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アースデイとは?

2019年04月23日 14時01分02秒 | 投稿欄

1970年4月22日にアースデイは誕生しました。

1970年アメリカのG・ネルソン上院議員が、4月22日を”地球の日”であると宣言、アースデイが誕生しました。

学生 運動・市民運動がさかんなこ の時代に、アースデイを通して環境のかかえる問題に対して人々に関心をもってもらおうと、それは当時全米学生自治会長をしていたデニス・ヘイズ氏による、 全米への呼びかけへとつながりました。
そうして、1970年の最初のアースデイは、延べ2000万人以上の人びとが何らかの形で、地球への関心を表現する アメリカ史上最大のユニークで多彩なイベントとなりました。
やってみた日、それがあなたのアースデイ
環境問題は、人と生物、地球、人と人のコミュニケーション問題ともいえます。

そして私たちはだれも、この地球と100%関わり、家族や友人との間柄にも似た不可分の関係を持っています。だからアースデイは、私たち一人ひとりのものなのです。

アースデイには、代表も規則もありません。民族・国籍・信条・政党・宗派をこえて、だれもが自由にその人の方法で、地球環境を守る意思表示をする国際連 帯行動です。

すべての人が、同じ輪の上で自由に起こせる、世界初でおそらく唯一のアクションがアースデイです。

あなたもぜひ、自分と地球とそこに住むたく さんの生命との対話、アースデイ・アクションを起こしてください。

そして、その活動を互いに知らせあい、大きな輪をつくりましょう。

どんな背景から、いつ「アースデイ」は誕生したのでしょうか?

 さらに、現在に至るまでの環境問題をめぐる大きなトピックを振り返ります。

アースデイが生まれた時代

1960年代・アースデイ前夜

レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が出版されたのは1962年。人々の関心が「環境」に向き始めたのは1960年代のことでした。ちょうど、アメリカでは学生によるベトナム反戦運動が盛んだった時代でもあります。その流れのなかで「LOVE&PEACE」の考え方が広がり、オルタナティブな暮らしを模索する動きも始まっていました。

1968年・初めて見た地球の姿

1968年12月24日、アポロ8号の宇宙飛行士が月から昇る地球の姿「アースライズ(地球の出)」を撮影します。

いまでは多くの人がこの映像を目にしていると思いますが、人類が地球を外から見たのはこのときが初めて。青く丸い地球の姿を認識したのは、いまからたった50年前のことなのです。

アースライズ以降、さまざまな意識改革が起きていきました。

環境への意識は段々と高まってはいましたが、それまでの環境運動といえば、特定の地域や公害問題に対するものがほとんど。

しかし、地球の姿を認識してからは、地球全体を「ひとつの生命圏」としてとらえて保全していこうという、新しい環境運動が始まっていきます。

1970年・なんでもない日を「地球の日」に!

そして、このアースライズから15カ月後、世界最初の「アースデイ(地球の日)」がアメリカで誕生します。

G・ネルソンという上院議員の「環境の日が必要だ」という発言に呼応したのが、スタンフォード大学に通うひとりの学生、デニス・ヘイズ。

デニスは「『母の日』や『父の日』があるのに『地球の日』がないなんておかしい」と呼びかけ、4月22日水曜という平日の“なんでもない日”を「地球の日」としたのです。


承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱

2019年04月22日 13時33分59秒 | 投稿欄
 
 坂井 孝一 (著)
 

商品の説明

内容紹介

後鳥羽上皇は無謀にも鎌倉幕府打倒を企て、返り討ちにあったのか? 公武関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決めた大乱を描く。

内容(「BOOK」データベースより)

一二一九年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺された。朝廷との協調に努めた実朝の死により公武関係は動揺。二年後、承久の乱が勃発する。

朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、執権北条義時を討つべく兵を挙げたのだ。だが、義時の嫡男泰時率いる幕府の大軍は京都へ攻め上り、朝廷方の軍勢を圧倒。

後鳥羽ら三上皇は流罪となり、六波羅探題が設置された。公武の力関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決定づけた大事件を読み解く。

著者について

坂井孝一 
1958年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得。博士(文学)。専攻、日本中世史。現在、創価大学教授。著書に『曽我物語の史実と虚構』『源実朝』など。

