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脳がみるみる若返るぬり絵

2019年05月15日 10時21分10秒 | 投稿欄
 
 日本の四季 大型本 – 

 
 

論語と算盤   渋沢 栄一 著

2019年05月12日 15時51分02秒 | 投稿欄
 
「よく集めて、よく使い、社会を活発にして、経済活動のうながすことを、心ある人はぜひとも心がけてほしい」渋沢栄一
商品の説明
内容紹介

ビジネスを成功させる秘訣は論語にある。日本実業界の父が語る必読の名著。

■ マスコミ各詩誌で話題沸騰! 愛され続けるロングセラーの文庫版

*NHK総合 「サンデースポーツ2020」(2018年10月21日)で放映されました。
*TBSテレビ 「あさチャン!」(2018年10月26日)で紹介されました。
*毎日放送「サタデープラス」(2018年10月27日)で紹介されました。

内容(「BOOK」データベースより)

道徳と経営は合一すべきである。

日本実業界の父、渋沢栄一が、後進の企業家を育成するために、経営哲学を語った談話録。論語の精神に基づいた道義に則った商売をし、儲けた利益は、みなの幸せのために使う。

維新以来、日本に世界と比肩できる近代の実業界を育てあげた渋沢の成功の秘訣は、論語にあった。

企業モラルが問われる今、経営と社会貢献の均衡を問い直す不滅のバイブルというべき必読の名著。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

渋沢/栄一
1840年、現在の埼玉県深谷市生まれ。一橋家の家臣、ついで幕臣となる。

67年徳川昭武に随行してヨーロッパ諸国を歴訪。維新後、69年明治新政府に仕官。民部省、大蔵省に属した。73年健全財政を主張して辞任後は、第一国立銀行をはじめ指導的立場で500社前後の企業の創立・発展に貢献した。

また、商工業の発展に尽力。

経済団体を組織し、商業学校を創設するなど実業界の社会的向上に努めた。70歳で退任した以降は、社会公共事業の育成発達に努め、国際親善に力を入れた。

1931年没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 

 

 
 
 
 
 

 

「かのように」の哲学 ハンス・ファイヒンガ

2019年05月12日 05時31分39秒 | 投稿欄

ハンス・ファイヒンガー1852年9月25日 - 1933年12月18日)は、ドイツの哲学者。
カント研究者として、また『かのようにの哲学(Die Philosophie des Als Ob)』の著者として知られる。
同著は1911年に出版されたが、それよりも30年以上前にすでに執筆は完了していた。
「かのように」の哲学
『かのようにの哲学』におけるファイヒンガーの主張とは、人間は決して世界の根底的現実を知ることはできないので、思考の体系を構築し、それが現実に適合すると仮定している、
すなわち、人間は「あたかも」世界が人の作ったモデルに適合するかのように振る舞っている、というものである。
たとえば、物理学における陽子、電子、電磁波といった現象が直接観察されたことは一度もない。
だが、科学はこれらが存在するかの如く想定しており、その仮定に基いてなされた考察によって新しくより良い構築物を生み出すのである。
ファイヒンガーは、自分には何人かの先駆者がいることを認めており、特にジェレミー・ベンサムの『虚構論』がその一つであるとされる(ただし、ファイヒンガーは晩年までベンサムの仕事の大部分について意識していなかった)。
『かのようにの哲学』の英語版の序文において、ファイヒンガーは自らの「虚構主義の原理」を提示している。
この原理は以下のように説明される。
「ある思想が真理ではなく正確でもない、つまり虚偽であると分かっていたとしても、それだけでその思想が実践的に無価値で役に立たない、ということにはならない。
なぜなら、このような思想は、理論的には無価値ではあるが、実践的には大きな重要性を備えているかもしれないからである」。
また、ファイヒンガーは自らの哲学が懐疑主義の一種であることを否定している。
というのも、懐疑主義は疑うことを主旨とするが、「かのように」の哲学は明らかな虚構を受け入れることを正当化し、合理的な回答がない問題へのプラグマティックかつ非合理的な解決方法だと認めているからである。
しかし、この哲学があてはまるのは科学に対してのみでなく、より広い範囲にも敷衍される。
世界が明日も存在しているかどうかを確証することは決してできないが、我々は通常、そのまま何事もなく明日が来るだろうと想定する。
個人心理学の祖・アルフレッド・アドラーは、ファイヒンガーの有用な虚構の理論に深く影響を受け、心理学的虚構という観念を自身の理論に取り入れ、虚構の最終目標という概念を考案した。
ファイヒンガーの「かのように」の哲学は、ジョージ・ケリー(英語版)のパーソナル・コンストラクト心理学(personal construct psychology)が基礎を置く中心的な前提の一つにもなっている。
ケリーはファイヒンガーの名前を上げ、人間の構築した思考体系は客観的な現実の表象ではなく、有用な仮説とみなしたほうが適切であるという彼の理論から特に影響を受けたと述べている。以下はケリーの言葉である。
「ファイヒンガーの『かのように』の哲学は心理学にとっても価値を有している。
ファイヒンガーは、自身が「かのようにの哲学」と呼ぶ哲学体系を生み出した。
その思考体系では、神や現実はパラダイムとして表象されるのが最も適切だと考えられている。
これは、人間の意識の領域において、神や現実が他のもの以上に不確かだと言っているわけではなく、人間が直面するあらゆる事態は仮説的に捉えられるのが最も適切である、という意味である。
フランク・カーモードの『終りの意識――虚構理論の研究』(1967年、邦訳1991年)は、ファイヒンガーを有用なナラティヴ方法論家として位置づけた初期の文献である。
カーモードによれば、「文学的虚構はファイヒンガーのカテゴリーにおける『意識的虚構(the consciously false)』に分類される。それは科学的仮説とは違って、証明したり反証したりする主題ではなく、操作的な有用性を失った際には無視されるべき対象なのである」。
その後、ジェイムズ・ヒルマンがファイヒンガーとアドラーの心理学的虚構の理論を発展させ、『癒やしの虚構』を上梓した。
同著はヒルマンの著作の中でも分かりやすいものであり、神経症や狂気の症例では、「意味を見通す」のではなく、物事を文字通りに解釈してしまう傾向があることを明らかにしている。


