例え冗談だったとしてもすぐに怒るでしょう。

人は簡単に下げるにもかかわらず、自分が下げられるのは我慢できないのもすぐ怒ってしまう原因の1つでしょう。

急に怒る人は嫌われる?

感情的になりやすい人のデメリットとは
怒りっぽい人のデメリット

職場から日常生活まで、すぐに怒る人がいると男性、女性問わず雰囲気が悪くなってしまいますよね。

すぐ怒る人は嫌われる要素も多く、デメリットもたくさんあります。

もしも誰かに「あなたは怒りっぽいよね」と言われたときにチェックしたい、怒りっぽい人の3つのデメリットを紹介します。

すぐ怒る人のデメリット
周囲から怖いと思われ、距離を置かれてしまう
喧嘩やトラブルに発展する
感情がコントロールできない未熟な人と思われる


すぐ怒る人のデメリット1. 周囲から怖いと思われ、距離を置かれてしまう
人間が怒っている姿は、人に恐怖心を与えて周りの雰囲気も悪くなりますよね。さらに、口調も荒くなり物に当たったりすると、暴力的で粗野な印象も与えてしまい、何かトラブルに巻き込まれるかもしれないと思い、誰も近づきたくなくなります。

すぐに怒る人は、当然「怖い」と思われる回数が人よりも多く、さらに「近づかない方が良い」と思われてしまい、気が付くと自分の周りには誰もいなかった、ということも少なくありません。


すぐ怒る人のデメリット2. 他にも気が強い人が居た場合、喧嘩やトラブルに発展する
怒っている人が一人いるだけでも、周りの雰囲気は重く悪くなってしまいます。ところが、怒っている人に対してすぐに注意をするような気が強い人がいれば、この二人が衝突してしまう可能性が高くなります。

すぐに怒る人が実は小心者だった場合、誰かに注意されればそこで場が収まる可能性もあります。しかし、プライドが高かったり乱暴だったりすると、今度は喧嘩に発展してしまうかもしれません。喧嘩がヒートアップすると、大事故や警察沙汰になってしまうこともあるでしょう。


すぐ怒る人のデメリット3. 感情がコントロールできない未熟な人と思われる
怒りっぽい人は感情のコントロールが出来ない未熟な人と思われる

人間が社会に出て生活する上では、例え嫌な事や辛い事があっても表に出しませんよね。相手に不快な思いをさせないのも、社会人としての大切なマナーです。

つまり、仕事上のことですぐに怒る人がいれば、感情的になってはいけないという社会人としてのマナーが守られていない人ということになります。

大人や社会人として未熟だ、と思われるのもデメリットの一つです。

仕事上や職場など、すぐに怒る人と接するとめんどくさいと思ったり、付き合い方に悩んでいたりしませんか。


道理や証文より現証が重要である

2022年10月17日 11時09分51秒 | 新聞を読もう

道理とは
物事の正しいすじみち。
また、人として行うべき正しい道。ことわり。

単に理とも。正しい筋、正し法則、をいう。

「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。

証文(しょうもん)とは
「文証」とは、その宗教の教義がよりどころとする経文、聖典のうえで裏づけをもっているかどうか、ということです。

文証に基づかない教義は、所詮、自分勝手な主張になるからです。

仏教であるなら、釈尊の教え、すなわち経文に基づくものでなければなりません。

現証とは
その宗教の教義に基づいて信仰を実践した結果が、
生命や生活、そして、社会にどのように現れたか、ということです。 
宗教とは、観念的なものではなく、人々の生活や人生に必ず大きな影響を与えるものです。 
そして、その信仰の実践が現実の上で、どう生活や人生に影響を与えたかで、宗教の勝劣浅深を判断していくべきです。

  


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化

2022年10月17日 06時56分17秒 | 新聞を読もう
 
竹内 洋  (著)
 

商品説明

   本書のタイトルを目にして戸惑いを覚える向きも、決して少なくはないだろう。
教養主義などと呼ばれる姿勢は、まさに「没落」して久しい。なにを今さら、と感じても当然だし、そもそも教養主義なることばを知らない読者もあまたいるはずだ。
少々古めかしい本と思われても止むを得ないかもしれない。ところが、こうした印象とは裏腹に、本書はきわめてユニークで刺激的な文化論となっているのである。

   教養主義とは、読書を通じて得た知識で、人格を磨いたり社会を改善していこうとする人生観のこと。

大正期の旧制高校ではぐくまれた思潮で、戦後も1970年前後までは大学生の規範文化だった。

本書はさまざまな文献や統計を素材に、教養主義の盛衰を実証していく。

たとえば、勉強時間や書籍費、スポーツへの関心などについて教養主義の担い手たる帝大文学部生と他学部の学生を比較したり、学生の検挙率からマルクス主義の浸透を解読、または、大学生への読書調査をもとに、戦後、「世界」「中央公論」といった総合雑誌が読まれなくなっていくさまを提示する、といった具合である。

