カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“宿命”と“天命”と“真空”と・・・

2010年07月31日 | 日記 ・ 雑文
最近の楽しみのひとつにNHKの『龍馬伝』がある。私は日本の歴史や幕末に詳しいほうではないし、ましてや“龍馬の熱狂的なファン”でもないので、ドラマの内容を歴史的事実から見るとどうなるか、という点はよくわからない。だが、龍馬という人物の「ナイーブでシリアスな内面がよく描かれている」という意味では、良質なドラマ作品に仕上がっているという印象だ。
素人である私の坂本龍馬という人に対するイメージは、“破天荒”という形容がもっとも近かったのだが、青年時代の思い悩む姿に接すると親近感すら覚えるほどである。どれほど大きな歴史的偉業を成し遂げた人物でも、元をたどれば「ただの人なんだなあ」と、しみじみと思ったのだった。
龍馬だけでなく、幕末を駆け抜けた志士たちの姿には、たとえ思想や立場が異なっていたとしても、それぞれに心を揺さぶられるものがある。それはきっと、彼らの姿や生きかたに“志”(こころざし)を感じ取るからだろう。また、別の観点から言えば、「人間が生まれながらにして持っている本懐は、寿命ではなく“天命をまっとうすること”にあるのではないか?」とまあ、そんなことまで連想してしまうのである。

ここで我が身を振り返ってみよう。正直に告白すれば、現在の私には「社会の在り方を変革したい!」というような“大志”は何もないが、普通に暮らしている人々が持っているのと同じようなとても個人的な望みや願いだったら、もちろん人並みに持っている。
そこでふと思った。「どんなに小さな念願であっても、それを成就しようとする際に“お金と時間があればできるのに……”というような条件を設定したなら、その念願はきっと成就しないだろう」と。
人間が行為するための根源的な何かは“衝動”であって、条件や環境ではないはずである。吉田松陰、坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛などなど、彼らは条件や環境に恵まれていたのだろうか? そうではあるまい。彼らを突き動かしたのは彼ら自身の内面的要因、すなわち“衝動”である……と私は見ている。

もっとも、これにいわゆる“天運”としか言いようがない何かが加わってくるので、話はそう単純ではない。彼らがあの時代にあの場所で“オギャーと生まれ落ちた”という事実は、どこからどう見ても「天運だった」としか言いようがないだろう。
“衝動”と“天運”……。このふたつの要素を掛け合わせると、果たしてどういうことになるだろうか? 友田氏が述べているように「発見・発明・飛躍といったようなことには、何かしら人間そのものをも包含した巨大な大自然の法則が潜んでいる」、また「何かしら“幸運”は、随所随所にゴロゴロしているのだが、その“幸運”をして“幸運”たらしめることそのことのできる、“人間の態度・姿勢・構え・積み重ね・関心など”がある」のだろうか?

現実に即して言えば、私を含めて人間はみな「ありとあらゆる様々な条件と環境に規制されている」のが現実の姿であるのは否めない。「強い気持ちや欲求さえあれば、どのような人間にもなれるのだ」という考えは、きっと幼稚な考え方だろう。なぜなら、人間は“オギャーと生まれ落ちた”その瞬間に、すでに“宿命”とも言える何らかの本質、別言すれば“他の誰とも異なるその人だけのオリジナリティー”を持って生まれてきているはずだからだ。幕末の志士たちがそうであったように。
そうだとすると、つまり人は、“己の宿命”もしくは“自分というものの本質や本来性”からは絶対に逃れることはできない。ゆえにそれを受け入れるしかない……となるだろうか?

ここのところで極めて厄介な問題が浮上してくる。それは、いったい何が“己の宿命”なのか? という点だ。私たちは人間社会の中で生活を営んでいる以上、他者からの様々な条件付け(“しつけ”とか“教育”と呼ばれているもの)を受け入れなければ生存自体が困難になる。ゆえにかなりの程度、不知不識のうちに“自分で自分を条件付けている”に違いない。これが私たちの“現実の世界”だとすると、理論的には「現実の世界においては、飛躍・成長・発展といったようなことは不可能に近い」となるだろうか?
もしもそうだとすると、人間が飛躍・成長・発展を遂げるためには「一切の後天的な条件付けが存在しない“非現実的な世界”が必要である」となりそうだ。さらに言えば「この“非現実的な世界”に存在するのは、己の“宿命”もしくは“本質・本来性”のみである」となるだろう。

以上で述べた“人間というものの真相”に関する暫定的な考え方が支持されるならば、ブライアン氏が発した“Vacuum”(真空)という言葉は、ここで言う“非現実的な世界”を意味・象徴しているように読めてくるし、また「人間が変化するのは、わかりやすくいうと“ひとりぽつんといるとき”である。人間と人間の接触があったり、現実の状況のなかでは、人間は変化しない」という同氏の提言には、絶大な洞察が含まれているようにも読めてくる。
……が、はたして真相は? もちろんそれは、今後の私たち自身の歩みによって探求されていかなければならない課題のひとつなのだろう。

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