士農工商(しのうこうしょう)

2019年05月12日 04時46分58秒 | 投稿欄

士農工商(しのうこうしょう)とは、儒教において社会の主要な構成要素(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。
「四民」ともいう。
日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったが、1990年代頃から実証的研究が進み、同時代的に現実に施行された制度ではないと理解されるようになった。
斎藤洋一の学説
信州農村開発史研究所で差別を研究している斎藤洋一は、江戸時代の身分制を考察するには、支配層の武士階級と被支配層の平人(百姓・町人・えた、)という分け方と、社会の営みの中にいる「武士・百姓・町人」と社会から排除されていた「えた・」という二通りの分類で捉える必要があるとしている。
斎藤は上下関係だけで評価すれば「百姓・町人・えた、」は皆等しく武士に支配された身分であり、社会的交流や人間づきあいという意味では「武士・百姓・町人」と違って「えた・」は明確な差別を受けていたとする。
また、えた・の生活はその全てが悲惨なものでなく、死体処理や皮産業や医療等の形式で社会に参加し、中には経済的に豊かになった者もいたが、仮に豊かになっても商取引の際に相手がえた・である事が知られると忌避されたり、えた・の分際で経済的に豊かになる事自体が分不相応であるとして周囲から活動を抑圧されるなどの事例があったとしている。
斎藤は、差別の発生は当時の幕府の政策のみに原因があるのではなく、江戸以前の中世から既に存在した血や死などの「ケガレ」に関わる職業の人間への畏怖や畏敬といった感覚が、一般民衆の間で徐々にマイナスの差別意識へと変貌していった事も原因だったという見解を述べている。


内村鑑三

2019年05月06日 07時57分41秒 | 投稿欄
 

著者は二代にわたる聖書神学の大家。
内村の信仰には学問的に大きな批判もあるのではないか。
批判はあるが、著者の内村への眼差しは根本的に暖かいい。
特に、戦争と震災という二つの「災厄」に立ち向かう著者の目は鋭い。
日清戦争に対する内村の姿勢は、基本的に「義戦」論である。
主として朝鮮を巡る「支那」と日本の争いという観点か、内村は、日本の態度に正義を見ようとする。
この内村の立場は、現在では内外から、強い批判が寄せられていることを、著者は認める。
むしろ内村自身がそれを認めていた、と解する。
しかし、公的な自己批判に及ばない「頑固」さも、重要な意味を認めようとする。
その後自らの言動をもって、「反戦」あるいは「非戦」論へと転じる。村上陽一郎評

内容(「BOOK」データベースより)

戦争と震災。この二つの危機に対し、内村鑑三はどのように立ち向かったのか。

彼の戦争論はいかに変転し、震災論はどこへ行きついたか。

本書は、聖書学の視点から、内村の聖書研究に基づく現実との格闘を、厖大な文章や数々の足跡に寄り添いながら追っていく。そこから浮き上がる思想的可能性と現代的射程とはいかなるものか。

近代日本を代表するキリスト者の地歩を明らかにした、碩学畢生の書。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

関根/清三
1950年、東京生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻博士課程修了。東京大学より博士(文学)、ミュンヘン大学よりDr.Theol.。東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授を経て、聖学院大学特任教授。東京大学名誉教授。ウィーン大学・放送大学などで客員教授を務める。専門は、旧約聖書学・倫理学。主要著訳書に『旧約における超越と象徴』(和辻哲郎文化賞、日本学士院賞受賞)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


 
 

ブックスタート

2019年05月05日 07時51分12秒 | 投稿欄


ブックスタート

絵本の読み聞かせ活動。

英国のブックトラスト(教育基金団体)が中心となり、1992年にバーミンガムで試験実施された。

日本では2000年の「子ども読書年」をきっかけに、この運動が紹介され、全国的な広がりを見せている。

地域の保健センターやボランティア団体が活動を展開しており、子供の情緒的発達を促進すると共に、母子間のつながりを深める効果が期待される。
(中村敬 大正大学人間学部人間福祉学科教授 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
朝日新聞掲載「キーワード」の解説

0歳児から絵本に親しませ、読み聞かせなどを通じて親子のふれあいを深めるのが目的で、1992年に英国で始まった。

NPO法人「ブックスタート」(東京)によると、5月末現在、0~1歳児に絵本を贈る事業が全国732市区町村で実施されているという。

(2010-06-16 朝日新聞 朝刊 山口全県 2地方)

出典 朝日新聞掲載「キーワード」朝日新聞掲載「キーワード」について 情報
デジタル大辞泉の解説

ブックスタート(bookstart)

赤ちゃんの時から本に接してもらい、言葉と心を育てる役に立てようという運動。0歳児健診の時などに市区町村自治体が絵本を配布する。1992年に英国で始まった。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
図書館情報学用語辞典の解説

絵本を介して赤ちゃんと家族のコミュニケーションを豊かにし,子どもの言語能力と豊かな心を育てようとする図書館と保健所の協力活動.