こうした検証だけでも充分おもしろいが、「いったい教養主義とはなんだったのか」という考察にまで筆が及んでいるところが、なにより注目に値する。

   著者によれば、教養主義を支えたのは、都市の気風よりも、むしろ農民的刻苦勉励の精神である。

これも単なる印象ではなく、帝大文学部の学生は他学部にくらべて農村出身者の割合が高かったという。

知識人として文化的生活を送ることへの憧れが背後にあったと考えられるのだ。

ゆえに戦後、都市と農村の文化格差が消失し、学生がエリートでなくなったとき、教養も意味を失ったとする。

さらに本書では、大学生の権威が失墜した不安や怒りを源泉に学園紛争が起こったという見方を示しているが、これもさまざまな資料にもとづき教養主義の斜陽が述べられたあとだけに、はっとするほどの説得力を持っている。

   とはいえ、本書は単に実証的・論説的な書物ではない。

あからさまに謳(うた)うことは避けていても、教養主義に対する愛惜が端々ににじみ出ており、それが骨太なメッセージとなって伝わってくるのだ。

著者も述べているように、今後かつてのような教養主義が復活することはまずありえないだろう。

しかし、文化がますます軽く、歯ごたえのない消費財となっていく時代、そのなかにいささか学ぶべきものがあると考えても決して的はずれではあるまい。(大滝浩太郎)

内容(「BOOK」データベースより)

一九七〇年前後まで、教養主義はキャンパスの規範文化であった。
それは、そのまま社会人になったあとまで、常識としてゆきわたっていた。
人格形成や社会改良のための読書による教養主義は、なぜ学生たちを魅了したのだろうか。
本書は、大正時代の旧制高校を発祥地として、その後の半世紀間、日本の大学に君臨した教養主義と教養主義者の輝ける実態と、その後の没落過程に光を当てる試みである。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

竹内/洋
1942年(昭和17年)、新潟県に生まれる。京都大学教育学部卒業。
同大学院教育学研究科博士課程修了、関西大学社会学部教授、京都大学教育学部教授を経て、現在、同大学大学院教育学研究科教授。
放送大学客員教授。専攻・教育社会学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 

2003年の出版ながら、最近でもレビューが絶えない。
名著の一つだろう。
題名は教養主義の没落だが、著者は教養主義に肩入れしているわけでもなく、また、教養主義を嫌悪しているわけでもない。旧制高校を中心とした戦前の教養主義が戦後も形を変えて生き延びたが、1970年代から急速に衰退したことを社会学的に分析した本である。
旧制高校のファンから教養主義の定義がない、との指摘があるが、他のレビューにもある通り、定義はちゃんとなされている。
引用ばかりだとの指摘もあるが、他のレビューにもある通り、本書は新書の形を取った研究書であり、研究書において引用は論旨の根拠なので、引用がなければお話しにならない。
当レビューアーの親は、制度的な教育を受けていなかったが、教養主義や岩波文化の中にあって、そのような本を買い漁って勉強した。
その結果、何にもならなかったが大量の本が残り、本書によって、当レビューアーは、親の蔵書の時代的な位置づけを理解することができた。まことに、興味深い。
 当レビューアーが、教養課程にいたのは70年代の終わりだったが、最初の語学の授業の教官が入ってくるなり40分間、英語で話し続けたのには驚いた。
高名な米文学者で評論家であることを後で知った。法経のクラスだったので、多くの学生は語学の授業をサボって麻雀をしに行ったが、真面目に出ていれば、人生の肥やしになった。
教養主義が没落しても、教養や知識が全て無意味になるわけでもなく、小林秀雄や戦後のマルクシズムを見返し、石原慎太郎がいいと言ってみたところで、それが万人の理想になるわけでもなかった。
将来に向かって、人生における教養の意味は、別途、考える必要があるだろう。
 20年も前の本ながら、1カ所、ルビに誤りがある。松波仁一郎は、「じんいちろう」と読むのは誤りで、「にいちろう」が正しい。
 
 
 
昔の大学生は本当にたくさん本を読んでいたんだなあ、という事実を改めて思い起こさせてくれる本である。
大事なのは、本書は教養の大切さを論じた本ではなく、主に大学生において教養主義(教養が大事だ、という考え方)がどのように変遷していったか、ということを追った本である。
そして結論として、そんな考え方は既に今の大学生にはない、という。

 著者によれば、昔(戦中、戦前)の大学生というのはとにかく難しい本を読む人、というイメージだったそうである。
私はもっとずっと新しい時代に生きているけれど、田舎のことゆえ周囲に大学生という存在がなく、殆ど同じようなイメージを抱いていたことを思い出す。
また、本書を読んで実に久しぶりに「三太郎の日記」(阿部次郎著)などという本を思い出した。
著者によって哲学めいた教養書の代表的な本として名指しされているこの名著を、私も大学に入りたての頃に読んだ。
ただ、内容を覚えていないことを考えると余り良く理解できなかったものと思う。
しかし、とにかくわかろうと努力したことは事実で、知的な格闘はした痕跡がある。

 また、中央公論という雑誌が大学生にとってとても重要な地位を占める本だったということを初めて知った。
私の中では子供の頃からずっと大人、つまりおじさんの雑誌という位置づけだったのだが、昔の大学生はこれを教養の一部としてわからなくても購入していた、という。
最近では文藝春秋との境界も曖昧だが、昔は中央公論の方がずっと格上だったということである。