最新の「承久の乱」新書である。
著者の一般読者へのメッセージは、一、「承久の乱」は、「倒幕」ではなく、「北条義時追討」を目指した兵乱であった。二、後鳥羽上皇は芸能・学問にも秀でた有能な帝王である。三、実朝は無力な将軍ではなく、十分な権力を保った政治家であり、朝廷と親密な関係を気付いていた。である。
序章・・白河上皇による院政の開始から平氏全盛まで。
第一章・・以仁王の反乱から、1192年の頼朝征夷大将軍、同年の後鳥羽天皇親政開始を経て、頼朝の死まで。芸術、文化、政治、体育の巨人後鳥羽天皇➡上皇の肖像と朝廷。
第二章・・三代将軍実朝の肖像。幕府内の権力闘争。実朝親政の開始。実朝の官位の急速な昇進。実朝暗殺。
第三章・・実朝の死から、北条義時による頼朝血縁者の抹殺、京での源頼茂追討と大内裏炎上、承久の乱の前年まで
第四章・・承久の乱(1221年)の経過
第五章・・承久の乱の最終局面と決着。
第六章・・乱後の政治・社会変動、幕府の支配権増大。
終章・・流刑地の上皇達。承久の乱の歴史的位置づけ。
私的感想
〇大変面白かった。文章も読みやすい。
〇最初のうちは、最近同じような本を読んだという既視感が気になっていた。そのうち、これは、2カ月前に同じ中公新書として出た「公卿会議」と時代が重なっていて、同じ歴史事実が著述されるているからと気付いた。やむを得ない。
〇一、について
後鳥羽による「承久の乱」の目的が、かっての通説では「倒幕」であったが、著者の考えや現在の通説では、「北条義時追討」(つまり、幕府からの北条義時と一党の排除)であることが繰り返し語られる。わかります。しかし、個人的にはちょっと微妙な感がする
たとえば、「討幕」とする説もあり、「討幕」と「倒幕」ではちょっと意味が違う。また、「倒幕」=「幕府を完全に消滅させる」ではないと思う。
著者は、後鳥羽には、幕府を否定する気などなかったが、王(後鳥羽)が、幕府をコントロールできない状況になっているのは問題であり、その元凶は義時なのだから、義時を討つべきという結論に至ったとする。
しかし、朝廷と幕府の根本的対立として、幕府による地頭保護問題が、実朝親政時代からあり、義時排除だけでは解決しない。もし、地頭の罷免を朝廷の完全なコントロール下に置くなら、倒幕に近いような実体が必要であり、後鳥羽はそこまで考えていたのではないだろうか。
〇二、について
本書のように、後鳥羽を有能なマルチ人間として持ち上げてしまうと、「承久の乱」のあまりにも一方的な敗戦の原因を、後鳥羽の無能力、時代錯誤のせいにはしにくい。それで、本書では、鎌倉側は「チーム鎌倉」としてのチーム力の勝利、京側は「後鳥羽ワンマンチーム」として、個人の弱点が露呈してしまった敗退とする。そして、個人の弱点としては、リアリティ(?)の欠如(実戦経験なし。鎌倉、東国武士についての現実感覚不足)を上げる。
たしかに、理念的にはその通りで、鎌倉側は、8年前の和田合戦という内乱を鎮圧し生きのびたメンバーの上に、使者を捕まえるべきという三浦義村のインテリジェンス能力も高く、さらに、北条政子という高度の危機管理能力、演出演技宣伝能力を有する女性もいて、その点では、リアリティは高い。
しかし、出撃の最終判断は義時だろう。義時という人は、何を餌にすれば武士という人種を味方につけて、本気で戦わせることができるかについては、後鳥羽の数倍のリアリティを有していたようである。
〇戦闘の具体的経過はよく書けていて興味深いが、レビューが長くなったので省略。
蛇足
後鳥羽は離島に流されても18年生きたが、義時は鎌倉にいても3年後に死んだ。結果的には、乱など起こさずに、3年待てばよかったことになるが。
私的感想
〇大変面白かった。文章も読みやすい。
〇最初のうちは、最近同じような本を読んだという既視感が気になっていた。そのうち、これは、2カ月前に同じ中公新書として出た「公卿会議」と時代が重なっていて、同じ歴史事実が著述されるているからと気付いた。やむを得ない。
〇一、について
後鳥羽による「承久の乱」の目的が、かっての通説では「倒幕」であったが、著者の考えや現在の通説では、「北条義時追討」(つまり、幕府からの北条義時と一党の排除)であることが繰り返し語られる。わかります。しかし、個人的にはちょっと微妙な感がする
たとえば、「討幕」とする説もあり、「討幕」と「倒幕」ではちょっと意味が違う。また、「倒幕」=「幕府を完全に消滅させる」ではないと思う。
著者は、後鳥羽には、幕府を否定する気などなかったが、王(後鳥羽)が、幕府をコントロールできない状況になっているのは問題であり、その元凶は義時なのだから、義時を討つべきという結論に至ったとする。しかし、朝廷と幕府の根本的対立として、幕府による地頭保護問題が、実朝親政時代からあり、義時排除だけでは解決しない。もし、地頭の罷免を朝廷の完全なコントロール下に置くなら、倒幕に近いような実体が必要であり、後鳥羽はそこまで考えていたのではないだろうか。
〇二、について
本書のように、後鳥羽を有能なマルチ人間として持ち上げてしまうと、「承久の乱」のあまりにも一方的な敗戦の原因を、後鳥羽の無能力、時代錯誤のせいにはしにくい。それで、本書では、鎌倉側は「チーム鎌倉」としてのチーム力の勝利、京側は「後鳥羽ワンマンチーム」として、個人の弱点が露呈してしまった敗退とする。そして、個人の弱点としては、リアリティ(?)の欠如(実戦経験なし。鎌倉、東国武士についての現実感覚不足)を上げる。たしかに、理念的にはその通りで、鎌倉側は、8年前の和田合戦という内乱を鎮圧し生きのびたメンバーの上に、使者を捕まえるべきという三浦義村のインテリジェンス能力も高く、さらに、北条政子という高度の危機管理能力、演出演技宣伝能力を有する女性もいて、その点では、リアリティは高い。しかし、出撃の最終判断は義時だろう。義時という人は、何を餌にすれば武士という人種を味方につけて、本気で戦わせることができるかについては、後鳥羽の数倍のリアリティを有していたようである。
〇戦闘の具体的経過はよく書けていて興味深いが、レビューが長くなったので省略。
蛇足
後鳥羽は離島に流されても18年生きたが、義時は鎌倉にいても3年後に死んだ。結果的には、乱など起こさずに、3年待てばよかったことになるが。
 

 


車は走る凶器の認識を

2019年04月22日 05時27分38秒 | 投稿欄

二人殺したら死刑では?

自動車事故の罪の軽さに唖然!

「車は走る凶器」を再度認識しよう
暴走運転
 昔から「車は走る凶器」と言われてきました。

皆さんも何度か耳にされた事があると思います。
しかし、飲酒運転の車が運転を誤って歩道を歩いていた人を跳ねて死亡させた、といった悲惨な交通事故を見ていると、この事をあまり認識されていないのではないかを思う反面、改めて「車は走る凶器」だということを強く意識させられます。
 
 走る車は、大きな運動エネルギーを持っています。

このことは、歩道などに立って走行している車を見ていると感じることができます。
あれだけの大きな物体が、ものすごいスピードで目の前を通り過ぎるのを見ていると、その車が人間や自転車などに衝突したら、ひとたまりもないと恐怖感すら覚えてきます。
 車は確かに便利な乗り物ですが、一歩使い方を間違えると、凶器にもなります。運転者は、車を運転するということは、「凶器を振り回して走っている」という自覚を持っていただきたいと思います。
 
 私たち運転者は、車の便利さに慣れてしまい、凶器にもなるということを忘れがちになっていないでしょうか。ちょっとした油断や判断ミスをすると、大切な他人の生命を簡単に奪ってしまうということを、もう一度肝に銘じてハンドルを握りましょう。


池袋暴走事故、お年寄りに優しすぎる

2019年04月22日 01時25分40秒 | 投稿欄

4/21(日) 16:27配信 AbemaTIMES

池袋暴走事故、大谷昭宏氏「お年寄りに優しすぎる。パスを受け取り、車も乗りますは独善的だ」
ジャーナリストの大谷昭宏氏
 19日、東京・豊島区の路上で飯塚幸三さん(87)が運転する車が暴走し、歩行者や自転車を次々にはねてゴミ収集車に衝突。3歳の女の子と31歳の母親が犠牲になり、8人が重軽傷を負う死傷事故が発生した。

 警視庁によると事故は四カ所で発生。飯塚さんが運転する車は亡くなった親子が巻き込まれた現場から数百メートル手前の左カーブでガードレールと接触。

男性を交差点ではねた後、さらにスピードを上げて自転車をはね、左から交差点に侵入してきたゴミ収集車と衝突した。

一瞬にして命は奪われた
 亡くなった親子がはねられた瞬間を目撃した人は「結構激しくぶつかって、自転車の人もまったく動かない状態だったので心配だった」と事故の衝撃の大きさを振り返る一方、事故を起こした飯塚さんの様子については「赤信号で交差点に進入して、(自転車をはねた後)そのままノーブレーキであっちまで行っちゃったので、おかしいなと思って見ていた。事故を起こしたことを自覚していなかったのでは」と話した。

 また別の目撃者は「交差点に進入した飯塚さんの運転する車がぶつかった衝撃で回転して次々に歩行者を巻き込んだ。横断歩道の手前側に3人、向こう側にサラリーマン風の人が2人倒れていた」と当時の状況を説明した。

 現場にはブレーキ痕がなく、ドライブレコーダーの映像などから飯塚さんはアクセルを踏み続けた状態で約150メートル走行したとみられている。なお飯塚さんが事故後に「アクセルが戻らなくなった」と証言しているが、車の不具合は確認されていない。

池袋暴走事故、大谷昭宏氏「お年寄りに優しすぎる。パスを受け取り、車も乗りますは独善的だ」
献花に訪れた同世代の母は沈痛な面持ち
 80歳以上の高齢ドライバーによる死亡事故は年々増加しており、去年1年間では252件(警察庁発表)。
9年連続で200件を超える結果になっていて、早急な対策が待たれている。
一夜明けた昨日、事故現場では亡くなった親子のために花や飲み物を供える人の姿が後を絶たず、献花に訪れた同世代の女性は「子どもの未来をずっと見つめていきたいときに本当に無念しかない。ご家族の気持ちを思うと胸が痛いし、とても他人事とは思えません」と言葉を詰まらせた。警視庁は過失運転致死傷の疑いがあるとみて調べを進めている。