英国の教育基金団体であるブックトラスト(Booktrust)が推進母体となり,バーミンガムの図書館,保健局,大学が協力して1992年に始めた活動.赤ちゃんの7~9か月検診時に,赤ちゃん絵本,アドバイス集,絵本のリスト,地域公共サービス情報などの入ったブックスタートパックを配布し,お話し会などを行い,読書相談に応ずる.

日本では2001(平成13)年4月にブックスタート支援センターが発足し,2004年2月にNPOブックスタートに改称.2012年7月現在,実施自治体は806市区町村.

 


阪神近本「積極的に」球団新人で赤星以来の2桁盗塁

2019年05月05日 01時31分54秒 | 投稿欄

5/4(土) 日刊スポーツ

<阪神5-1DeNA>◇4日◇甲子園

阪神近本光司外野手が2盗塁を決め、ヤクルト山田哲と並んでリーグトップの10盗塁とした。

まずは6回。先頭打者として二失で出塁すると、続く糸原の2球目で二塁を陥れた。

糸原の二ゴロの間に三進し、糸井の適時打で生還。貴重な追加点は、近本の足を起点に生まれた。 

「もらった出塁だったので、積極的にトライしてもいいかなと思っていた。それが結果的に2点につながったんで良かった」

7回にも四球から、ウエストなどバッテリーに警戒されながら、この日2つ目を成功。「警戒してくれたらしてくれただけ、自分に有利なので。

外されたら走らなかったらいいですし、相手を見ながらやりたいことをやっていきます」と涼しげに振り返った。

チームの新人では01年赤星憲広氏以来の2桁盗塁。

ここ6試合で7盗塁とギアを上げ、シーズン44個ペースだ。

39個で新人盗塁王に輝いた赤星氏は72試合目で2桁を記録しており、近本は32試合目と大きく上回る。

昨季の盗塁王は33個(山田哲)で目標とするスピードスターに続く快挙も夢ではない。

2試合無安打も自慢の足でけん引する背番号5は「これからもどんどん走っていきたい」と、グラウンドを駆け回る。【奥田隼人】


新天皇の即位 鹿島神宮神幸祭奉納山車

2019年05月04日 09時03分05秒 | 投稿欄

2019年4月30日(火) 茨城新聞

新天皇即位 山車を引き回し祝福 5月1日、鹿島神宮門前2町で

新天皇の即位と改元を祝し、鹿島神宮(鹿嶋市宮中)門前町の角内、仲町の両区が5月1日、山車の引き回しを行う。にぎやかな祭りばやしを奏でながら町内を練り歩き、祝福ムードを演出する。山車の引き回しは通常、同神宮で最も重要な祭典とされる9月の例祭や神幸祭のある秋の祭典時のみ。両区の関係者は「めったにない機会。みんなでお祝いしたい」と、準備を進めている。

山車は本来、同神宮の祭神、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)が出御(しゅつぎょ)する秋の祭典に合わせ、同神宮門前の宮中5カ町(大町、仲町、角内、桜町、新町)が、お迎えするために引き回される。

角内地区では今年に入り、30〜40代を中心に「山車を出して新天皇の即位を祝いしたい」との声が上がり、すぐに意見がまとまった。同区の井関泰夫区長(66)は「山車を出すのは大変だが、あっという間に決まった」と区の団結力を誇る。仲町区も声を上げたのは若い世代の「若連」たち。一気に機運が盛り上がり、早々に巡行が決定した。同区若連小惣代古参の青柳有基さん(38)は「区が活気づく良いきっかけになる」と意義を強調する。

同神宮の祭神、武甕槌大神の大人形が乗る角内区の山車は、午後1時から隊列を組み集会所を出立。山車の引き手のほか、婦人会や老人会も含めた区の住民が同神宮に向かい、本殿で参拝する。その後、新天皇の即位を祝い同8時半まで同区内を練り歩く。

仲町区の山車には、皇室の祖先とされる天照皇大神(あまてらすすめらおおかみ)の大人形が乗る。午前10時から改元を記念し、同所の仲町通りを中心に祭りばやしを奏でる。午後からは、同区内をくまなく回り、新天皇の即位を祝う。

当日は同神宮で、毎年恒例の流鏑馬(やぶさめ)神事と、五穀豊穣(ほうじょう)を祈念する御田植祭(おたうえさい)が実施され、門前町は多くの人出でにぎわうことが予想される。井関区長は「最初で最後の機会かもしれない。区全体でお祝いを申し上げる」と意気込む。仲町区若連頭古参の高安工さん(44)は「みんなで楽しく祝うので、神宮を訪れる皆さんに見てもらいたい」と呼び掛けている。(藤崎徹)

名称 鹿島神宮神幸祭奉納山車(角内)
時代  
寸法 構造:前側 高さ 9尺8寸9分  横 7尺6寸5分  横側 高さ 9尺8寸9分  横 7尺5寸5分
説明  毎年,9月1~2日の鹿島神宮の大祭「神幸祭」で使われている山車です。「神幸祭」では、角内区・大町区・新町区・仲町区・桜町区がそれぞれ山車を出し,祭囃子を奉納しています。山車に施された彫刻が,元治元年(1864)に後藤茂右ェ門甚五郎の後裔(氏名不詳)によって製作されたものと伝えられています。

