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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第43話「子供の遊び」(昭和20年~23年)

2006-11-02 | 昔の思い出話
遊び1
 この頃の子供の遊び方のいくつかを記録しておきたい。最近の子供達と比べると当時の子供達は驚くほどの工作技術を持ち、想像力も創造力も豊かであったようだ。大抵の遊び道具は自分達で作った。おもちゃは当然自分で作るものと思っていた。 
 男の子の間で、よくはやったものにコマ車付きの板、ローラーボードがある。何と呼んでよいのかわからないので適当に「ローラーボード」とでも名付けるが、機械部品の一つであるベアリングと板や木切れから作るスケートボードのようなものである。さすがは工業都市大阪の下町であった。ボールベアリングは探せばどこかからでも手に入れることができた。 直径が約10センチくらいのやや大きめのボールベアリングを、太めで長さが30センチくらいの木の軸の両端に差し込み、同じものを二つ作って前輪、後輪とする。その上にベアリングの回転の邪魔にならないように、平板をとりつけて乗り物が出来上がる。前輪は固定せず、軸の中心部のみをゆるく金物で止めて、軸の両端に付けた紐で方向が変えられるように取り付ける。これが進行方向を制御するハンドルと言うわけだ。平板の上にお尻を載せて坂道の上から、勢いよく滑り降りるのがその遊び方である。
 我が家のあった路地は入り口から奥まで若干の下り勾配があり、通路の真ん中には四角い大きな石を縦に並べて踏み石としてあったので、走行のレーンは中央の石畳の部分を避けて、両端のコンクリートの部分をうまく利用することが、スピードを出して、かつ滑らかに滑るための「こつ」であった。途中で、下水道の蓋や障害物がいくつもあったので、真ん中の石畳の部分をがたがたしながら横切らねばならず、倒れずに路地の奥まで乗り切ることにはかなりの熟練が要った。毎日、毎日、飽きずにその乗り物で遊んでいたが、この乗り物は何度乗っても楽しかった。
 次も男子用の遊び道具であるが、「輪回し」のお話である。自転車の車輪や細い金属の輪を鉄の細い棒で押して道路上を転がすのである。輪を転倒させずに持続して転がすには、結構速いスピードで走る必要があった。自分は運動神経が鈍かったのか、輪が細く小さいと直ぐに棒から外れたり、輪がこけたりして、あまりうまく走ることが出来なかった。しかし、自転車の車輪を輪回しの輪にしたときには、うまく回すことが出来た。自転車の車輪はある程度の幅があり、また輪を押す棒が車輪の溝にはまり込んで、はずれないような構造になっていたし、それ自体の回転に安定感があったので、少々ゆっくり走っても輪が倒れることはなかった。
 これらの道具の調達先は勿論のこと、戦災で焼けた焼け跡から拾ってくるのである。焼け跡には子供のおもちゃになりそうなものが一杯落ちていた。ここで使う車輪は自転車の焼け残りであるから、当然タイヤやチューブは燃え尽きて残っていない。この車輪から、スポークの部分を金鎚やペンチを使ってきれいに取り去り、車輪の外回りだけを残して、輪回しの輪にするわけである。車輪はコンクリートの道を走ると、がらんがらんと大きな音がする。その音がまた、楽しかったのである。
 次は紙鉄砲である。ボール紙や厚手の紙を5ミリから1センチ位の大きさに切り、それを弾として飛ばすのだ。割り箸くらいの太さの角材を組み合わせてピストルの形を作り、引き金の部分に輪ゴムを取り付け、また、引き金を引けばゴムの力で紙切れが飛ばされるように、別の場所にもゴムを取りつける。握りの部分に少し太めの板材を使うと、かなり重量感のあるものを作ることができた。上手に作れば3、4メートルくらい、弾をとばすことが出来て、的をねらうこともできた。
 手製の水鉄砲もよく作った。これを作るのはきわめて簡単。節のある竹切れを拾ってきて、節の部分をぎりぎりに残して切り落とし、節の真ん中に、きりで穴をあければシリンダーの本体は出来上がり。水を押す側のピストンは棒切れの先に布を巻き付けるだけであった。金タライに水を入れ、ピストン棒を引っ張って水を吸い上げ、後は人にめがけて水を射る。それだけである。水は2、3メートルは飛んだ。風呂屋へ持ち込んで友達とお湯の掛け合いをしたり、夏には路上で水の掛け合いをしたものである。竹などは何処にでもあった。何処にもなければ、使い古しの箒の柄や物干し竿を適当に切り落とした。時には、無断で、使用中の物干し竿をちょん切って、母などからよく叱られたものである。
