カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“必要十分条件”についての考察

2010年06月17日 | 日記 ・ 雑文
先日の日記で示唆したように“カウンセリングにおける最も重要な問題点のひとつ”とも言えるカウンセリングの核心部分は、「カウンセリング関係(もしくは場面)において、いかなる条件が満たされればクライエントに建設的なパーソナリティーの変化が生じ、態度・行動の変化が起きるのか?」という問題だと筆者は考えている。
よく知られているように(かどうか、本当は知らないが)、カール・ロジャーズはこの問題に対し、『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』(伊東博訳・ロジャーズ全集第4巻『サイコセラピィの過程』第6章)と題する論文において持論を展開している。ここに示されている“ロジャーズの考え”が、どの程度妥当なものであるのか、私自身の2つのカウンセリング経験(ひとつは初めての個人面談、もうひとつは初めてのグループカウンセリングであった「カウンセリング入門講座」での経験のこと。どちらもすでに日記に記した)に基づいて考察してみようと思う。
ロジャーズは『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』(以下、“必要十分条件”と表記する)の中で次のように書いている。

建設的なパースナリティ変化が起こるためには、次のような条件が存在し、それがかなりの期間継続することが必要である。
① 二人の人間が、心理的な接触(psychological contact)をもっていること。
② 第1の人――この人をクライエントと名づける――は、不一致(incongruence)の状態にあり、傷つきやすい、あるいは不安の状態にあること。
③ 第2の人――この人をセラピストと呼ぶ――は、この関係のなかで、一致しており(congruent)、統合され(integrated)ていること。
④ セラピストは、クライエントに対して、無条件の肯定的な配慮(unconditional positive regard)を経験していること。
⑤ セラピストは、クライエントの内部的照合枠(internal frame of reference)に感情移入的な理解(empathic understanding)を経験しており、そしてこの経験をクライエントに伝達するように努めていること。
⑥ セラピストの感情移入的理解と無条件の肯定的な配慮をクライエントに伝達するということが、最低限に達成されること。
他のいかなる条件も必要ではない。もしこれらの六つの条件が存在し、それがある期間継続するならば、それで十分である。建設的なパースナリティ変化の過程が、そこにあらわれるであろう。

以上は要約部分であり、これにそれぞれの条件についての詳細な解説が加えられているが、ここでは割愛する。興味・関心を持った人がいたなら、ぜひとも上記論文を入手して、読者自身によって検討してもらいたいと願っている。