 なぜ没落したのか、ということを本書はつきつめて書いていないのだが、確かにつきつめて考える特段の理由もなく、ただそれが時代の流れだということもできよう。
しかし、やはり大学生というのはいつの世も知性の代表的な存在でありたいと願う。
せめて東大や京大のエリート学生は、他とは一線を画する知のオーラのようなものをずっと発散していて欲しい。
大学生の知性が退潮傾向にある今となってはもう遅く、ただの夢なのだとわかってはいるのだけれど。
 
 
 
 かつて教養主義という時代があった。
 著作や翻訳は故意に難解にされ、読解は困難を極めた。
 たとえば、本書に吉本隆明の次の言葉が引用されている。
『「革命」とは「現在」の市民社会の内部に膨大な質量でせり上がってきた消費としての賃労働者(階級)の大衆的理念が、いかにして生産労働としての自己階級と自己階級の理念を超えてゆくか、という課題だと考えております。』(p.229)
 こういうのが有り難がられたのは、理解したふりをすることがかっこよかったからで、本書でも所々触れられている(たとえば冒頭での三島由紀夫の引用)。
 本書は、戦前からの、この教養主義が崩壊してゆく過程を書いたものだそうだ。

 それにしても、本書を読んでいると、小学生の作文を読まされている気分になる。
 単調で起伏の全くない文章。
 石原慎太郎を引用している部分なんかは引用なのでいきいきとしてて、で、その引用が終わって作文に戻ると、砂をかむ思いに戻る。
 対比が鮮やかで、実に!分かりやすい。
(知らなかったが石原慎太郎は筆の立つ人には違いない)。

 上の吉本隆明がビートたけしにやられたのがよほど悔しかったのは、分かる気がする。
 だが、「耳穴っこ」なんて誰も知らない言葉(Weblioやgoogleで調べてみよう)で悔しさを言い表すよりか、この言葉の出典だというポール・ウィルスという人が世界にどのような角度で切り込んだのか、それを書く方が教養というものだろう。
 『「耳穴っこ」なんて言葉、知らないだろう!この無教養漫才師め、ざまあみろ!』という著者のメンタリティーが透けて見える。
 このメンタリティーこそがファッションに過ぎない教養主義の本質であって、当時ビートたけしに攻撃されたポイントだというのに、著者は更にそのポイントにわざわざ特攻していくのである。耳穴っこ!

 ところで、あの頃大流行したニューアカには全く触れていないが、一体なぜなのか。
 浅田彰は著者と同じ京大の人なのに、大ヒット作「構造と力」が本書には登場しない。
 片手落ちのような気もするが、分かる気もする。触れたくないのだ。
 あのニューアカこそ教養主義のバブルだったと個人的には思っている。
実体のないバブル状態の信用が膨らんでニューアカではじけたとき教養主義は崩壊して、あとはぺんぺん草一枚生えなくなった、そういう理解をしている。
 この点著者は、学生のサラリーマン化とか、更に「サラリーマン予備軍には専門知や教養知を必要としないのである。」(p.208)という学生側の変化によって教養主義が終焉を迎えたと書いている。
 たしかにあの頃の大学はディズニーランドと言われたが、しかし、そのような学生に教養を身につけさせることができなかったのであれば、それを教える著者の側に責任があるのではないか。教養課程の2年間とは、いったい何だったのだ。
 だから、教授である著者は、実は教養主義の崩壊に荷担した側なのだ。

 この著者の唯一の功績は、戦後日本のこの暗黒時代を(教養ではなく)「教養主義」と命名したことだろう。ただ、著者はこの教養主義の時代を暗黒とは思っていない。
 なお最近は、光文書古典新訳文庫など分かりやすいシリーズが発刊され、いい時代になったなあという思いが個人的に強い。
 こういうわかりのいいものを肥やしにするのが、遠回りだが確実な方法だと信じている。

 本を読んだこと自体が大事なのではないし、それ自体は何のステータスにもならない。ファッションは実体を伴わない。
 その本を読んで、どう考えどう思ったか、その消化とそのことを人に伝えること、こちらの方が大切なはずだ。
 自分はここで、この本を読んでいろいろ思ったことを、当時の記憶も併せて書き連ねた。
まったく愚かしい時代だった。長文になってしまってまことに申し訳ない。

 小学生の作文が続くだけという意味では星1つだが、教養主義という暗黒時代さ加減が期せずして現れているという意味では星5つのこの本に、間を取って星3つ。
 
 
 
大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年代頃までの日本の大学キャンパスに見られた
教養と教養主義の輝きとその後の没落過程を改めて問題として考察した書(P25より)。
教養主義とはどのようなものだったか、ということが理解できたのは収穫だった。

著者いわく教養主義とは、哲学・歴史・文学など、
人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度である。
その精髄は、農村の若者たちの「西欧文化志向」と「成り上がり志向」にあり、
公卿や武家とは違う、新興のブルジョア階級の精神的拠り所となった。

また教養主義とは、万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である。
それは学識を積んだ者とそうでない者との間に、強制的な上下関係・支配関係を作り、
一種の特権階級として機能した。

ところが1970年代になると、人口増加に伴い大学生の数が増え、
ほとんどの生徒が大衆的サラリーマンになることが分かると、
学歴エリート文化である特権的教養主義に、文化資本としての魅力は無くなった。
また、農村と都市の生活格差が無くなったことから、教養主義の土台も消滅した。
さらに現代の大学生は、人間形成の手段に従来の人文的教養を必要とせず、
代わりに友人との交際を選ぶようになっている。