 ブリキ製の水鉄砲でもよく遊んだ。これは玩具屋で売っているもので、ちゃんとピストルの形をしている。ただ、ピストン部分に入れた水を指の力で押し出すので、指にかなりの力が掛かり、長時間遊んでいると右手の人差指の皮がむけたりした。痛くて長時間遊べないが、不意に友達に水をかけるのが面白くて、これもよく風呂屋へ持っていった。
 以上のほか、小物の遊び道具としては、「ベッタン」「コマ」「ばい」「ラムネ玉」などがあった。
 「ベッタン」とは標準語では「めんこ」と言うらしい。我々の子供の頃は「ベッタン」としか聞いたこともなく、言ったこともない。厚手の紙に子供の喜ぶ野球選手や映画スター、動物などの図案が印刷されている花札のようなカードである。これを地面に置いて、別の一枚を地面にたたきつけると、そのときの風の勢いで初めのカードが裏返る。うまく裏返しになれば勝ちとなり、そのカードを相手からもらうことが出来る。「ベッタン」の語源は多分、このときぺたんと地面に叩きつけるときの音か動作をイメージして、ベッタンと言うようになったのであろうか?
 ベッタンも少し厚めの画質の緻密なカードを持っていると有利であった。おもちゃ屋で売っているものは画用紙大の大きさに20枚ほどのベッタンが印刷されているので、それをハサミで切って一枚ずつのベッタンに切り離すのだ。1枚のベッタンの大きさはトランプカードの半分くらいの大きさであった。ベッタンは、当時の子供の間では最も人気のある遊びであった。直ぐに裏返しにならないように、ベッタンにロウを塗って、重くすることなどもルールの範囲内であった。
 負けると折角お金を出して買ったベッタンを人に取られてしまうことになる。自分は負けること自体、大変悔しいし、なけなしの小使いの無駄使いにもなるので、「ベッタン」はほとんどやらなかった。実際は、自分が使えるお小遣いなど、ほとんどなかったので参加できなかったと言うのが本音だが。
 「コマ」とは紐を使って回す日本古来の普通の木のコマである。軸芯は2から3ミリ程度の径の細い鉄棒で出来ており、木の部分の直径は大体5、6センチくらいのものが多かった。紐の上を綱渡りさせるなど高等な技術の使い手も多数居たが、自分はこれもあまり上手に回せなかった。上手にやれる人をうらやましく感ずることもあったが、仮にこのようなことに上手になっても、現実には何の得にもならないと言う生まれながらのプラグマティストでもあったので、また、子供のときから負け惜しみの気持ちだけは強かったのか、コマを上手に回すための練習など殆どしなかった。
 「ばい」と言うのはコマの一種である。鉛の固まりで大きさは、上から見て10円玉程度である。コマと同じように紐を巻き付けて回す。バイは鉛を高温で溶かし、型にはめて作る。このような製造技術は中学生くらいにならないと無理であった。また、バイを回すにはかなりの腕力とそれなりの高等技術が要ったので、小学生の間ではあまりやらなかった。小学生は、ただ横で見物して楽しんでいただけであった。
 石炭箱の上にゴザを敷き、その上で二人又は三人くらいの人間がが同時に「ばい」を回す。「ばい」は重量があるので、勢いよく回すと相手の「ばい」に当たり相手の「ばい」をはじきとばす。ござの外にはじきとばされた方が負けで、負けると所有権が相手に移る。
 「ラムネ玉」はガラス製のビー玉である。いわゆる炭酸飲料のラムネのガラス瓶の栓になっているあの玉である。赤や青のきれいな色でデザインされたラムネ玉がたくさんあって、オモチャ屋の店先色とりどりに並んでいると子供の欲望をいたく刺激した。これを使って遊ぶのは専ら屋外の道路上であった。
 相手の玉に自分の玉をぶっつける。うまく当たればその玉を頂く。結構な視力と運動神経を要し、これも下手であると直ぐに自分の玉を相手に取られてしまうので、自分にはあまり面白くない遊びであった。自分はこれも殆どやらなかった。
 「ベッタン」にせよ、「ラムネ玉」にせよ、何れも近くの玩具屋で売っていた。買うのに小遣いが要った。少なくとも一度に10円くらいの投資が必要であった。また、勝ってたくさんの数を集め、みんなに見せびらかしたりして、子供の間の一つのステイタスになっていた。バクチの要素もあるので、学校ではこれを禁止していたが、そう強力な禁止ではなく、子供達は取ったり取られたりして、バクチの感覚をそれなりに楽しんでいたのであった。