 元長野県知事で作家の田中康夫氏(63)は「暴言を吐きます」と神妙な面持ちでこの問題について切り出すと「今は匿名になったが、事故当初は犠牲になられた方の名前が出ていた。一方、事故を起こしたご自身は入院中なので、おそらくまだ逮捕されていないだろうが、事故直後に息子さんに電話をして報告しており、SNSのアカウントがすでに削除されている。今の世の中、元霞が関官僚(通商産業省の工業技術院長)だったということで忖度もあるかもしれないが、ぜひそうではない形をとっていただきたい。そういうことが積み重なると、報道って何だろう? 正義って何だろう? となってしまう」と強く訴えた。

その一方、地域ごとの交通事情、さらに車の必要性には理解を示した田中氏は「ヨーロッパにおいてはマニュアル車が9割だが、日本とアメリカはオートマ車が9割。マニュアル車の場合は気が動転したらエンストして車が停車するので、ある程度の年齢に達した高齢者はマニュアル車限定にするなどしなければ、同じ悲劇は繰り返される」と話し、この問題の対応策についても言及した。

 するとジャーナリストの大谷昭宏氏(73)は、社会と高齢者という観点から次の

ように続けた。

「みなさんちょっとお年寄りに優しすぎると思うんですよ。失礼な言い方になりますが、87歳ということで大変な共済年金(国家公務員や地方公務員が加入する公的年金)をもらっていると思うので生活に困るわけじゃない。『だけど私は運転したい』ということだが、東京には地下鉄もあればバスもある。24時間タクシーだって動いているのだから、都会に住んでいる高齢者は運転免許証を返上してください。あちこちの都市ではお年寄りに公共交通機関で使用できるパスを渡している。それは受け取ります、でも車に乗りたい人は周囲にいくら言われても乗ります。それではあまりにも独善的すぎる。お互いに遠慮するという流れを社会の中で作っていかなければいけない」

 その一方で大谷氏は、公共交通機関が都市部より整備されていない地方に関しては「24時間動いているタクシーは限られているので、病院に行く場合は、視力などの低下を考慮して昼間だけで高速使用を禁止する限定免許のようなものを渡す必要はあるだろう」と現実的かつ具体的な提案も忘れなかった。

2006年から2016年に75歳以上の高齢ドライバーが関係した死亡事故の推移は、年間400件から500件の間を推移しているが、全体に占める割合でみると、2006年には8%ほどだった割合は右肩上がりで増え続けており、2016年にはおよそ15%に迫る勢いだ。2018年に限っては、死亡事故を起こした75歳以上のドライバーは前年比で42人増えて460人。その原因についてはブレーキとアクセルの踏み間違いが最も多く、操作の不適が約30%に及んでいる。


 最後に大谷氏は「かつて日本には1万件以上の交通死亡事故があり交通戦争という名前までついていた。しかし警察や自治体が必死に努力をして、3000件を切るところまで減少した。にもかかわらず、400件から500件もお年寄りが事故を起こしている。何のために努力をしているのか」と苦言を呈すと、「高齢者でも自ら返納しようという人は事故を起こさない。返納しない人が事故を起こす」と千原ジュニア。すると大谷氏は「(返納)しました」と笑顔で応じていた。(AbemaTV『Abema的ニュースショーより』)


幻の祖国に旅立った人々 北朝鮮帰国事業の記録

2019年04月19日 11時36分41秒 | 投稿欄
 
小島晴則 (編集)
 

商品の説明

内容紹介

本書は、まさに帰国事業が全盛時代だった昭和35年3月から昭和39年12月まで、73号に渡って、北朝鮮に向かう帰国船が出航した新潟に於いて、この帰国事業を推進する人々により現場の声を伝えるために発行されてきたミニコミ『新潟協力会ニュウス』の合本であり、また当時このニュウスの事実上の編集責任者だった小島晴則氏の、現時点において、当時の新潟の感動と熱狂、そして現時点での深い後悔の念と複雑な心境を正直に吐露した文章が収録されている歴史の一級資料である。

出版社からのコメント

今年平成26年は、北朝鮮への帰国事業が開始され、在日朝鮮人そして彼らと結婚した日本人妻たち(少数ではあるが日本人夫もいた)が、かの国に海を渡って旅立ってから55周年にあたる。

自由民主主義の国から共産主義の国に、9万3千人もの人間が渡って行ったというのは、人類史上、確実にこれが最初で最後の大事件である。

当時これに反対したのは、韓国政府及び民団、そしてごく一部の日本国内の民族派だけであり、産経新聞から朝日新聞まで、自民党から共産党まで、もろ手を挙げてこの事業を「人道事業」として推進し、朝鮮総連は「北朝鮮は地上の楽園、医療も教育もすべて無料」と宣伝して帰国熱を煽った。その結果渡っていた人々がどのような運命をたどったのかは今更言うまでもない。

この歴史は日本と朝鮮半島を語る上で、決して忘れてはならないはずだ。

著者について

昭和6(1931)年2月、新潟市江南区生(二男)。定時制高校中退。昭和25(1950)年、共産党入党、新潟市の共産系出版物専門の書店に勤務。昭和34(1959)年8月、新潟県帰国協力会事務局に専従として入る。のち事務局長。昭和39(1964)年7月、日朝友好青年使節団として訪朝(3週間滞在)。以後2回訪朝。尚、この年は6月16日に新潟大震災、10月10日に東京五輪が開催(北朝鮮選手団は船で新潟へ、そして特急列車で東京へ。しかし開始前に参加せず帰国)。平成9(1997)年1月より北朝鮮に拉致された横田めぐみさん等を救出する運動に力を注ぐ

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北朝鮮 帰国事業


北朝鮮の日本人妻と残留邦人 1960年代前後の「帰国事業」で在日朝鮮人ら約9万3千人が北朝鮮に渡ったが、うち約1830人が日本人妻だった。厚生労働省によると、先の大戦に絡み北朝鮮から帰国できなかった残留邦人は1440人。
ただ、消息がつかめず、大半は「戦時死亡宣告」がなされ、日本に戸籍が残る人は35人。
最近も親族との連絡が確認されているのは3人に限られる。

帰国・帰還事業の際、北朝鮮を「地上の楽園」とはやし立てたのは、左翼思想にかぶれたマスコミと朝鮮総連だった。
<【拉致再調査】日本人妻ら「地上の楽園」で監視下に 政治犯収容所送りも>

「『地上の楽園』との宣伝にだまされて行った彼女たちも被害者といえる」。
北朝鮮に渡った在日朝鮮人や日本人妻の人権問題に取り組む団体の代表を務める山田文明・大阪経済大准教授はこう指摘する。

 「北の港に着く前に、船からボロをまとった人たちを見た瞬間、来たのは間違いだったと後悔した」と振り返るのは、その後、脱北し、日本に帰国した70代の日本人妻だ。

 日本人妻らは、監視態勢下に置かれ、脱北者らによると、「資本主義思想を流布した」と言い掛かりを付けられ、政治犯収容所に送られた人も少なくなかった。
 「日本に帰りたい」と漏らしただけで収容されたケースもあったという。

 平成9~12年に3回、里帰り事業が実施され、計43人が一時帰国したが、体制に忠誠を誓う人だけが選ばれた。
実施半年前から平壌に集められて徹底教育され、北朝鮮に戻った後も日本での行動を審査された。

 家族の反対を押し切って北朝鮮に渡り、日本の親族と絶縁している日本人妻も多い。

一方、脱北し、日本で暮らす人も数人いる。
ただ、生活保護を除き、受け入れ態勢と呼べるものはない。
帰国したものの、再び北に戻る人さえ現れた。

 北朝鮮の民族登録では、日本国籍保持者は一般に「日本」に区分けされるが、子供をはじめ朝鮮籍扱いになるケースもかなりあると想定される。北朝鮮が今回どこまで調査範囲とするかも不透明だ。

山田氏は「日本側には現状のデータがなく、この人を帰せとは言えない」と北朝鮮の主導で進む調査を危ぶむ。
「都合のいい調査結果を開示し、見返りを求めてくるだろうが、横田めぐみさんら拉致被害者全員の帰国なしには譲歩すべきではない」と訴えている。

在日朝鮮人の帰還事業とは何だったのか? 