著者は、現在の教養主義の凋落の状態を、ビートたけしを例に出して以下のように書き表している。
『たけしという知的野郎どもは、野郎どもや大衆的平均人を観客にしながら、「優等生」と「耳穴っ子」を
いじめるのである』(P230)

人格形成が教養主義の目的であるなら、難しいことを自分だけが知って満足するのではなく、
他人に分かりやすく説明する配慮をもつことが大切なのではないかと思う。

たけしは、『オレたちのような大衆が読んでもイメージの湧かない言葉は、
何のための、だれに向けた言葉なのか。それがわからない(中略)
年寄りだけにわかる言葉を使って、現実からますます遠ざかっているのはなぜか、わからない』
(P229)とも言った。しかし残念なことに、この問いに対する著者の見解は記されていない。
 
 
 
京都大学名誉教授が書く、過去の大学の「教養」についての考察

構成は、旧制高校に存在していた「教養主義」について
新制高校と旧制高校の切り替え時に注目して考察を行っています。
特に、この切り替え時期である大江健三郎、高橋和己、石原慎太郎を比較し
「教養主義」が彼らにどんな違いをもたらしたのかを述べています。
またこの当時の色々な文化と「教養主義」の関係を述べています。
 さらに当時の「岩波書店」がどのような関係あるのかを述べて
「教養主義」の定義を行っています。
 最後にその「教養主義」が現在にどのように息づいているのか
アンチクライマックスという形で示しています。

 社会学の本として、また旧制高校を知らない世代として
このころの「教養」とは何か、どのような変遷を辿ったのかを
知る良い手がかりとして有用でした。また、
 現在に生きる私として「教養」の価値を計れるこの内容は
大学教育に求めるものとは何かを考えるうえでも私は
うれしかったです。
 
 

 

 
 
 
 

言葉の価値は、心の深さで決まる

2022年10月10日 10時00分06秒 | 新聞を読もう

▽思いを込めた言葉は、人に希望を与える。
言葉の価値は、心の深さで決まる。

▽大人の<学び直し>は人生を豊かにする。

▽強い一念があれば、乗り越えられない困難はない。
いかなる試練の冬も、必ず、希望の春へと転じていくことができる。

▽人間にはどこか、自分と違うものを持って生まれた人を排除する気持ちがある。
知らないことに対する恐怖もある。
障害がある人との接点を早い年齢のうちから持つことが大切だ。
社会的障壁を取り除いていくことだ。

▽信条や立場の違いがあったとしても、一人一人を尊重し、尊厳を軽んじないで、大事に接する。

▽誰にでも大なり小なり、できることやできないことがある。
誰もが無限の可能性を持っている。
その意味で、人はみんな一緒なのだ。

▽歴史の転換期に立つ青年たちには、時代の烈風は一段と厳しいだろう。
しかし、だからこそ、果たすべき社会的使命を自覚して勇敢に立ち向かうならば、艱難も飛翔の力へ変えて、高みへと上昇することができるだろう。

 


ユーチューブで歌謡曲を見る

2022年10月06日 21時58分27秒 | 新聞を読もう

今朝の取手市内は、午前4時気温13度に下がる。
雨が降っているので、早朝散歩を休む。
パートの仕事から午前8時に戻った家人が寒いというので、暖房にした。
室内の気温は、19度などで、暖房の設定は26度にする。
夕刻はパソコンのユーチューブで懐かしの歌謡曲を見る。
黒木憲、黒木じゅん、はじめ加門亮、石原裕次郎、井上ひろし、村上幸子、箱崎晋一郎などである。

特に、箱崎晋一郎の歌唱力は独特の味があり、抜群であった。

暖房は夕刻から石油ストーブにする。
午後5時にビッグAへ酒などを買いに行ったら、散歩する西田さんに会う。

共に傘をさして、長靴姿。

日本酒と梅酒などのリキュールが10月1日出荷分から5~10%程度値上げに。

帰り道では、西空に夕日が観られた。
パソコンで将棋をするが、上達しないものだ。
野球のクライマックスシリーズが期待される。


対話の力こそが、時代を開く平和の力となる

2022年10月01日 11時32分44秒 | 新聞を読もう

相手がいかなる国であろうと、<対話による平和の構築>は不可能ではない。

ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、平和はもう訪れないと無力感に陥るものだ。

ともすれば、対話によって平和の道を開いていくことに無力を感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。

実は、そこに平和への最大の関門がある。

目に前の一人一人との誠実な対話の広がりこそが、世界平和の道へと重なっていく。

対話によって状況を打開した実例がある。

1962年のキューバ危機では、核戦争が危ぶまれた。

1962年10月、キューバへのソ連のミサイル配備に抗議したアメリカがキューバを封鎖し、米ソの対立が核戦争の危機となった。

最終的には両国首脳の直接交渉でソ連がミサイルを撤去、危機は回避された。

 1962年10月22日、アメリカのケネディ大統領が、キューバでソ連がミサイル基地を建設し配備したことを理由にキューバの海上封鎖を発表、ソ連のフルシチョフが海上封鎖を解く目的で艦隊を派遣、両国間に武力衝突勃発の危機となった。
これは前年のベルリンの壁の建設と並んで、東西冷戦の中での米ソの平和共存が崩れる恐れが生じ、双方とも核兵器使用に踏みきるのではないかという危惧を世界中が抱いた。
しかし、米ソ首脳の自制によって危機は回避された。