遊び2
 前記の遊びは、どちらかというと男の子が外で遊ぶときに使うもので、身体を動かすスポーツの要素があった。しかし、これから述べる遊びは、静かな、あまり動くことのない遊びである。男女に関わらず誰でも遊べるが、最近は殆ど見かけることがなくなった。
 初めに「写し絵」から説明しよう。写し絵は主として小学校低学年の児童に好まれた。これは今で言えばアヒルのダックやポパイのようなキャラクターを自分の持ち物、例えば筆箱や下敷きなどのセルロイド製品に転写する遊びである。紙の上に描かれたカラーのキャラクターの表面を水で濡らして、セルロイド製品の上に張り付ける。暫く押さえつけて置いて、その後、図案の上の紙の部分をゴシゴシと擦って取り除くと、シールの絵の部分のみがセルロイド面に転写して残るという仕組みになっている。こするときはツバをつけるか水分がないと紙がうまくはがれない。書くと難しくなるが、何でもない操作である。一度も見たことが無ければ、この説明では理解できないかも知れない。
 また、絵を写す相手の面が硬く、平板でないと、うまく転写できないので、専ら筆箱など自分の持ち物に目印を付ける目的で張り付けた。玩具屋で売っている一枚の写し絵の紙には、10個くらいのいろいろな図案がのっており、好きな図案をハサミで切りとる。子供は一枚買ってもらうと結構長い時間にわたって遊ぶ事が出来た。アヒルのダック、ポパイ、ベッテ(ベティのことを子供も大人もベッテと発音していた)などの図案が懐かしい。
 同じく低学年の子供に好まれた玩具に粘土細工がある。これは色の付いたゴム粘土を型にはめて犬や猫、その他色々なものを作る遊びである。型は5センチx3センチくらいの長方形の素焼きのようなもので作られている。そのくぼみにゴム粘土を押し込んで引きはがすだけのことである。粘土には赤や緑の色がつけてあったが、遊んでいる内に色が全部混ざって、真っ黒になってしまうことが多かった。
 「日光写真」というものもあった。これは今で言えばコピーの元祖のようなものである。10センチ角位の木枠にガラスの挟まった額縁の小型のようなものを用いる。額縁のガラス面の裏からネガにあたる原画と印画紙を挟んで太陽の方に向けて、5分ないし10分ほど曝すと、印画紙の方に原画が反転して焼き付けられるのである。日向ぼっこをしながら遊べるので気楽な遊びであった。印画紙は太陽光線に当てると効能が無くなる(風邪を引くと称する)ので、いつも黒い紙に包まれており、風邪を引かせないよう注意することが必要であった。
 原画は当時の人気の高い野球選手や時代物の映画俳優、ただの風景、静物のようなものがあった。モチロン白黒オンリーで、カラーなどはない。自分は生まれつきのセッカチで気の急くことが多かったのか、直ぐに結果を見たくなる癖があり、早く取り出しすぎて、滅多なことでくっきりした映像の成果物を得ることができなかった。
 同じようなものに、「あぶりだし」と言うものがあった。これは熱をかけると模様や文字が浮かび出る紙である。酸気のある薄い透明の液体で模様を書いておくと、そのままでは目に見えないが、熱をかけるとその酸味の部分が早く焦げて、模様が浮かび出るという代物である。何も書いていない紙に火を近づけると、文字や絵が浮かび出てくるので、神様のお告げや占いにも使われた。
 よく似たものに「水絵」と言うのもあって、水に濡らすと文字が浮かび出るものであった。駄菓子屋のおまけなど、当てものの番号を隠すのに使われていた。
 これらの玩具を入手するには、何れもお金を払って買う必要があったから、自分には殆ど無縁であった。むしろそのような仕掛けを自分で作って遊んだ。白い紙にミカンかユズの薄い汁で字を書くことで、自家製の「あぶりだし」を作ることが出来た。少々の化学の知識が必要であるが、悪口を書いた「あぶりだし」を友達に手渡して、悪ふざけをしたものである。