まず、在日朝鮮人はどんないきさつで日本に住んでいたのか?
在日朝鮮人は、朝鮮半島の日本統治時代に様々な事情で日本本土へ移った者、韓国政府による虐殺(済州島4・3事件)から逃れるため、あるいは戦後に出稼ぎや朝鮮戦争の勃発などにより自ら密入国し、そのまま日本に居留した者が多かった。
そうした人々の中には、日本人と同様に朝鮮特需などによる恩恵を享受した者もいたが、依然として生活に困窮する者も多かった。
特に1956年の生活保護費の削減と1957年から翌1958年にかけてのなべ底不況は貧困層の生計を直撃していた。

なぜ北朝鮮を選んだのか?
在日朝鮮人の間では、朝鮮戦争による荒廃からの復興が進まず、また政情不安を理由に、韓国への帰国を不安視する一方で、社会主義体制のもとで千里馬運動により急速な復興を実現したとされていた北朝鮮への憧れもあった。

当時、北朝鮮と韓国の体制間競争は北朝鮮が優位に立っており[7]、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人・革新政党・革新団体が繰り返し北朝鮮の経済発展の様子を伝え、在日朝鮮人に帰国の決意を促した。
特に北朝鮮を訪問して礼賛した寺尾五郎の『38度線の北』は、帰国希望者に大きな影響を与えたといわれる。

当時の日本における民族差別も、特に子供の教育や将来を見据えたときに、帰国を選ばせる一因となった。

これらの社会的な背景が、爆発的な運動の拡大をもたらしたとみられる。

マスコミの反応はどうだったのか?
吉永小百合主演の映画『キューポラのある街』で知り合いの帰国を喜ぶ場面があるように、一般の日本人も帰国事業に概ね好意的だった。
このため、日本のマスコミは左右を問わず帰国事業を人道的な事業と捉え、新聞各紙はこぞって帰国事業を歓迎し賛同する記事を書き連ねた。

1960年2月26日付朝日新聞に、次のような記事が掲載されている。
帰還希望者が増えたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。

各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想を尽かしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。

ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎振りや、完備した受け入れ態勢、目覚しい復興振り、などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏み切ったようだ。 

「地上の楽園」は実は「この世の地獄」だった。

しかし、朝日は現在では「帰国事業は日本政府による朝鮮人追放政策だった」(2004年5月18日付)と主張し、日本政府に責任を押し付けている。

いつも、どこでも、何の問題でも、反省にない無責任新聞である。

北朝鮮は日朝協議に期待を寄せ、前進を促すために、初めての日本人墓地も公開した。
<北朝鮮、新たな墓地を公開>
■終戦前後に現在の北朝鮮地域で死亡した日本人の遺族9人が28日、北朝鮮北東部清津の羅南地区の日本人墓地とされる山を訪れ、慰霊のための祈りをささげた。

北朝鮮側によると、戦後、日本人にこの場所を公開するのは初めて。
 訪問は遺族の希望に応えたものだが、新たな墓地を公開することで、5月末に拉致被害者らの再調査実施で合意した北朝鮮側が、積極的に対応している姿勢を示す狙いもありそうだ。

 北朝鮮政府関係者は28日、合意について「全ての日本人が調査対象」と述べ、今後の協議次第では今回公開した場所も調査対象になる可能性を示唆した。
 病死した父親を近くで火葬したという広島市の石原國靖さん(78)は「ここに来られて感謝している」と涙ぐんだ。(共同)

敗戦時の朝鮮半島の日本人と言えば、昨年話題になった「竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記」を思い起こす。<著者ヨーコ・カワシマ・ワトキンズは、1933年(昭和8年)青森で生まれた。
生後六ヶ月で南満州鉄道(満鉄)に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北部の羅南(現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市)に移住。
朝鮮・咸鏡北道で11歳まで過ごす。1945年(昭和20年)日本の敗戦が濃厚になると、母親と姉とともに避難を開始し、京城(けいじょう)を経由して日本へ逃れる。離れ離れになった兄とも後に再会を果たす>実話を書いた本である。アメリカでは韓国系が反発した。

 

 

チャップリン自伝 上 ―若き日々

2019年04月16日 05時17分39秒 | 投稿欄
 

商品の説明

内容紹介

突然声の出なくなった母の代役として五歳で初舞台を踏み、母の発狂、父の死、貧民院や孤児院を転々とし、ついに地方まわりの一座に拾われて役にありつく――あの滑稽な姿、諷刺と哀愁に満ちたストーリーで、全世界を笑いと涙の渦に巻き込んだ喜劇王チャップリンの生いたちは、読む者を興奮させずにおかない。神話と謎につつまれたその若き日々を、みずからふりかえって描く。

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インド独立の父・ガンジーと出会い、大衆に根差した運動を語るその姿から、「明快な実践教育を受けた」とチャップリンは言う。
少年期から極貧生活生活を経験。
大衆そのもののチャップリンの心は、ガンジーの魂に共鳴したのだろう。
映画「サーカス」でアカデミー賞(特別賞)を受賞。
「少数の人間の決めた賞など、大した名誉ではありえない。私が欲しいのは大衆の喝采だよ」
ヒトラーとの戦いでは映画「独裁者」で、大衆とともにヒトラーを笑い飛ばした。

 

 
わが父チャップリン―息子が見た喜劇王の素顔 (1975年) 

「人生に必要なものは、勇気と想像力と、ほんの少しのお金だ」。

 

どんなにバカにされても「誇り」を失わないチャップリン。
それは、映画に登場する、あのだぶだぶのボロ服に、ドタ靴、山高帽、ステッキという《放浪紳士》チャーリーの、おなじみの格好に表れている。

 

彼は、このステッキを手放さない。
どんなに飢えていても。
「これは『誇り』の象徴なんだよ」と――。

 

彼は自分が演じたいのは「どこの国にもいるような、自分の誇りだけは傷つけられたくないと願っている(中略)平凡な小男」なんだと語っている。(『チャップリン』鈴木力衛・清水馨訳、岩波書店)

 

――世界の民衆は、ルンペンの格好なのに、山高帽とステッキを離さない愛すべき《放浪紳士》のいでたちだけで、チャップリンの、このメッセージを理解した。

 

《あれは俺だ! 俺たちと同じ大衆だ!
つき飛ばされ、踏まれ、つばをかけられ、
それでも何くそと誇りをたもっている。
俺たちの仲間だ! 人間だ!》と。

 
チャップリン自伝: 栄光と波瀾の日々
 
 
商品の説明

内容紹介

アメリカン・ドリームをまさに体現し、億万長者と映画スターが集う社交界の主人公となったチャップリンは、『キッド』『街の灯』など名作を次々と世に送り出していく。

私生活では、二度の離婚、奔放な女性関係を体験するが、対独参戦を促す演説が曲解され、戦後、「赤狩り」の嵐の中、アメリカを追われる。スイスに移住した75歳の著者が自ら人生のありのままを振り返った世界的ベストセラー。