背景

 キューバで1959年にカストロの指導によるキューバ革命が成功した。
キューバで社会主義国家建設が進行、アメリカ資本が追放されたことに対し、アメリカのアイゼンハウアー大統領は1961年1月3日に国交断絶に踏み切った。
さらにアメリカ政府はキューバの革命政権転覆を謀り、亡命キューバ人のキューバ侵攻を支援していた。
次のケネディ大統領もそれを継続し、1961年4月に亡命キューバ人に侵攻させ、革命政府の転覆を謀ったが失敗した。
それに対してカストロは反米姿勢を強めてソ連に近づき、ソ連もフルシチョフが第三世界への支援と核戦力の強化によって対米優位を得ようとしてキューバに核ミサイルを配備した。

アメリカのキューバ海上封鎖

 1962年10月14日、アメリカ空軍の偵察機がキューバ上空で撮影した写真で、ソ連によるミサイル基地が建設進行中であることが判明した。
これは核兵器によるアメリカ本土攻撃を可能にすることであるので、ケネディ大統領は22日夜、テレビ演説を行い、攻撃的兵器が運び込まれるのを防ぐため、キューバ周囲を海と空から海上封鎖することを宣言した。
ソ連はすでに機材と武器を積んだ艦船をキューバに向かわせていたので、アメリカの海上封鎖を突破しようとすれば米ソ間の直接衝突となり、核戦争の危機が迫った。
 危機が迫る中、両国首脳は裏面での交渉を重ねた。ソ連のフルシチョフ首相は、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き替えにミサイル基地を撤去するとの提案をケネディに伝え、10月27日に合意が成立して危機は回避された。

 


利根輪太郎の競輪人間学 なぜイン粘りをしたのか不可解!

2022年09月30日 16時01分17秒 | 新聞を読もう

FⅠ 関東C・HPCJC・スポニチ杯

2日目(9月29日)

11レース

並び予想 7-3 1-4 6-2-5

レース評
競走得点トップの三谷が変幻自在の攻めだ。
番手は椎木尾で近畿勢が人気だが、中部勢の軸になる岡本と活発な小林も魅力。


1番人気

2車単7-3(1.7倍)

3連単 7-3-2(3.4倍) 

ここでは、7番三谷 竜生選手が断然の本命◎と期待して車券を勝負。
だが、まさかの敗退である。
なぜ、三谷選手はインで粘ったのかが不可解!
あの展開では、内側の7番三谷選手と外側の2番岡本 総選手の意地の競り合いで共倒れになるのは必然。

先行する6番高橋 和也選手が2着に粘り、外から捲った4番杉本 正隆選手が1着に突き抜ける。
大波乱のレースとなる。

結果
 
4-6 5万9,990円(41番人気)

4-6-3 41万2,710円(202番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 4 杉本 正隆   11.7   直線外回し
2 6 高橋 和也 1車輪 11.9 B 番手もつれ
3 3 椎木尾 拓哉 タイヤ差 11.7     中突き強襲
4 5 西村 光太 3/4車輪 11.5     小林捌かれ
5 1 小林 令 微差 11.8     追上げ踏む
6 7 三谷 竜生 1/8車輪 11.7     飛付き競合
× 7 2 岡本 総 2車身 12.1   S 追上げられ

信じる心が子どもの「自信」を育む

2022年09月23日 11時23分10秒 | 新聞を読もう

▽「どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある」
「円熟するには、絶対に忍耐が要る」
円熟は空想や自負にではなく「固く肉体という地盤に根を下ろしている」のであって、何かが熟してくるには時間がかかる。
その「忍耐を追放して了(しま)えば、能率や革新を言うプロパガンダやスローガンが残るだけだ」評論家・小林秀雄

▽「読書は黄金の輝き」
「読書は勝利の源泉」
「読書は幸福の伴侶」

読書で思索を深める時間を持ちたい。
良書に親しむことは、それ自体が喜びであり、価値創造の根幹の力になる。

▽人に尽くす生き方の中に、幸福がある―そのことを実感する。

▽一念が変わると、不思議と心が軽くなるものだ。
内気で口下手な性格も人のために動けば変わるものだ。

▽多くの人との関わりの中で自らの生命は鍛えられる。

▽子どもたちの伸びゆく生命の輝きこそ、何ものにも勝る人類の宝であり、世界の希望なのだ。

▽「自分自身に満足している」内閣府の2018年調査で、調査対象7か国中、日本は最下位。

健全な社会建設のため、何より子どもたちの幸福のために「自信」を育んでいくことが不可欠だろう。

▽子どもたちは必ず成長していく。
今の状況だけで決めつけてはいけない。

▽全員が自分にしかできない使命を持っている。

▽未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる。


家人は同席するお客との対話が弾む

2022年09月22日 20時12分09秒 | 新聞を読もう

月に1回くらいの日程で取手駅東口の大師通りの亀寿司へ行く。
家人は、友人との付き合いで月に2回ほど。
お好みのネタを握ってもらうのだが、以前のように食べられなくなった。
それでも、ビールを飲み地元取手の酒造の金門や君万代の日本酒を飲む。
当方は無口で飲むが、家人は同席するお客との対話が弾む。
家人は、対話に人との長けている。
これまで野球観戦などで、初対面の人達との会話が弾んでいる。
それも、才能と言うべきであろうか。