遊び3
 女の子の遊びはあまりよく知らないが、自分もやったことがあるものについてのみ書いておく。
 最初に「おじゃみ」「おはじき」「おりがみ」などが頭に浮かぶ。「おじゃみ」は手のひらに数個乗せることが出来るくらいの大きさである。色は赤でも黄色でも見栄えさえ良ければ何でも良い。要するにその辺に残っている端布でよい。その中に、砂利や石ころ、少し重みのある植物の種、そばかすなどを包んで作る。器用な女の子は同時にいくつも空中に放り投げてお手玉にして遊んだものである。その時に歌を唄って拍子を取る。例えば、
  
  夏も近づく八十八夜
  トントン
  野にも山にも若葉が茂る
  トントン
  そこに見えるは茶摘みじゃないか
  トントン

と言うような調子で、一人で歌に合わせて両手で「おじゃみ」を受け渡しするのであるが、一度に2個も3個も空中に浮遊させることが出来る女の子も居て、自分などは舌を巻いたものである。自分には、どうあがいて、そんな芸当は出来そうになかった。もちろん、秘かに練習はしたが、せいぜい2個のおじゃみを操ることが精いっぱいと言ったところであった。
 「おはじき」も最近目にすることがない。「おはじき」は丸いガラスの小片で1円玉の半分くらいの大きさである。これを数十個ほど手のひらでかき混ぜ、机の上に広げる。離ればなれになった平べったいガラス玉を1個づつ指ではじいて近くの玉にぶつける。当たればその玉は自分のものになり、さらに続けて取る権利が出来る。失敗すると相手に順番が移り、交互にやって、どちらが沢山のガラス玉を取るかで勝負する。この遊びは簡単であったので男の自分もよく参加して遊んだ。
 「おりがみ」もたくさんの折り方を姉や友達から習った。「奴さん」「騙し船」「風車」「ふね」などのいくつかは今でも作れる。自分が一番よく作ったのは進駐軍の帽子、日本の「かぶと」、紙飛行機などである。進駐軍の帽子は新聞紙で作る。日本の「かぶと」と同じく、自家製の製品を頭にかぶって一日中外で遊んだ。折り紙でも「紙風船」などは、それを使って実際に遊ぶ実用的な玩具であった。
 そのほか、女の子の遊びは沢山あった。道具の要らない、集団で遊ぶお遊戯のようなものも多くあった。例えば、二つのグループが数人ずつ横一列に手を組んで向かい合い、歌を唄いながら相手と仲間を取り換えっこする遊びである。お嫁さんをもらうと言うようなことがその遊びの背景になっている。まず、一つの組が相手に向かって
  「タンス長持ちどの子が欲しい?」
と声を掛ける。すると相手の組がみんなでこそこそと耳打ちをして一人の子を選ぶ。そしてその名前を合唱する。
  「康子チャンが欲しい」
との返事に対してさらに尋ねる。
  「どうして行くの?」
これに対して、また聞かれた方の組はこそこそと耳打ちをして決める。
  「猫になっておいで」と答える。すると、指名された康子チャンは「にゃん、にゃん、にゃん」と猫の鳴き声を真似ながら、猫のような格好をして相手の組に走り込んでいく。自分はこのような遊びは女の子の遊びと決めていたので、誘われても恥ずかしくて仲間に入らなかった。  
 正月の女の子の遊びには、羽根と羽子板を欠かすことは出来ない。上等の羽子板は厚い板に豪華な布地の立体的な作りで、お姫さまや歌舞伎の女形の模様が織り込まれて、大変重いものであった。安物は板も薄いし絵の具で女の子の顔を描いただけのものであった。
 羽子板はバドミントンの前身であると聞いている。バドミントンと同じように鳥の羽根で出来た羽根を交互に羽子板で打ち上げる。羽根は赤や緑やピンクのきれいな彩色がしてあり空中でくるくると回ってきれいな模様を描く。上等の羽根は滞空時間が長くゆっくりと落下するので失敗することが少なく、何回も続けて打つことが出来る。
 羽子板遊びはは一人でも出来るし、数人で同時に遊ぶこともできる。正月にはきれいに着飾った和服姿の女の子と羽子板とは切っても切れない関係であった。羽子板で羽根を付くときは、特有の節回しでその回数を勘定したものだ。我々の子供の頃は次のようなものがあった。
  