さて、まずは条件①だが、これは条件②~⑥が成立するための前提条件のようなものなので、詳細な検討は必要ないだろう。「条件①は満たされていた」としておく。
続いて条件②だが、これも「満たされていた」のは明らかだ。個人面談のときの私は「カウンセラーから厳しい言葉が浴びせられるのではないか?」と傷つくのを恐れて怯えていたし、入門講座の場面では――“不安の状態”という表現はあまり適切ではないような気もするが――、予想外の展開に目が点になり、ひどく動揺したという意味で「きわめて不安定な状態だった」と言えるからだ。
次は条件③だが、これはカウンセラー側の状態なので、私(クライエント)には判別不可能である。が、私の側の経験を述べるならば、「口ではそう言っているけど、腹ではぜんぜん違うことを思っているのではないか?」というような疑念は、カウンセラー(もしくは世話人)に対してまったく浮かばなかった。
個人面談のカウンセラーは(自分の興味・関心からだと思うが)、私が返答に困るようなことをしつこく尋ねてきたし、入門講座の世話人は、受講生の質問に苦笑いを浮かべながら困惑気味に本当のことを返答しているように見えた。どちらの人も「率直で正直な人物である」と、私に認識されていたのである。
次は条件④と⑤だ。「それぞれの条件が何を意味しているか?」という点は本稿の主旨ではないので、ここでは一緒に扱うことにする。もしもこの点に関心を持った人がいたなら、上記論文を熟読・吟味していただけたらと思う。
さて、④と⑤だが、これもカウンセラー側の経験について述べられているものなので、正確には判別不可能だ。私の側の“経験のされかた”を述べると、個人面談では「④も⑤もなされていた」となる。したがって「条件④と⑤は満たされていた」と判定してよかろう。
問題は入門講座での私の側の“経験のされかた”である。すでに記述した通り、2時間30分の時間内に私が発言したのは一度だけ、自己紹介の場面で名前を述べただけだった。これに対し、世話人から何らかの応答があったという記憶はない。とすると「条件④と⑤は無かった」ということになるのだろうか?
ここから先は憶測や想像の類がかなり含まれてくるが、入門講座で私の心に決定的な変化をもたらしたのは、「本当に自由でいいんですよ。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなくていいんですよ」という世話人の発言だった。これは言うまでもなく、“特定の個人に対して”ではなく、“参加者全員に向けて”の働きかけである。この発言による働きかけがなされる直前がどんな場面だったか、まったく記憶がないが、たぶん世話人はこの場における参加者たちの“存在の仕方”とでも呼べるような何か、あるいは“醸し出されている雰囲気のようなもの”を感じ取って、このような働きかけをしたのではないか? と想像できる。仮にそうだとしたら、このときの世話人の心中には「条件④や⑤に相当するような経験が生じていたのではないか?」という推測は十分可能だろう。
付け加えておくと、このセリフを聞いた瞬間の私は、何か“勇気をもらった”ような感じになった。講座が始まってからこの時点に至るまで、私の心中には講座や世話人に対する否定的・批判的な感情しかなく(次週からは欠席しようと考えていた)、ゆえにそのような気持ちを正直に述べるのは困難であり(基本的には他者との間に波風を立てることや、口論や喧嘩を好むタイプではない)、したがって口を固く閉ざしているしかなかったわけだが、「話したくなければ話さなくていいんですよ」は、「そのままでいいんですよ」という意味に聞こえたのだった。
というふうに“経験された”ということは、(他の参加者については不明だが)少なくとも私には条件④の「無条件の肯定的な配慮がなされていた」と判定してよかろう。ついでに述べておくが、条件⑤の感情移入的理解(共感的理解とも呼ばれる)については、それが私に対して「なされた」とはまったく経験していない(そもそも私は名前しか述べていないのだから)。ただし、他の参加者に対してはこのようなタイプの応答があったかもしれない、とは言える。
最後に条件⑥だが、これは明白だ。個人面談ではどちらも最低限は達成されていた、というふうに経験された。入門講座では片方(無条件の肯定的な配慮)のみ、最低限は達成されていた、というふうに経験された。

以上、ロジャーズが提示した“必要十分条件”がどの程度妥当なものであるかを検討してきたわけだが、結論としては「かなりの程度妥当である」と言ってしまってよいだろう。しかし、上述した“私の経験”に基づいて言うならば、この結論からさらに一歩進めて「建設的なパーソナリティーの変化が起こるためには、“カウンセラーがどのような条件を用意するか?”ということよりもむしろ、“クライエントがカウンセリング関係(もしくは場面)をどのように経験するか?”ということのほうにより大きく依存している」と述べたい。

と書いたところで、「あれ? こういう文章どこかで読んだことあるぞ」という思いが生じた。そこでちょっと調べたところ、『カウンセリングの技術―クライエント中心療法による―』(友田不二男著・誠信書房・初版1956、第2版1996)の中に次のような文章があった。

           * * * * * * * * * * *

われわれが経験を積んで前進してゆくにつれて、ある特定のケースにおけるセラピィの動き(therapeutic movement)の確率は、基本的には、カウンセラーのパーソナリティに依存するのでもなければ、また、カウンセラーの技術に依存するのでもなく、また、カウンセラーの態度に依存するのでもなく、これらのすべてが、その関係においてクライエントにより経験されるされ方に依存しているということが、きわめて明白となってきている。(拙訳『サイコセラピィ』87頁参照)

このロジャーズの言葉は、端的に、この間の事情を提示しているであろう。しかも、このロジャーズの見解は、私自身の臨床経験(clinical experience)ともまた、最高度に符合するように私には思われているのである。
このことは、ロジャーズの思考と方法につながる立場におけるカウンセリングを理解するにあたり、どんなに強く肝銘されてもされ過ぎることはないであろう。また、これを逆に言うならば、もしもこの点に対する認識なしにロジャーズを解するならば、とうてい、真の理解を達成することができないであろう。(以下略)

           * * * * * * * * * * *

う~む……。私は本稿の執筆を通して「新事実を発見した!」かのように思っていたが、私が発見したと思っていたその“事実”は、ロジャーズがかなり初期の頃に(年代は不明)、また友田不二男が1956(昭和31)年に示した見解とまったく同じだったのである(苦笑)。
もっとも、だからと言ってガッカリしているわけではない。なぜなら、ロジャーズや友田が示したその“見解”は、今や私自身の“血肉になっている”と思えるからだ。

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