角内山車H26年度補助金実績報告書より転載 " data-medium-file="http://kashimashi.info/bunkazai/wp-content/uploads/2015/01/角内山車-200x300.jpg" data-large-file="http://kashimashi.info/bunkazai/wp-content/uploads/2015/01/角内山車.jpg" />     角内 山車角内区職員から提供。 " data-medium-file="http://kashimashi.info/bunkazai/wp-content/uploads/2015/01/角内 山車-300x212.jpg" data-large-file="http://kashimashi.info/bunkazai/wp-content/uploads/2015/01/角内 山車.jpg" /> 角内 山車 (2)角内区職員から提供。 " data-medium-file="http://kashimashi.info/bunkazai/wp-content/uploads/2015/01/角内 山車-2-224x300.jpg" data-large-file="http://kashimashi.info/bunkazai/wp-content/uploads/2015/01/-2-e1421885747480.jpg" />


記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実

2019年05月03日 17時16分02秒 | 投稿欄
 
樋田 毅 (著)

商品の説明

内容紹介

1987年5月3日憲法記念日の夜、朝日新聞の記者二人が何者かに突如、散弾銃で殺傷された阪神支局襲撃事件。発生当初から取材チームに加わり、時効後も記者生命をかけて一貫して事件を追い続けてきた著者による渾身の書き下ろし。

日本の言論史上、類例のない事件を追跡した果てに見えてきたものとは?

内容(「BOOK」データベースより)

一九八七年五月三日憲法記念日の夜、朝日新聞の記者二人が突如、目出し帽をかぶった何者かに散弾銃で殺傷された阪神支局襲撃事件。この事件を含め、約三年四か月の間に計八件起きた「赤報隊」による襲撃・脅迫事件は、未解決のまま、二〇〇三年三月にすべて公訴時効となっている。

事件の三年前まで同支局に勤務し、発生当初から記者として特命取材班に加わり、時効後も一貫して事件を追い続けてきた著者による渾身の書き下ろし。

日本の言論史上、類例のない事件を追跡した果てに見えてきたものとは?

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

樋田/毅
ジャーナリスト。1952年生まれ。愛知県出身。県立旭丘高校卒業、早稲田大学第一文学部社会学科卒業。

78年、朝日新聞社に入社。高知支局、阪神支局を経て大阪社会部へ。大阪府警担当、朝日新聞襲撃事件取材班を経て、京都支局次長、地域報道部・社会部次長などを歴任。

その後、和歌山総局長、朝日カルチャーセンター大阪本部長等を務めたのち、2012年から17年まで大阪秘書役、同年12月退社(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


 
 

グループホームの利用者負担の軽減

2019年05月02日 12時56分03秒 | 投稿欄

認知症高齢者グループホーム利用者負担軽減制度

更新日:平成30年8月1日 
八王子市では認知症により在宅での生活が困難な低所得の方に対し、八王子市内の認知症対応型共同生活介護事業所(認知症高齢者グループホーム)を利用する際にかかる家賃及び食材料費が軽減される制度を実施しています。

対象になる方

軽減される方は、次の(1)~(5)を満たす方です。
(1) 被保険者本人の属する世帯の全員が市民税非課税(夫婦で世帯が異なる場合でも、配偶者が市民税非課税)
(2) 預貯金等の合計が、単身の方は1,000万円、夫婦で合わせて2,000万円以下
(3) 短期利用の利用者でない方
(4) 生活保護及び中国残留邦人等の支援を受けていない方
(5) 「介護保険負担限度額認定証」の交付を受けている方

軽減される額
軽減される額
区分 軽減上限額(月額)
第1段階
老齢福祉年金受給者で世帯全員が市民税非課税
家賃34,500円
食材料費32,400円
計66,900円
第2段階
世帯全員が市民税非課税で、課税・非課税年金収入額と
合計所得金額の合計が80万円以下
家賃34,500円
食材料費29,700円
計64,200円
第3段階
世帯全員が市民税非課税で第1・第2段階以外
家賃19,800円
食材料費21,900円
計41,700円
※ ただし、家賃等の1か月あたりの利用者負担額が上限額未満の場合は、利用者負担額を上限とします。


抗がん剤の副作用

2019年05月02日 11時14分00秒 | 投稿欄

医薬品の臨床試験

倫理委員会が大学医学部に設置されるようになったのは、1980年代後半以降。
まだ30年程度しかにならない。

リンパ浮腫は、リンパ節郭清(切除)手術療法や放射線治療によって引き起こされる副作用のひとつです。手術の部位によって、手術した側の腕や脚にだけ浮腫を生じることがあります。

治療後すぐに生じることもあれば、10年以上経ってから生じることもあります。一度発症したら治りづらく、症状が悪化すると、日常生活に支障を来すこともあります。しかしながら、適切なケアを行うことで、無理なく日々の生活を送ることができます。

お買い物
例えば、買い物をする際にはキャリーバッグやカートを利用する、荷物を宅配で送るなど重い荷物は持たないようにして、身体に負担をかけない工夫が必要です。

皮膚を清潔に保って乾燥を防ぐために、保清保湿もしっかり行います。
虫刺され、すり傷などのちょっとした傷や日焼け(皮膚が炎症を起こしている状態)は感染を引き起こしやすく、それが原因で腕や脚全体に炎症が広がることもあるので気を付けましょう。

また、肥満はリンパ液を流れにくくするため、標準体重を維持することも大切です。

リンパ浮腫を予防し、悪化させないためには、日常的な心がけは重要ですが、気にしすぎない程度に、無理なく、適切な日常のケアと医療的ケアを行っていきましょう。

皮膚障害とは?