内容(「BOOK」データベースより)

アメリカン・ドリームをまさに体現し、億万長者と映画スターが集う社交界の主人公となったチャップリンは、『キッド』『街の灯』など名作を次々と世に送り出していく。私生活では、二度の離婚、奔放な女性関係を体験するが、対独参戦を促す演説が曲解され、戦後、「赤狩り」の嵐の中、アメリカを追われる。スイスに移住した75歳の著者が自ら人生のありのままを振り返った世界的ベストセラー。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

チャップリン,チャールズ
1889‐1977。ロンドン生れ。両親とも芸人。母の代役として5歳で初舞台。ヴォードヴィルのカーノー一座と共に渡米。1913年キーストン喜劇映画会社に入り、浮浪者スタイルや、笑いと涙、風刺と哀愁に満ちた作品で卓越した評価を受ける。’52年赤狩りで米国を追われ晩年はスイスに居住。’75年3月には英国王室から大英帝国勲章第二位(ナイト・コマンダー)を授与される

中里/京子
1955年生れ。翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

叱責繰り返した担任「過信した」 生徒自殺

2019年04月16日 03時02分51秒 | 投稿欄

聴取に反省の言葉

2017年10月20日 福井新聞
福井県池田町池田中で今年3月、男子生徒が自殺した問題で、第三者による調査委員会の聞き取りに対し、男子生徒を繰り返し叱責した担任が「いろんな人に相談すればよかった、今まで教員をしてきて過信していた」などと反省の言葉を述べていたことが、調査委の報告書全文から分かった。

 大声で叱る担任の指導は他の教職員も認識しており、平井浩一教頭らが複数回にわたって注意、助言していた。

ただ、学校全体では共有されず、指導の改善には結び付かなかった。

報告書では、担任、副担任の指導方法や管理職の監督責任を厳しく問うとともに、他の教員の対応も適切でなかったと指摘している。

 福井新聞が入手した報告書全文の写しによると、今年2月ごろに当時の教務主任が担任に対し、「正しいことであっても、男子生徒には伝わらない」と伝え、指導方法を考えるよう促した。

担任は「分かっていて、手加減している」などと答えた。

 さらに、時期は不明だが、他の教員から「そんなに強い口調で言わないといけないのか」と聞かれ、担任は「それだけ言わないと分からない」と答えた。

平井教頭も叱責した後に生徒をフォローするよう注意していた。

 担任は調査委の聞き取りに対し、「自分一人でやってしまうところがあり、男子生徒についても指導すればできると判断していたが、結果的にはできていなかった」とも述べたという。

池田中2自殺、母親が手記で願い
報告書公開から1年、再発防止を

2018年10月15日 福井新聞

福井県の池田町立池田中学校で昨年3月、2年生の男子生徒=当時(14)=が自殺した問題で、担任教諭らの厳しい指導、叱責(しっせき)が要因と結論付けた調査委員会の報告書が公開されてから1年となる10月15日、母親が手記を公表した。

「どうしたら子供が元気に家に帰ることのできる教育となるのか、もう一度丁寧に考えて頂きたい」と、再発防止への願いがつづられている。

手記は便せん3枚に手書きで記してある。

愛息を失い約1年半。

報告書に衝撃を受けてからの1年を「私達遺族の時計は、あの日から動くことはなく現在も止まったまま」と表現し、「中学生ぐらいの子供たちを見かけるたび、涙があふれてきます。家の至る所に息子のいた風景があり、もう会えないんだ」と悲痛な胸の内を明かした。

 再発防止への同町の取り組みについて「会議の内容について教えてほしい、と教育長に繰り返し伝えていますが、教えて頂けることは稀(まれ)にしかありません」と情報の少なさを指摘し、教育委員会にきめ細かな対応を求めている。

 取材に対し母親は「報告が遅いし、口頭での説明が多くて覚えきれない。とりあえず会議を開いて役職を設けて、何か答えられるようにしているだけかと思ってしまう」と不信感を口にした。

8月下旬に開かれた教育大綱改定に向けた検討委については、既にホームページに掲載されている議事概要を会合の約1カ月半後に受け取ったという。

 男子生徒の同級生は今年3月に同校を卒業した。

母親は「(息子の学年の)卒業から教委の報告が減っているように感じるが、再発防止の取り組みと卒業は関係ない。報告の少なさが、本当にちゃんと取り組んでいるのか、という疑問につながっている」と話した。

祖母は「怒っているのでなく、あの子が学校でどうしていたかを知りたい。(再発防止に向け)意見を交わすことが、ほかに悩んでいる子を救うことにもつながるはず」と目を潤ませた。
【池田中生自殺】池田町池田中で昨年3月14日、当時2年生の男子生徒が校舎から飛び降りて死亡した。

町教委が設置した有識者による調査委員会は同10月に報告書を公表、担任と副担任の厳しい叱責が自殺の要因と結論付けた。
校長ら管理職による指導監督や教員間の情報共有にも問題があったと指摘された。

福井地検は今年1月、市民団体が提出した校長や担任らに対する業務上過失致死容疑の告発状を受理した。


就職が取り消しに

2019年04月15日 12時24分32秒 | 投稿欄

河井幸作は来し方を懐かしむような心の余裕を失っていた。
片道500円のバス代が惜しまれて、自転車で取手の自宅から龍ヶ崎のハローワークへ向かった。
息子たちが通っていた取手東中学を左折し、相野谷川沿いの街道を経て藤代方面へ向かう。
旧水戸街道の石碑を行き過ぎる。
相野谷川に架かる土橋とその袂にある旧小泉村(現 取手市清水丙)の道標。
土橋と言っても現在は鉄筋コンクリート製の橋である。
道標には「江戸」「水戸 十八里」「来應寺七丁」と刻まれている
小学生のころの息子たちと相野谷川でへら鮒などを釣ったことがある。
相野谷川は淀んで見えた。
この日、筑波山も雲に覆われて見えない。
幸作は先日、「就職が決まりました」とリストラ退社となった東京・神田駅近くのビル2階の社長室を訪ね報告した。
「そう。どこに決まったの?」
社長は大きな机から身を起こし、おぼつかない足取りでソファーへ移動する。
長く患っている糖尿病が悪化しているように思われた。
幸作は社長から顎で促され対坐する。
「訪問介護施設です」
「どこの?」
「浅草橋にある。ファミリーという介護施設です」
「そう。それど、どのような仕事?」
「営業です」
「そう。これから外出するので、また、来なさい」
「はい」幸作は、長居をするつもりではなかった。
リストラされてことを心配している友人、知人たちに会って就職が決まったことを報告するつもりであった。
その日、最後に訪ねた親友の藤木直人が幸作を新橋駅近くの居酒屋へ誘う。
藤木とは大田区の多摩川で遊んだ馴染である。
二人は通っていた小学校は違っていた。
川遊びで親しくなったのである。
その後、幸作の住まいが移転して偶然、中学校で同じクラスとなった。
彼は父親を亡くし、高校へ行かず大手の電化製品の製造工場で働く。
3年後、夜間高校へ通学、さらに働きながら大学の2部で学ぶ。
さらに、偶然にも再会したのが仕事先であった。
二人とも専門新聞関係の仕事をしていて、製薬企業の新製品発表の会場で出会う。
彼は医療新聞の記者、幸作は薬業新聞の記者。
幸作は半年前に、本の訪問販売会社から薬業新聞へ転職していた。
5年ぶりの再会であり、二人は仕事を通じてその後、親密になっていく。
「河井のことだから、どこでも働けるさ」
「そうだと思う」
「介護の仕事はこれからの分野だな。協力できることあれば、協力するよ」
幸作は黙ってうなずいた。