日本大学 古田 重二良第四代理事長

2022年09月21日 09時13分33秒 | 新聞を読もう

古田 重二良(ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年)6月23日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の教育者。昭和時代戦後期の日本大学第四代理事長を歴任し、日大のマンモス化を達成した[2]。

私立大学の経営者(教育者)として昭和戦後期の高等教育機関が少なかったころに、マスプロ教育のシステムを導入して大学進学率上昇に貢献し、理系学部を重視した政策をとった。

また戦後期に財界から期待されてサラリーマン育成機関となった日大のビジネス教育の推進、日本の大学経営における手法を確立した。大学闘争では最大規模となる日大紛争を招いた当事者。

学校法人秋田短期大学(現・学校法人ノースアジア大学)初代理事長。

経歴
柔道学生から職員に
秋田県秋田市生まれ。教職を志し秋田師範学校に入学したものの校長の排斥運動を行ったことから退学、柔道部の先輩を頼り、日本大学専門部法律科へと進学し、学生時代には柔道部主将として学業より柔道の方に身が入っていたという。

1926年(大正15年)日本大学高等専攻科法律学科を卒業すると、日本大学高等工学校(現在の理工学部)職員と兼務する形式で柔道師範として就職する。

1945年(昭和20年)に日本大学本部の事務長に就任し、千葉県津田沼町へ疎開していた理工学部(当時は工学部・高等工学校)など日大全体の戦後復興に尽力した。

理事長から会頭に就任
1949年(昭和24年)12月に理事長に就任して会頭・総長だった呉文炳を補佐しつつ、教育と経営は一体であり私立大学は自ら財政基盤を強固めにして、自主的な経営を行う事によって私学に置ける学問の自由や研究の成果は期待できないと考えて財政基盤の強化と研究の充実に力を振るった。

1951年(昭和26年)2月に理事長を退くものの、同年5月には理事会長として復帰。更に1956年(昭和31年)の企画委員会総会では委員長の古田が「今日の内外の情勢と大学のあり方」というテーマで以下の様に発言している。

皆様が承知の通り大学の使命重要度は増加してきた。社会は月進歩月歩の古語があるが、今日の社会進歩のスピードが早く、世界各国の距離間隔はせばまり一国の状況は他の国々にも大きな影響を与える。各国は一日と安心せず、研究が盛んに続行して止むことなく研究と教育の最高の場が大学である。大学の使命が世界的重要度があるのは当然である。世界各国とも大学のあり方に対する関心が高くて異常なものである。

1958年(昭和33年)6月に呉の後を受けて会頭に就任すると共に、永田菊四郎総長と二人三脚で世界的総合大学を目指し、新体制のもと学内外の情勢の変化に積極的に対応して、同年9月に世界的なを目指すための日本大学改善方策案を掲示した。

日本大学は日本精神にもとづいて・道統をたっとび憲章に従い自主創造の気風をやしない文化の進展を図り世界の平和と人類の福祉に寄与することを目的とする。

日本大学は広く知識を世界にもとめて深達な学術を研究して心身ともに健全な文化人を育成する事を使命とする

この改善案は、

原則として創意工夫して最小限の経費から最大限の効果をあげる。
教育内容の拡充強化を図る。
総論で世界的総合大学を目指して整備計画案の政策への対応
として組織の拡大・マスプロ教育を目指し、学習機能・研究機能・就職機能・校友会の強化、広報の合理化、教育は建学の精神である伝統的精神を方針とした。当時高まりつつあった学生運動に対しては学生の政治活動を制限し、教授陣の強化のため海外・国内留学制度を強化、研究出版助成制度の創設と組織改革を行った。

大学院や短期大学部の再検討、女子教育や夜間教育の充実も挙げられていた。各学部・学科の校舎や医学部病院など施設設備を強化するために「3ヵ年計画」を作成し、教育・研究内容の改善や教職員の待遇改善と教授陣の強化を図った。

だが、この「3ヵ年計画」は不景気による資金調達の困難から設備更新や不動産取得が難しくなり新たに「5ヵ年計画」を作らざるを得なかった。更に、大学全体の教育充実と学生教職員の福利施設の拡充、育英制度の導入と学生会館・国際会館の建設、組織の近代化・合理化と産学協同の推進が謳われた。

この改善案をめぐって商経学部第二部(現・日本大学経済学部)自治会で共産党の活動家などの反対派を中心に古田の改善案反対デモが起きる(日大改善案闘争)。

10月23日、商経学部二部自治会学生大会の時に勤務評定反対闘争(教育労働運動)に参加した自治委員の不当処分撤回と、日大改善案・警察官職務執行法改正案反対のストを決行。24日に全学授業を放棄し、ピケットを張り学内デモを起こした。