抗がん剤(化学療法や分子標的薬)によるがん治療を行うと、皮膚や爪に異変が現れることがあります。皮膚や爪に起こる症状は、命に関わるものではないため、ほかの副作用や症状に比べて軽視されがちです。しかしながら、外見の変化を伴う皮膚障害は、患者さんに大きな精神的苦痛をもたらすこともあります。

治療によって引き起こされる皮膚障害には、手足症候群、発疹・紅斑、色素沈着、乾燥、爪の変化などの症状が挙げられます。

手の甲にクリームを塗る
手足症候群とは手のひらや足の裏など、体重や力のかかりやすい部分や摩擦が生じやすい部分に現れることの多い皮膚症状を指します。
手のひらや足の裏にピリピリ・カサカサ・しびれ、赤みや腫れといった症状が現れ、ひどい場合には歩くのが困難になることもあります。

ほかの皮膚障害としては、頭や顔・全身にわたる乾燥、発疹や蕁麻疹(じんましん)、色素沈着などがあります。症状が強い場合には、抗がん剤(化学療法や分子標的薬)による治療の継続ができなくなることもあるため、注意が必要です。

また、爪にも爪の形が変わる、爪が薄くなる、割れやすくなるなどの症状が現れることがあります。爪のまわりが赤く腫れたり、化膿したりして、日常生活に支障を来すこともあります。

決して軽視できないこれらの皮膚症状ですが、クリームを塗って保湿をしっかり行うなど、予防することで和らげることができます。


折れない心を育む ~「レジリエンス」の視点から~

2019年04月30日 06時11分54秒 | 投稿欄

京都大学大学院教授 藤井聡さん

思春期学 Vol.36 No.1(投稿中)

心のレジリエンス・強靱性は、成人への過渡期である思春期において涵養されるべき最も重要な資質といって過言ではない。

なぜなら、成人になるということは、家庭や社会の庇護が無い中で、つまり様々な危機に直面し続ける環境の中で生きていくことを意味するからである。

したがって成人になるためには、そうした危機に対する対処能力が十分に高いものであることが求められる。

その対処能力こそ、レジリエンスある「折れない心」なのである。
一般に、「レジリエンス」とは、「対ショック性」(致命傷回避および被害最小化)と「迅速回復性」の二要素で構成される(藤井、2013)。本稿では、発達段階においてこの二要素を如何にして涵養できるのかを、それぞれについて考えてみることとしよう。

「死」に対する想像力が、折れない心をつくる

第一に、対ショック性を確保するためには、生きていけば、様々な危機があり得るのだという当たり前の真実を肌で理解しておく必要がある。

全く想定していない危機が生じた際には、一定想定していた危機が生じたときに比して格段に大きな「ショック」を受けることになるからだ。
言うまでも無く、様々な危機がありうる事をあらかじめ認識しておくために必要な力は「想像力」である。
例えば、「この幸福は、実に容易く脆くも崩れ去るものなのだ」という理解があれば、そうならないための努力を最大限に図らんとする意志が生まれる。同時にそうなったとしても、「想定外」だとして狼狽えることが無くなる。

さらには、この幸福の状況に対して「有り難い」(difficult to exist)と自然に認識することが可能となり、「感謝」する力を身につけることができる。
そして、そうした様々な「想像力」における最も重大なものが、「死」に対する想像力である。

死」こそ、我々の生にとっての最大の危機だからである。
したがって、ハイデガー(1960)が「存在と時間」の中で論じたように、自分自身は死すべき存在なのだということを、あるいは、こういう死に方もあれば、ああいう死に方もある、ということを十分に想像(あるいは先駆的に覚悟)できている人物は、大きな「対ショック性」を身につけることが可能となるのである(c.f. 藤井、2012)。
逆に言うなら、現代の思春期の青少年達の精神が「折れやすく」なっているのは、現代社会において、彼らが触れる空間から「死」というものが徹底的に排除され続けてきたことの必然的帰結なのである。

かつての「たくましい子供たち」は、身近な空間に墓や仏壇から物語や映画に至るまで、様々な形の「死」の影を胚胎した生活空間で育てられた。

だからこそ、「折れない心をつくる」ためには、大人達が「死」を忌避せず、当たり前のことなのだと受け止め、当たり前の様に身近に「死」がある生活空間を、子供達のために作り上げることが必要なのである。
さらにこの点を詳しく考えてみよう。
そもそも私達の「伝統」の中には、当たり前の様に「死」が埋め込まれていた。
盆や正月のお墓参りはもちろんのこと、多くの家の中に当たり前の様に「仏壇」があり「死者」である先祖達が祭られ、日々死者達と共に家の中で日常を過ごすことが当たり前のこととなっていた。

「山」や「海」は危険な恐ろしいものとして子供達に立ちはだかり、関わり方を誤れば容易く命を奪い去ってしまうということを陰に陽に理解しながら子供達は山や海で戯れていた。

物語の世界の中においてすら、かつては単なるゲームのキャラに過ぎない生き物在らざる「ポケモン」や幾度命を失っても「神竜」に頼めば何度でも何度でも生き返らせてくれる設定の「ドラゴンボール」の様な物語は一切無く、あらゆる人間や動物は一度失えば二度と取り戻すことことが出来ない一つ限りの「命」を持つものとして描かれていた。