「どこかで、お酒飲んできたのね」
その夜、自宅に戻ると妻が怪訝な顔で言うのだ。
「ああ、藤木と酒飲んできた。彼に御馳走になった」
「午後6時ころに、ファミリーという会社の人事の人から、電話があって、<就職のことを社内で協議した結果、取り消しになりました。なお、履歴書は返却しなす>と言っていたよ」
「そうか、仕方ないな」酔いが覚める思いがした。
幸作は前の勤務先の社長が、陰険にも裏で画策したことを後日、人つてに知る。
「そこまで、するんだ」幸作は怒りの気持ちを深く胸に沈めた。


旧水戸街道
千住宿 ⇒ 新宿 ⇒ 松戸宿 ⇒ 小金宿 ⇒ 我孫子宿 ⇒ 取手宿 ⇒ 藤代宿 ⇒ 若柴宿 ⇒ 牛久宿 ⇒ 荒川沖宿 ⇒ 中村宿 ⇒ 土浦宿 ⇒ 中貫宿 ⇒ 稲吉宿 ⇒ 府中宿 ⇒ 竹原宿 ⇒ 片倉宿 ⇒ 小幡宿 ⇒ 長岡宿 ⇒ 水戸城下


4票差、6票差… 公明候補「常勝関西」で落選相次ぐ

2019年04月08日 12時17分13秒 | 投稿欄

4/8(月) 

関西では大阪市議選と京都市議選で、公明党の公認候補の落選が相次いだ。

4人が立候補した大阪市議選の東成区選挙区(定数3)では、現職の則清ナヲミ氏(58)が大阪維新の会の新顔と最後までもつれ、4票差で落選。

6人が立候補した京都市議選の下京区選挙区(定数4)では、現職の西山信昌氏(46)が6票差で落選。再選を果たせず、支持者に「このような結果になり、申し訳ない」と深々と頭を下げた。
公明は、関西では支持母体の創価学会が「常勝関西」と呼ばれる組織力を背景に衆院で小選挙区を複数維持するなど、選挙戦の強さを誇ってきた。

朝日新聞社


私が「軽さ」を取り戻すまで

2019年04月08日 06時40分33秒 | 投稿欄

2015年の1月7日、パリにある週刊紙「シャルリ・エドブ」の編集部に二人の男が押し入り、そこにいた12人を殺した。

この本の著者であるカトリーヌ・ムリスは、たまたま失恋の苦悩で寝床を離れられず、遅刻して惨殺の時には編集部にいなかった。
これは同僚を失った彼女が心の傷から回復していく過程の物語である。
ショックの後遺症で思考停止に陥る。
人格の乖離が修復できない。
心の傷は美によって修復されるのか?
自分なりの芸術療法を試みる。
ボードレールの詩をきっかけにイタリアへ逃れるという道が開ける。
文芸や美術の古典に依って心の傷を癒す。

わたしが「軽さ」を取り戻すまで

“シャルリ・エブド”を生き残って

 

カトリーヌ・ムリス 著・大西 愛子 訳

あの日を境に、私は「軽さ」を失った――
シャルリ・エブド襲撃事件生存者、喪失と回復の記録

2015年1月7日、パリで発生したテロ事件により12人の同僚を失うなか、
ほんのわずかな偶然によって生き残ったカトリーヌ。
深い喪失感に苛まれながらも、美に触れることによって、
彼女は自分を、その軽やかさを少しずつ取り戻す。

序文:フィリップ・ランソン(2018年フェミナ賞受賞)

ウォリンスキー賞(ル・ポワン誌主催)、ジュネーヴ・テプフェール賞受賞
アングレーム国際マンガフェスティバル作品賞候補最終ノミネート

 ●内容紹介●

『シャルリ・エブド』で唯一の女性風刺漫画家であったカトリーヌ・ムリス

シャルリ・エブド襲撃で、「軽さ」を失ったカトリーヌ。

「人生の補佐役」たるプルーストゆかりの地をめぐるも、なにも感じない。

記憶喪失、事件で犠牲になった仲間の言葉も思い出せない。

1月11日、フランス全土で400万人がテロに抗議する「共和国の行進」。

暴力のツナミの後にきたのは支援のツナミ――。
そんな「1月7日症候群」を相殺するため、スタンダールが経験したように「美に埋もれ、溺れたい」と願い、彼女はイタリアへと飛び立つ。
美と文学で悲しみ(トラウマ)を乗り越える1年間の記録

 ●著者紹介●

カトリーヌ・ムリス
1980年生まれ。25歳のときに風刺画家のリュスとシャルブに誘われ『シャルリ・エブド』に加わり、報道マンガの世界に入る。

主な作品に、『Mes Hommes de lettres(わたしの愛する文学者たち)』(2008年)、『Moderne Olympia(現代のオランピア)』(2014年)など。

○訳者:
大西 愛子 
1953年、東京生まれ。フランス語翻訳・通訳。

父親の仕事の都合でフランス及びフランス語圏で育つ。バンド・デシネの翻訳多数。




NPO法人 杉浦千畝命のビザ

2019年04月06日 11時08分44秒 | 投稿欄

私たちNPO法人は、杉原千畝氏の人道・博愛精神を通じて、国内はもとより世界中に「命の大切さ」「平和の尊さ」を発信し、広く社会に貢献することを目的に活動しています。
杉原千畝
1900年(明治33)1月1日生まれ 1986年(昭和61)7月31日没

杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。
杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラ、とも呼ばれる。
「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。

勇気の証言ーホロコースト展
開幕式で、NPO法人「杉浦千畝 命のビザ」副理事長の杉原まどかさんが、「他者のために行動する勇気を学び、平和な世界を築く方途を模索して欲しい」と念願した。

自筆「手記」決断
「最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
回訓を、文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。
仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。
それよりも何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。
私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。
(中略)
苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。」

第二次世界大戦という人類史上類を見ない暗黒の時代に、組織人としての服務規律と人命救助の間で葛藤しながらも、最終的には個人としての良心を保ち行動し得た外交官杉原。

今なお世界各地で偏見や人種差別に基づく戦争が絶えない状況に鑑みると、その行いや背景となる思いは、人類が未来永劫にわたって希求すべき人種・民族を超えた人道主義・博愛精神の稀有かつ勇気ある表出例として、世界が共有し次世代に語り継ぐべき真正無二の行いである。

 ビザ発給後の杉原千畝

1947年、杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告であった。
杉原千畝自筆手記によれば、「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和三二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。」とある。
その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。

しかし、1968年8月、突然に杉原へ一人のユダヤ人から連絡があった。

杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。

「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」

世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。

翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会する。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。

1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞した。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われた。

杉原千畝名誉回復の経緯
杉原千畝顕彰プレートの除幕式(2000年10月10日)左からカマイティス・リトアニア臨時代理大使、杉原氏夫人の杉原幸子氏、河野洋平外務大臣、鈴木宗男自民党総務局長、カスピ・イスラエル臨時代理大使
杉原千畝顕彰プレートの除幕式(2000年10月10日)
左からカマイティス・リトアニア臨時代理大使、杉原氏夫人の杉原幸子氏、河野洋平外務大臣、鈴木宗男自民党総務局長、カスピ・イスラエル臨時代理大使
1991年10月、当時の鈴木宗男政務次官により外務省飯倉公館で幸子夫人、長男夫婦に杉原への名誉回復が行われた。

