カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

操作主義について思ったこと

2007年07月14日 | 日記 ・ 雑文
息子(3歳)は親の言うことをまったく聞かない。「○○しなさい!」と言えば「○○しない!」と言って一歩も動かず、「××しちゃダメって言ってるでしょ!」と言えば「××するの~」と言って、親がとても困ることや危険なことをしたがる。とにかく、まず最初はほとんどの場合、親の指示とは反対の行為をとるのである。
四六時中こんな調子なので、息子と関わっていると親のほうは疲れ切ってグッタリしてしまう。とくに被害(?)を受けてるのは母親のほうだが、僕だって例外ではない。

息子は最近、誕生日に買い与えた自転車(ゴロ付き)にハマっているのだが、それに付き合わされて大変な目に遭ったことがあった。幼稚園に行ってる日は帰宅するのが3時頃なので、自転車で出かけるのはいつも夕方だ。
その日もあっちやこっちやお気に入りのコースを一巡りした。もうかれこれ2時間近くは走り続けただろうか。こちらはもうヘトヘトである。時計を見ると6時を過ぎていた。夕飯の時間なので帰らなければならない。そこで自転車の向きを強引に変えてこう言った。

「ご飯の時間だから帰ろう」
「帰らない」
「ご飯食べないの?」
「食べない」
「じゃあジュース飲もう。ヤクルト飲もう」
「飲まない」
「じゃあチョコレート食べよう。アポロ食べよう」
「食べない」
「じゃあ……トミカで遊ぼう。自動車工場で遊ぼう」
「遊ばない」
「じゃあ…………トーマスの映画観よう。ディーゼル10観よう」
「観ない」
「…………自転車で遊ぶの?」
「遊ぶの!」
「ダメだよ。ご飯の時間だから帰るよ(怒)」

と言って自転車を動かそうとしたら、彼は怒って自転車を倒した。そして自分もその場に仰向けになった。足をバタバタさせながら靴を脱いで放り投げた。靴を脱ぐのは「ここから動かないよ!」という意思表示である。車道なので傍らをクルマが通り過ぎていく。車道にはみ出してはないが、歩行者の邪魔には十分なっている。

僕は本当に困り切ってしまった。彼が大好きなものをエサにして釣ってみようと試みたが、まったく通用しない。彼の心は「僕は今、ここで、自転車で遊びたいのだ!」の一心なのである。それ以外は眼中にない。
かといって、ここで彼の願望を容認するわけにはいかない。家に帰らない、ご飯も食べない、フロにも入らない、ということが許容できるわけがない。カウンセリングに限らず、人生には「時間の制限」があるのだ。

困り果てて僕も地べたに座り込んだ。倒れた自転車と仰向けの息子を視野に入れながら、僕の視点は空中をさ迷っていた。フト脳裏をかすめたのは『人間が人間を操作できるわけがない。人間は機械やクルマとは違うのだ』という友田先生の言葉だった。このときほどこの言葉の意味が、胸に深く染み込んだことはない。
僕はこの言葉を噛み締めながら、さらに深く絶望した。「この状況で僕にできることは何も無い」と悟った。彼を動かそうとすることを完全にあきらめた。僕にできることと言えば、ただもう「困ること」だけだったので、傍らでずーっと「困って」いた。他には何の思いも無かった。

5分くらいたったであろうか。彼は無言ですくっと立ち上がり、倒れた自転車を元に戻した。“非常に大切な場面だ”と感じたので、僕も無言で彼の行動を見守った。ここで不用意な発言をすると、すべてがパアになってしまう。そんな気がした。
彼は靴を履かずに自転車をこぎ出した。向ったのは我が家の方向だった。

仰向けになって動かないことに飽きたのだろうか? 真相はわからない。ただ、「気が変わった」ことだけは確かである。
僕は驚いた。何が彼の気持ちを変えたのだろう? わからない。いや、わかっている。“自然に”変わったに決まっているじゃないか。でもその“自然に”って……いったい何だろう?
そんなことを考えながら、僕たち二人は無事に家までたどり着くことができた。

心理学用語を使うと、こういうのを「第一反抗期」と呼ぶのだろう。しかし僕にはどうしても「反抗期」には見えない。と言うより「心理学の立場からすれば確かに“反抗期”だろうが、これをそう呼んでしまっていいのか?」という疑問を抱くのである。
“カウンセリングの立場”から見れば、彼は「今、ここで、やりたいことを、やろうとした」だけのことである。それを「反抗期」などと名付けて、あたかも「反抗する側に問題がある」かのようなレッテルを貼るのは、いかがなものかと思うのだが……。
しかし、だからといって親としては「何もかも許容する」わけにはいかない。カウンセリングだって許容されるのは、面接中の1時間に限られるのだから。「人生には時間の制限がある」ということを体験的に、実感できるように教える必要はあるだろう。ま、それができれば……という話だが。

したがってこんなときは、「親にできるのはせいぜい“困ること”ぐらいのものだよな~。ハア(ため息)」と、半ば無力感を感じながら、しかたがないので今はそう思い定めている。そしてまた、「徹底的に“困ること”ができたなら、一に徹することができたなら、道は自ずと開けてくるのではないか?」という、かすかな希望も抱いている。

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