そしてなにより、あらゆる物語で様々な「死」が描かれ、子供達はそんな物語に当たり前のように親しんでいた。
ところが現代は、「死」を隠蔽することが正しきものであるかのような風潮に支配され、過程でも学家でも地域でも、そしてさらには物語の世界からも「死」が隠蔽され、排除され続けている状況にある。

結果、子供達から「死」に触れるあらゆる機会が失われ、「死」そのものが持っている恐ろしさを感ずることすら無くなったのが現代だ。
そうなれば子供達は、ある日唐突に訪れるリアルな「死」、さらには、「死」に繋がるあらゆる「危機」に対するレジリエンス=強靭性の一切を失い、意図も容易く「折れて」しまうこととなるのも当然の帰結だったのである。
そして誠に遺憾ながら、「死を遠ざけたが故」に意図も容易く心が折れ、「意図も容易く自ら死を選ぶ」ことすら厭わない程に精神が、脆弱化してしまったのである―――無論、彼らが脆弱化したが故に容易く選択してしまう「死」には、自らの生物学的生命の「死」のみならず、みずからの精神的生命における「死」や、そして、友人や隣人達との関係性の「死」、共同体の「死」も含まれる。

かくして、我々の社会は「死」をあらゆる側面に於いて遠ざけたが故に、皮肉にも、子供達はありとあらゆる側面における「死」を意図も容易く選択するようになったのである。

そして交友関係も家族も共同体も希薄化し、挙げ句に、いじめや自殺等、現代社会の病理的現象が噴出するようになったわけである。
こうした状況に対する「処方箋」を実践的具体的に(例えば上記のハイデガーの実存哲学に基づいて)構想するにあたってまず第一に求められているのは、伝統的な社会が当たり前の様に保持し続けていたあらゆる側面に「死」が陰に陽に潜む社会状況を、今一度、復権させることの他に無いのではないかと,筆者は思う。

絶望的な状況下で「希望」を語る姿勢が、折れない心をつくる

折れない心、レジリエンスある精神を涵養する上で必要不可欠な、精神における「迅速回復性」は、「希望」の喪失、つまり「絶望」によって失われる。
例えばキルケゴール(1849)が指摘したように、「絶望」は精神の躍動を停止させ、その精神を死に至らしめる。だからこそ、一定のショックを被った精神の回復には「希望」が必要不可欠なのである。

そこに「希望」があれば、その精神の躍動は継続され、精神の傷は癒えていく。
もちろん「希望」を確保するためには、各人の「望み」の実現可能性が重要な要素である。

しかしそれ以上に深刻な問題は、何が望ましいものなのかという「価値観」が失われ、それを通して「望み」それ自身が喪失してしまうという事態だ。
価値多様化ともいわれる現代社会は、その実、価値そのものが失われたニヒリズム(虚無主義)が濃厚に存在する時代だ。

そんなニヒリズムの時代では、目先の損得や刺激や快楽、さらには気分にその身を任せる傾向が極大化していく。

価値観が無ければ、価値観以外の損得や刺激、気分以外に行動の指針が全て喪失してしまうからだ。
だからニヒリズムは必ず享楽主義や日和見主義を導き、「こうありたい」「こうすべきだ」というあらゆる「意志」というものそれ自身を人々の精神から奪い取っていく。そして言うまでも無く、意志が不在となるということは、自分自身の「将来」、さらには自分が属する家族や共同体や国家の「将来」において「実現せんとするもの」(望み)が全て消滅するということである。
かくしてあらゆる価値観が失われたニヒリズムの境地においては、子供達の間で打算的な人間関係や実力主義が横行し、必然的に、何の望みも無いいじめや自殺や少女売春がはびこることとなる。

いじめられっ子に価値を認めずその場の空気に全てを委ねる振る舞いこそがいじめであり、自らの生命や精神や誇りに何ら価値を認めずその場の気分や打算に全てを委ねる振る舞いこそが自殺であり少女売春だからだ。

さらに言うなら知的好奇心や自己研鑽の精神の伴わない単なる(中長期的な)打算に裏打ちされた受験勉強やスポーツへの過剰な献身が社会に蔓延するのもまた、ニヒリズムの必然的帰結なのである。
しかし、どれだけ彼らがニヒリズムに浸っていたとしても、彼らの精神が打算や気分や空気で満たされることはない。精神はあくまで精神であり、打算や気分とは無縁の世界で躍動し続ける「形而上的」な存在であり、それを満たすためにはニヒリストでは絶対に価値を見いだすことができない「形而上的な養分」(例えば、家族との平凡な暮らし、芸術や美しい自然との接触等)を必要とするのである。
だからどれだけ彼らがニヒリズムに浸っていたとしても、そして彼らがどれだけ打算や空気の世界における成功者であったとしても、例えば親や友人の心ない一言や振る舞いで子供達の精神は深く傷つくことになる。

そして、彼らが打算や空気だけを追い求めるニヒリストである限り、彼はその傷を癒やすための「形而上的な養分」を手に入れることに失敗し続け、したがってその傷が癒えることはなくなってしまうのである。

そして彼の精神は永遠に満たされることがなくなってしまうのである。
そして誠に悲惨なことに、ニヒリスト達は自らの精神が癒やされていないこと、満たされていないことに、意識的ないしは無意識的に「気付いて」しまうのである。

しかし彼らはニヒリストであるが故に、彼の精神の養分である形而上的なあらゆる美徳を認識する術を持っていない。かくして彼らは致し方無く、束の間の満足を満たすために打算や気分や空気をさらに過激に追求する羽目になってしまうのである。