1992年3月11日、第123回国会衆議院の予算委員会国会における質疑答弁

質問:草川昭三
答弁:内閣総理大臣 宮沢喜一
   外務大臣 渡辺美智雄

≪草川昭三≫
終戦後ソ連での抑留から帰国されました杉原氏は、外務省に復職を願いますけれども、昭和22年の人員整理ということで退官を強いられました。

独断によるビザ発給は本国政府の訓令違反とされたと言えます。

杉原氏本人も家族も、本省の意向に反してビザを発給した責任を問われたとの思いを抱き続け、44年間外務省関係との交流を一切絶っていらっしゃいました。
昨年の10月、鈴木宗男外務政務次官がリトアニアとの外交関係樹立を機会にこの問題を取り上げられ、飯倉公館でご家族に謝罪されたと聞いております。

(中略)

この際、外務省は正式に謝罪をし、この方を顕彰すべきだと思うんですが、大臣の見解を聞きたいと思います。

≪渡辺美智男外務大臣≫
これは昔の古い話なので記録以外には調べようがないんですが、杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない。

それからそういうような査証を発行したのは15年ですが、その後でプラハの総領事館あるいはケーニヒスベルクの領事館、ルーマニア公使館などを7年間勤務してきた。
だから7年間外務省にずっとおるわけですから、処分されたわけではないし、22年には約3分の1、外務省の人間の3分の1が解雇されたそうです。

終戦直後の話ですから、その3分の1の中に入ったということは事実でございますが、特に不名誉な話ということは私は全く聞いておりません。

中略

私は、その事態をよく見て人道的な見地からそれだけのご苦労をして出国させたということは、やはりすばらしかったなと、過去を振り返ってそのようなたたえたい気持ちであります。

≪宮沢喜一内閣総理大臣≫
私も報告を受けておるところによりますと、杉原副領事の行った判断と行為は、当時のナチスによるユダヤ人の迫害といういわば極限的な局面において人道的かつ勇気あるものであったというふうに考えております。

この機会に改めてその判断と功績をたたえたいと思います。

2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復

「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」と、顕彰プレートが外交史料館に設置される。

除幕式で当時の河野洋平外相は、戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪した。

「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」における河野外務大臣挨拶

本日御列席をいただきました杉原幸子令夫人、そして杉原家の皆様、今日の日を迎えるに当たって大変御尽力いただきました鈴木宗男議員、岐阜県及び八百津町の方々、それからリトアニア及びイスラエルの在京臨時代理大使、杉原千畝生誕100年記念事業委員会の皆様方、その他御列席の方々、皆様をお招きして本日ここに故杉原千畝氏の偉業を称える顕彰プレートの除幕式を開催できたことは、私にとりまして、大きな喜びでございます。

特に、故杉原氏と一緒に言葉には言い表せない御苦労をされました幸子夫人に御臨席を頂けたことは、本当に嬉しいことでございます。

望むらくは、故杉原氏が御存命中にこのような式典ができておれば更に良かったと、こんなふうに思っています。

これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

勇気ある人道的行為を行った外交官として知られる故杉原氏は、申し上げるまでもなく、在カウナス領事館に副領事として勤務されている間、ナチスによる迫害を逃れてきたユダヤ系避難民に対して日本通過のための査証を発給することで、多くのユダヤ系避難民の命を救い、現在に至るまで、国境、民族を越えて広く尊敬を集めておられます。

日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

本年は故杉原氏の生誕100周年に当たりますが、杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝えるために、顕彰のプレートを設置することとなりました。

このプレートは、8月4日、衆議院外務委員会におきまして、鈴木委員から、顕彰のために何か残るものを考えるべきだという御指摘がございました。

外務省といたしまして、色々と考え、相談した結果、ここにプレートを置かせてもらうことが最も適当であろうと考えた次第でございます。

このプレートを見る度に、故杉原氏のとられた人道的かつ勇気のある判断と行動について、当省職員が常にこれを心に留めて職務に努めるとともに、外交史料館に閲覧にいらっしゃる方々にも、杉原氏の人となりと業績に思いを馳せていただければと考えた次第でございます。

また、故杉原氏の偉業を記念して、何か国際社会における相互理解に役立つ事業をできないかという御提言がございました。

これにつきまして検討した結果、国際交流基金事業として、イスラエルからの有識者招聘が2001年度から実施されることとなり、同氏にちなんで「杉原千畝フェローシップ」と名付けられることとなっております。

この実現に多大な御尽力をされた鈴木議員から改めて御説明があると存じますから、私からは一言の御紹介にとどめさせていただきます。
最後に故杉原氏の御冥福をお祈り申し上げ、御家族の皆様の御健康を願って、私の御挨拶とさせていただく次第でございます。有り難うございました。

 


映画 ライ麦の反逆児

2019年04月05日 15時21分06秒 | 投稿欄

ポスター画像

ひとりぼっちのサリンジャー

 

解説

2019年1月1日に生誕100周年を迎える小説家J・D・サリンジャーの半生を描いたドラマ。1939年、作家を志しコロンビア大学の創作学科に編入した20歳のサリンジャーは、大学教授ウィット・バーネットのアドバイスで短編小説を書き始める。
出版社への売り込みを断られ続ける中、ようやく掲載が決定するが、太平洋戦争のぼっ発によって、その掲載は見送られてしまう。
召集により戦地に赴いたサリンジャーは戦争の最前線で地獄を経験し、終戦後もそのトラウマに悩まされながら、初長編「ライ麦畑でつかまえて」を完成させる。この作品の成功により、突如として名声を手に入れたサリンジャーだったが……。
サリンジャー役を「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のニコラス・ホルト、バーネット役をケビン・スペイシーがそれぞれ演じる。
監督は「大統領の執事の涙」の脚本を手がけ、本作が長編監督デビュー作となったダニー・ストロング。
スタッフ
監督ダニー・ストロング 製作ブルース・コーエン
ジェイソン・シューマン
ダニー・ストロング
モリー・スミス

 

キャスト
ニコラス・ホルトJ・D・サリンジャー
ケビン・スペイシーウィット・バーネット
ゾーイ・ドゥイッチウーナ・オニール
サラ・ポールソンドロシー・オールディング
ビクター・ガーバー

 

[映画.com ニュース] 1月1日に生誕100周年を迎えた小説家J・D・サリンジャーの伝記映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」の本編映像を、映画.comが先行入手した。

サリンジャーの傑作「ライ麦畑でつかまえて」と並び人気を集める短編小説「バナナフィッシュにうってつけの日」が誕生した、輝かしい瞬間が切り取られている。

 孤高の天才作家サリンジャーのベールに包まれた半生と、累計発行部数6500万部を突破した世界的ベストセラー「ライ麦畑でつかまえて」誕生の裏側を描き、これまで語られてこなかった「なぜ絶頂期に表舞台から姿を消したのか」という最大の謎に迫る本作。

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のニコラス・ホルトがサリンジャーを演じ、ケビン・スペイシーがサリンジャーの才能を開花させた大学教授ウィット・バーネットに扮する。

 

本編映像は、戦争体験のトラウマから抜け出すため、東洋思想に傾倒していたサリンジャーの姿を活写。瞑想やヨガの合間に物語を書き続け、執筆が煮詰まると、導師の助言に従い原稿を破り捨てる。

サリンジャーが「書いた原稿を破る」ことで書くことの楽しさを再発見し、やがて長いスランプを乗り越え「バナナフィッシュにうってつけの日」を書き始める様子を生き生きと映し出している。

 

「バナナフィッシュにうってつけの日」は、主人公シーモア・グラースが拳銃自殺をするまでの1日を描いた物語。

サリンジャーが29歳で書き上げ、1948年1月31日の米ニューヨーカー誌に掲載されると、文壇から高く評価され、作家として注目を集めるきっかけとなった。

吉田秋生氏の「BANANA FISH」とのつながりは…?