日大当局は25日に臨時休校を発令。反対派による高木学部長との会見を27日に日大側に要求したが、日大当局側は学部長との会見の要求に応じなかった。日大当局は28日、29日の教授会で、スト決行の責任者7名を退学処分にする旨を発表する。

11月22日、不当処分を不服に思った反対学生が学内抗議集会を日大職員に要求するも、職員は学生に暴行を加えて抑止した。

警職法改正案反対中央集会に参加してデモをしていた他大学の学生も、大学キャンパス内で巻き込まれ暴行を受けた。日大当局側は事態を重く受け、高木学部長名で機動隊2000名を学内に導入し、大量の退学者・処分者を出して日大改善案闘争は終結した。これにより古田体制とその後の日大の学内体制が確立された。

日大の帝王
日大のトップとして先ず行ったのが個々の学部の独立採算制の導入と附属校・準附属校の増設である。

既に旧制大学時代(日大は1920年代から既に大学令に基づく大学だった)に一時期は高等文官試験合格者数がトップになり多数の合格者を輩出していた司法の日大として規模的にも大規模なものになっていたが、戦時中に大阪府にあった専門学校と大阪中学校を分離し、さらに終戦直後に4つあった附属校のうち3つを別法人として独立(現在の特別附属校)するなど、規模を縮小していた上に、戦災とそれに伴う疎開で福島県から静岡県に至る各地に学部が分散し全体的な統制に欠いていた。

このため教養部や各専門学部に大きな権限を与えつつ独立採算での運営を行わせ、更に日大本体のみならず各学部にもそれぞれ附属学校を持つことを認めた。

一方で大学本体としては1952年(昭和27年)に日本相撲協会から両国国技館を買収して改装の上で日大講堂とし、1959年(昭和34年)10月6日に創立70周年記念式典を同地で挙行した。

式典には昭和天皇と香淳皇后の臨席があり、岸信介首相を始め文部大臣、各大臣、日本大学の総長、日本大学の校友、日本大学の学生ら約5000人が参列した式典で厳粛のうちに盛大に執り行われた。

更に神武景気からの経済成長を見越す格好で学部の新増設にも着手、既に文学部と旧高等師範部を包括する格好で文理学部が新設され、1952年に東京獣医畜産大学を農学部に吸収して農獣医学部へと改組し、1957年には経済学部商業学科を商学部に分離した。

特に戦後の教育改革を前提の産業界の要請を受けて学校制度の中に職業教育の課程の理工系教育が重視されたことから理工系学部の新増設にも熱心に取り組み、福島県に移転していた専門部工科を第二工学部→工学部とする一方で従前の工学部は理科系の学科を増設して理工学部に改組、さらに理工学部の経営工学科を母体に1965年(昭和40年)に第一工学部→生産工学部を設置し、同学部ではいち早くインターンシップを取り入れ産学連携の一環としても重要な意義があった。その他にも以下の学部・学科が古田時代に新増設されている。

日本大学法学部 - 経営法学科・管理行政学科
日本大学経済学部 - 産業経営学科
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こと1960年(昭和35年)から3ヵ年計画を・大学進学者が増加する1963年(昭和38年)から5ヵ年計画を立て、教育や研究の整備教職員の資質向上のため教職員研修会を開催して優秀な教員の確保を行った。

湯川秀樹を理工学部教授として招聘し、湯川の指導下でノーベル賞(ノーベル物理学賞)レベルを目指して国公立大学・私立大学を問わず、一番学会に権威のある教員を少なくても1学科1人を配置し、あらゆる分野で世界的な研究者を50人程度配置するのを目標とした。

古田自身、戦後の国際社会科学技術の日進月歩する競争社会で大学の研究重要度は、原子力支配の世界において日本の大学は理系学部の教育研究が少ないとの問題意識を抱き、日大内部の理系の学部比率を上げ、国内の大学を相手にするのではなく世界の大学を相手にする世界的総合大学の確立を目標にした。

現在の日本大学も、文系と理系の割合は米国などの海外にある大学に近いものがあり、日本の大学の中で学部と学科の多様さ予算規模は他大学に比べて優れている点が特徴的である。

更に戦後の第一次ベビーブーム(団塊の世代)による大学生人口の増加を見越して大学の入学定員を増やす一方で、地方の私立高校を日大統一テストの受験による選考で系列下に置く準附属校の制度を発足させ、ベビーブームが終わった後の学生の確保にも着手した。

1957年(昭和32年)に32億円であった日本大学の収入は、10年後の1968年(昭和43年)には10倍の300億円となっていた。

日大闘争
「日大闘争」も参照
一方でこうした拡大政策は、日大病院などの事業収入はありながらも高いコストとして跳ね上がり、学費は年ごとに値上げされる状態が続いた。

また日大改善案闘争以降、学生の政治運動は著しく制限され、建学の精神と学風と伝統から日大自治会は私学連に加盟したものの、左翼・学生運動・安保運動の全学連には加盟しない状態が続いた。