しかしもちろん打算や気分や空気で追い求めるものは、きりが無い。

カネも名誉も地位も、求め出せば限りなく、果てしないものだからだ。

だから彼は結局、(仏教で言うところの)「餓鬼」のごとく、あらゆるものを喰らい尽くすにもかかわらず、永遠に満たされることがなくなってしまうのである。

ニヒリズムに陥るということは、地獄への扉を開くことそのものなのである。
そしてこうした事態こそ、レジリエンスの論理でいわれる「迅速回復性」が喪失されてしまった状態をそのものなのである。
一方でニヒリストあらざる、形状上的養分の重要性を意識的無意識的に認識している人々は、自らの精神の傷を癒やすための養分(繰り返すが例えば、平凡な家族との時間や良質な芸術や自然との接)を容易く手に入れることができ、したがって如何に精神が傷ついたとしても、その傷を遅かれ早かれ回復することに成功するのである。
子供達から望みや希望を奪い去り、彼らが受けたあらゆる精神の傷が癒える機会を永遠に奪い去り、最悪のケース、彼らを意図も容易く売春や自殺に追いやってしまう、あらゆる「絶望」の根幹に位置する「虚無主義=ニヒリズム」を可能な限り排除していくためにいかに成すべきなのかと言えば―――まず第一に、一人ひとり大人達の精神からニヒリズムを排除していくことの他に無い。
昨今の大人達は「価値観の多様化」という言葉にあぐらをかき、単なる打算や気分と、良質な芸術や精神の交流とが「比較不可能な等価なものだ」ということにしてしまい、単なる打算や気分をひたすらに追い求めるニヒリズムに強大な権力を与えてしまった。
この世には美しきものと醜きものがあり、正しきことと邪なことがあり、善きことと悪しきことがおり、そして真と偽がある―――その当たり前の事を主張することを、「価値観の多様化」や「民主主義」という美名の下でやめてしまい、結果、ニヒリズムが強大な勢力を誇るに至ってしまっている。
その必然的帰結として子供達の精神は「絶望」の淵に追いやられているのであり、それを通して、精神の躍動が停止し、精神の回復力が喪失されてしまっている。これこそ、現代の青少年の精神の「たくましさ」が失われている根源的原因なのである。
この悪夢のような時代を終わらせるには、一人ひとりの大人が、美しきもの、正しきもの、善きことや真実を理解する理性や美意識を持ち続けるとともに、それらに対する敬意を持ち続ける努力を重ねねばならない。

それと同時に、醜きものを醜いと断じ、邪なものや悪しきものや偽なるものを、邪なもの、悪しきもの、偽なるものと批難し、時にそれらと戦い続ける「勇気」を持たねばならない。
一人ひとりの大人達がそうした実践を過程や職場、学校やメディア等の社会のあらゆる局面で展開することができてはじめて、ニヒリズムの勢力は少しずつ衰えることとなるのであり、それができて初めて、子供達の精神をニヒリズムの淵から救い出すことが可能となるのである。
だからこそ、それができない様な社会の国の子供達は――今の日本のように――ニヒリズムに憑依され続け、絶望の淵へと一人ひとり突き落とされていく他なくなってしまうのである。
いずれにせよ―――誰一人として例外なく我々は死すべき存在なのであるという認識の下、当たり前の伝統の保守と復権,さらには、真善美を愛し、保守せんとすると同時に、偽悪醜を憎み闘う勇気と実践を、この国の大人達が実現出来たときにはじめて、子供達においてたくましき精神が、当たり前の様に涵養されることとなるのである。

しかしそれができないとするなら―――子供達の精神はこれからも満たされることの無い無限の地獄へと一人ずつたたき落とされ続けることとなる他、ないのである。


阪神矢野監督9回迷いも「青柳に任せたい」一問一答

2019年04月30日 02時22分20秒 | 投稿欄

4/29(月) 日刊スポーツ
-青柳には開幕前に2桁勝利の太鼓判を押した

矢野監督 全体的なことを言うと、ずっと成長している。2桁も十分勝てる内容の投球。安定感、信頼度はどんどん上がっている。任せようという思いになっているので頼もしい。

-マルテが昇格即安打

矢野監督 ああいうところでマルテがいるのは相手にとっても気持ち悪い部分もあると思う。チーム全体のポイントゲッターとして打ってくれると助かる。全体的にはいい形になりつつあるかな。

-マルテの足の状態は

矢野監督 100%じゃないけど、プレーするなかでの制限はあるわけではない。大丈夫だと思います。

-青柳自身も最後まで投げる方が良かったのか

矢野監督 (最終回の)内野安打からごちゃごちゃになって悪い結果になったら、俺の完全な采配ミス、判断ミスになる。俺も「青柳に任せた」と腹はくくっているけど状況って動くからね。

-9回に満塁で打席を迎えたところは迷ったか

矢野監督 迷ったね。ただ俺のなかで「青柳に任せたい」という気持ちの方が強かった。(代打で)鳥谷出して点を取って、後ろの投手に任せる方がいい選択肢も、もちろんある。結果から振り返った俺の反省としては、それはある。でも、青柳に任せてやりたいっていう気持ちとのてんびんなのよ。