 

 

 

 

 

日本人が軟弱になったのは?

2019年04月04日 22時34分21秒 | 投稿欄

 戦後徴兵制度がなくなったからですか?

補足
自分ら若いころは年配者から{今のわかいもんは 兵隊検査がないから腑抜けになった) と云われましたが、戦争で懲りてないとみえる 馬鹿ですね

-----------------------------------

昔から日本男児は軟弱ですよ。
徴兵=戦争と思ってるんでしょ?
ちがうちがうw
韓国見てみなさい。
徴兵制度がバッチシありますが戦争行ってますか?
徴兵制度があって戦争に駆り出される事はまず滅多にありません。
軍隊に一時的に入って組織の結束力を知る。有事の際の防衛力を知る事は大事な事だと思いますけどね。
個人的には徴兵制度は賛成です。
戦争に参加させるのは反対ですけどね。
そして徴兵制度のある国は今ほとんど、命の大切さ、弱い者(動物も含む)を守る事の寛大さなども学ばせているそうです。
目的もなく若い男がブラブラと無駄な時間を過ごすのなら徴兵制度で軍隊に触れてみて
色々な事を学んだり人生の楽しさについて感じたりする方がよっぽど有意義だと私は思いますけどね。
補足
戦争には懲りていると思いますよ。
ただ兵隊などの訓練が必要と言ってるのではないでしょうか?
まあ人の意見なんて千差万別ですし、あまり気にするほどの事でもないのでは?


新潟古町の花街

2019年04月03日 06時56分52秒 | 投稿欄

かつて北前船の交易で栄えた新潟には、港近くに料亭などが立ち並ぶ全国有数の花街が形成された。

その面影を今に残す古町花街(新潟市中央区)では、宴席に華を添えう古町芸妓が活躍している。
明治時代には、新潟は日本で一番人口が多く、花柳界も盛んで京都・祇園、東京・新橋と並び称され、最盛期には芸妓400人近くいたそうだ。
八千八川とうたわれる水の都で堀端の柳に芸妓が映え<柳都>と呼ばれた。

 第7回柳都新潟・古町花街イベント「お稽古場見学と芸妓の舞」

お稽古場で、お座敷とは装いの違う若手芸妓「柳都さん」の舞とベテラン芸妓の弾き語りの鑑賞会を開催しました。[2015.9]
 
お稽古場で、お座敷とは装いの違う若手芸妓「柳都さん」の舞とベテラン芸妓の弾き語りの鑑賞会を開催しました。[2015.9]

約200年前の江戸時代に、日本海側最大の北前船の寄港地として栄え賑わいを見せていた新潟に、いつしか花街が生まれ、訪れる人々を芸でもてなしたのが新潟古町芸妓でした。
この200年の伝統を誇る「古町芸妓の舞」を新潟市中心部にある、日本遺産に認定されたかつての商家のお屋敷「旧齋藤家別邸」でご覧いただけます。
当日は新潟古町芸妓さんとの写真撮影や、お座敷遊びの体験もございます。ぜひこの機会に新潟のおもてなし文化を体験して下さい。

新潟古町芸妓(ふるまちげいぎ)とは

新潟市には京都の井上流と並び日本舞踊の流派・市山流があります。新潟市無形文化財の第1号です。地方の宗家で120年以上の歴史を刻んできた流派は全国でも唯一であり、その芸術性は高く評価されています。
この「市山流」の日々の厳しい稽古で磨かれた踊り、長唄や三味線などの芸、そして美しい所作ともてなしの心で、お客様をお出迎えし、宴の席に和と華を添えているのが「新潟古町芸妓」です。

【最近の活動風景】

古町花街で特に歴史的建造物が多く残る「東新道」にて実施している「古町ちょうちんプロジェクト」

料亭などが軒を連ねる東新道に提灯が灯る[2017.3]

亭などが軒を連ねる東新道に提灯が灯る[2017.3]
 
 
全国第一級の料亭・鍋茶屋に掲出された「ふるまち花街」の提灯[2017.3]

全国第一級の料亭・鍋茶屋に掲出された「ふるまち花街」の提灯[2017.3]
 
 

第8回柳都新潟・古町花街イベント「まるごと堪能 古町めぐり」

三業会館の稽古場にて、舞踊と純邦楽を古町芸妓に披露して頂きました。舞踊の後、参加者から古町芸妓への質問や、舞で用いる小道具の使い方を芸妓さんに教えてもらう体験コーナーも実施しました。[2016.10]
 
三業会館の稽古場にて、舞踊と純邦楽を古町芸妓に披露して頂きました。舞踊の後、参加者から古町芸妓への質問や、舞で用いる小道具の使い方を芸妓さんに教えてもらう体験コーナーも実施しました。[2016.10]
 
 
古町花街にある元小唄師匠住宅兼稽古場「旧花岡邸」を特別公開し、古町花街ゆかりの品の展示も実施しました。[2016.10]

行形亭や鍋茶屋などの老舗料亭で活躍している新潟古町芸妓の舞とお座敷遊びを、お気軽に体験していただけます。



東京都心で2月並みの最低気温

2019年04月02日 09時43分29秒 | 投稿欄

 全国で冷え込み強まる

4/2(火)  ウェーブニュース

今日4月2日(火)は、全国的に朝の冷え込みが強まっています。東京都心では2.3℃を観測し、2月下旬並みの最低気温となりました。平年より5℃近く低い水準です。


 最低気温が0℃未満の「冬日」となった地点は、全国926地点のうち496地点となり、全国の観測点の半数以上に達しています。

季節外れの寒さとなったため、全国の12地点で「4月の観測史上最低気温」記録を更新しました。


◆4月の最低気温記録を更新した地点
 沢内(岩手)    -5.9 ℃※
 花巻(岩手)    -5.0 ℃
 熊野新鹿(三重)  2.5 ℃
 兎和野高原(兵庫) -2.6 ℃
 高野(広島)    -8.5 ℃
 呉市蒲刈(広島)  3.2 ℃
 穴吹(徳島)    0.0 ℃
 海陽(徳島)    0.0 ℃
 新居浜(愛媛)   1.0 ℃※
 南国日章(高知)  1.1 ℃
 田野(宮崎)    2.4 ℃※
 内之浦(鹿児島)  1.8 ℃
※印は統計開始から10年未満

◆今朝の最低気温
 札幌  0.3 ℃
 仙台  0.2 ℃
 東京  2.3 ℃
 名古屋 3.1 ℃
 大阪  4.5 ℃
 福岡  6.9 ℃
 那覇  14.5 ℃

昼間もこの時期らしからぬ寒さ

 強い寒気に覆われている影響で、晴れるところでも気温はあまり上がらず、予想最高気温は東京で11℃と2月下旬並み、大阪では10℃と2月中旬並みの予想です。今日は冬の装いでお過ごしください。