大学新聞の『日本大学新聞』は大学当局により事前に内容がチェックされ、日大学部祭でのイベントは学部から事前に許可が下りないと実行できなかった。

安保闘争では古田会頭と永田総長は不参加を呼びかけ、闘争に参加した学生に対して処分を下している。

1968年(昭和43年)に22億円の使途不明金が発覚したことから、それまでの学生の不満が一挙に爆発し、劣悪な教育環境やマスプロ教育の改善、学生の政治活動の自由化や体育会系などの右翼学生による暴力反対など、大学全体を巻き込む事態にまで発展した。

学生は「打倒古田」「古田を倒せ」とプラカードをもって叫び、日大紛争で警察官が死亡した責任で永田菊四郎総長は辞職。

秋田明大率いる日本大学全学共闘会議の標的とされ、両国日大講堂(旧両国国技館)における「大衆団交」の大学当事者として日大全共闘から糾弾を受けた古田も会頭辞任に追い込まれた。

後任総長は教職員の公選によって歯学部長の鈴木勝が日大総長となった。

日大理事長には新たに高梨公之が理事長となるが、古田は新たに日大会長となり、かねてから親交があった佐藤栄作からも唆されて結果的に闘争学生を警察力で鎮圧する。

闘争の最中、古田は駿河台日本大学病院にて日大全共闘の学生に分からないように偽名で「古田二郎」の名義で入院加療していたものの、1970年(昭和45年)に肺ガンで死去した。

日大紛争の学生の反乱や自身の会頭としての経営が正しかったのかを悔やみながら死去した。

学外での活動
1953年に秋田短期大学(現・秋田栄養短期大学)が開学された際には、請われて初代理事長を務めている[4]。

旧制大学時代からの日本大学と政財界とのパイプをフルに活用して、1962年には「『東西』冷戦下において日本大学建学の精神の基に『世界調和と人類繁栄』の構築」を目的として財団法人日本会を創設。佐藤栄作を総裁に古田自身は会長になった。その他にも日本私立大学連盟では常務理事・私立学校審議会では会長をそれぞれ務め、大学設置審議会委員や日本柔道高段者会会長も歴任した。

人物
人物評
日大で同級生だった池田正之輔衆議院議員は、古田を評し「秋田犬のように噛み付いたら離れない人並みはずれて執念深い性格の持ち主である」と発言している[1]。日本私学振興財団初代理事長の永沢邦男は、「戦後の私学人のなかで、日大の古田さんくらい金を集めることが上手で、私学のためこの人ほど金を使った人はいない」と語った[5]。

日大トップとしての功罪
古田には日本大学の歴史に対する功罪両面がある。

戦後教育の民主化と戦後復興から経済成長による国民生活向上で、大学は大衆化して高等教育の進学率が上昇した(勤勉であるインテリ層やエリート層が進学するエリート教育機関であった高校、大学は昭和30年代には高等学校の進学率が50%であり、大学進学率が10%で高校及び大学の進学率が低い中卒・高卒の学歴が主流の低学歴社会であった。

昭和40年代には高校進学率が70%であり、大学進学率が20%であり、昭和50年代には高校進学率が90%であり、大学進学率が37%となっている)、それに対応する形で高度経済成長に適応した高等教育が必要となり、国(文部省)は教育政策でアメリカの科学技術・文化を取り入れた。

これに影響されて、首都圏の大学では比較的一般人が目指せるものとして、エリート期からマス段階(大衆化)に移行しつつあった。特に日大では、欧米の大衆化した教育文化に影響され進学率上昇や少子化社会への移行を踏まえたマスプロ教育が導入された(※1970年代に既に少子化は始まっていた)。

古田は、大学の進学率が低かった頃に、成熟した欧米諸国にある大規模校のように、日大を日本一のマンモス校へと成長させた。

戦前・戦後期のエリート層しか進むことのできなかった高等教育機関ではなく比較的一般人が目指せるものとした。また前述した学部・学科の新増設なども産業界の教育に対する要請に応える要素が大きい。

その一方で日大闘争により問題のある設備と教育内容、体育会系の右翼学生が度々起こす暴力事件など、マスプロ教育の負の側面を露呈した。

学部自体の独立採算制は学部あって日大無しと言われるほどの独立性を高める一方で、学部間の確執や対立を引き起こすマイナス面も招き、政財界ばかりか芸能・マスコミ・スポーツ界にわたる日大閥を巻き込む格好での大規模化により巨額の金が学内で動くようになり、それに伴う利権争いや派閥争いが激化することとなった。

ただ、アカデミズムより法人としての利益を優先する姿勢に対しては日大内部でも評価と批判が相半ばするところがあり、日本大学通信教育部では総合科目の「日本大学を学ぶその120年の歴史」で古田重二良が中興の祖として教えられている。

文明観・総合大学院構想
古田は、科学の進歩による物質文明の弊害世界諸文化の流入による思想的混沌・資本主義と共産主義との2大イデオロギーの対立の解決のためには精神的・宗教的・思想的な面の研究も行う必要があると考えて原子力研究所と精神文化研究所と総合科学研究所に物心一如の総合的研究の総合大学院で日大の独自性を持ち出す高度な研究を目指した。
原子力研究所は1957年に開設を見、精神文化研究は1962年に日本会を自ら創設することで実現したものの、総合科学研究所に関しては日大闘争によって古田の生前に実現することは出来ず、瀬在幸安総長時代の2005年に大学院総合科学研究科が開設されたものの2015年に廃止されている。