阪神西、まさかの作戦に揺さぶられ被弾/山田久志

2019年04月28日 03時09分10秒 | 投稿欄

4/27(土) 日刊スポーツ

<中日5-4阪神>◇27日◇ナゴヤドーム

阪神の連勝が3でストップした。中日4回戦(ナゴヤドーム)は初回に3点を先制しながら、4回に西勇輝投手(28)が打たれて逆転負け。日刊スポーツ評論家の山田久志氏は、ビシエドの3ランにつながった中日ベンチの策に焦点を当てた。

◇   ◇   ◇

頼みの西がビシエドに打たれた。4回。1点を返され、なおも無死一、二塁。ビシエドに内角寄りのシュートを左翼席に運ばれた。

山田 阪神バッテリーがあそこを攻めるのは間違いではなかった。ビシエドが打てないところで紙一重だ。想定外だったのは、その前の中日から仕掛けられたエンドランだ。

山田氏の指摘する中日の「わな」とは-。中日は4回、先頭平田が死球で出塁。続く京田が1ストライクからの2球目に手を出すと、スルスルと地面を這うように、一、二塁間を抜けていった。ここでエンドランがかかっていた。

山田 あの場面でのエンドランは考えにくい。中日は3点リードされて負けているわけで、ライナーもあるからリスクが高い、まさかの作戦にはまったといえる。中日サイドをほめるべきだが、あれで西は揺さぶりをかけられた。京田の右前打で一、三塁になると、3番大島に二安でつながれ、1点を返されてしまう。

4回無死一、三塁。大島を迎えた西は、一塁走者京田に計5球けん制を入れるなど抑えにかかった。最後は適時内野安打にされ、直後にビシエドに3ラン…。

山田 あの回、西が「あれっ、あれっ…」という間にやられるのは、オリックス時代から崩されるパターンの1つ。もともとがゴロを打たせるタイプで、3回まではストライクを先行させながらの完璧だった。しかし、その投球のペースが打者とちょうど合ってしまう瞬間がある。いわゆる西のテンポの良さは表裏一体といえるのだ。

DeNAに3タテを食らわして勢いづいたかにみえた阪神だが、手痛い逆転負けになった。もちろん、西が打たれたことだけが、敗因ではない。

山田 3回1死満塁の好機に陽川がボール球に手をだした後で浅いレフトフライを打ち上げたのは、ベンチも「どうして?」という感じだろうし、ちょっと寂しい結果だった。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

 


「子連れ狼」漫画原作者の小池一夫さん死去

2019年04月25日 11時38分52秒 | 投稿欄

 「弐十手物語」
2019.4.19 産経新聞

大ヒット漫画「子連れ狼」など数多くの人気作品を手掛けた漫画原作者の小池一夫(こいけ・かずお)さんが17日、肺炎のため死去した。82歳だった。葬儀は親族で営んだ。
小池さんの公式ツイッターで19日発表された。同ツイッターによると、「かねてより入院療養中」だったという。

 昭和11年、秋田県生まれ。中央大学法学部卒業後、劇画の魅力にひかれ、漫画家のさいとう・たかをさんのプロダクションへ。

初期の「ゴルゴ13」や「影狩り」の原作を担当し、頭角を現した。

 独立後、出世作となったのが時代劇画「子連れ狼」=画・小島剛夕(ごうせき)=だった。45年から51年にかけて漫画誌「漫画アクション」(双葉社)に連載され、多くのファンを獲得。

幼子の大五郎を連れて諸国をさすらう刺客・拝一刀(おがみいっとう)の復讐譚(ふくしゅうたん)を描いた内容は、映画やテレビで作品化され、幅広い人気を集めた。以後も、「弐十手物語」「傷追い人」「キンゾーの上ってなンボ!!」「クライングフリーマン」などヒットを連発。漫画原作で一時代を築いた。

 一方、漫画家育成にも力を入れ、52年に「小池一夫劇画村塾」を設立。塾からは「うる星やつら」の高橋留美子さんや「北斗の拳」の原哲夫さん、ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの堀井雄二さんら数多くの人材を世に出した。大阪芸術大などでも教鞭(きょうべん)をとり、「漫画はキャラクター」の持論のもと、創作法などを指導していた。
小説や脚本なども手掛け、近年はSNSで発信を繰り返しており、さらにファン層を広げていた。

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死去の小池一夫さん、ツイッターで多くの「名言」 「自分が自分として生きることに、誰の許可もいらない」
J-CASTニュース

ツイッターのフォロワーは90万人

小池さんは『子連れ狼』(作画:小島剛夕)や『御用牙』(作画:神田たけ志)、『クライングフリーマン』(作画:池上遼一)などの原作者として知られる。特に『子連れ狼』は若山富三郎さんの主演で映画化、人気シリーズとなった。
原作漫画、映画版ともに、海外でも評価が高い。

2010年3月からは、ツイッターを始め、豊富な人生経験に基づく投稿内容が反響を呼んだ。フォロワー数は19日現在、約90万人に達する。
つぶやいた文章から225編を集め、再編集した『だめなら逃げてみる―自分を休める225の言葉』(ポプラ社)の「魅力」という一文には、

「自分が自分として生きることに、誰の許可もいらない。」
「人と繋がることは、幸せの始まり」という一文には、

「人とは繋がるが、人に干渉はしない。
人とつながることは、幸せの始まりで、
人に干渉することは、不幸の始まり。」
などなど、小池一夫さん自身の想いが綴られていた。

生年月日:1936年5月8日 (82歳)
出身地:大仙市
小池 一夫は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。
秋田県大仙市出身。男性、身長183cm、血液型はB型。
1976年までの筆名は小池 一雄。