  ひとめ、
  ふため、
  みよこし
  よめご、
  いつやの、
  むかし
  ななやの、
  やつし、
  ここのや、
  とおや
 
 要するに、1、2、3と数を勘定するわけである。何となく、メロディーが付いていて歌のように歌う。もっと単純には、「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なあ、やあ、こお、とお」と言うこともあった。
 男の子が狭い空間で羽子板をすると、勢いあまって羽根が屋根の上に乗ったり、木にひっかかったり、隣の塀の外を越えて飛ばしたりして、直ぐに羽根をなくした。自分は空振りが多くて、あまり面白い遊びではなかった。
 その他、女の子は「いちだん」という遊びをよくやっていた。運動場でゴム紐の両端を二人の子供が手に持ってある高さに保持する。そのゴム紐を沢山の子供が順番にジャンプして飛び越える。「いちだん」と言うのはゴム紐の保持する高さを一段一段高くしていくのでその名前ができたと思っている。段々高くなってくると飛び越えることが出来ない子供も出てくる。最後まで勝ち残ると「優勝」と言う栄誉に輝くので、女の子の間では、走り高跳びのようなスポーツ感覚で大変好かれていた。
 「てまり」もよく流行っていた。やはり何かの歌に合わせてやっていた。
  
  アンタガタ何処さ、
  肥後さ、肥後何処さ
  熊本さ、熊本何処さ

などと、大阪でもあまり地方色のない全国的な歌を唄っていたように思う。「てまり」歌も「おじゃみ」歌も同じ歌が使われていたのではなかろうか。
 「てまり」のボールは軟式庭球のゴムボールか、内部までしっかりと詰まった積層構造で張り合わせたスポンジボールも流行っていた。ゴムボールは昨今のような上等のゴム製ではなく、直ぐ空気が抜ける代物であった。空気が抜けるとぺしゃんこになるが、ボールの内側には「へそ」が付いていて、注射針と自転車の空気入れで空気を入れることが出来た。ゴムボールに空気を入れる特製の注射針も市販されていた。
 お金のかからない遊びに「じゃんけん」がある。最近の子供は上品で、大阪でも標準語で「ジャンケンホイ」などとやっているが、我々男の子の下町では、もっと下品に「インジャンホイ」とか「ジャバケツオケツデホホイノホイ」などとやったものだ。下品な物真似をするほど、英雄視さていたような気がする。
 じゃんけんに似た遊びで、「グンカン、グンカン、ハレツ」とか「ハレツ、ハレツ、チンボツ」とか「チンボツ、チンボツ、グンカン」などと言って、相手の言った最後の手を出すと負けと言う遊びもあった。グンカン(軍艦)とはグーのことを、ハレツ(破裂)とはパーのことを、チンボツ(沈没)とはチョキのことを言う。戦前の子供の遊びがそのまま続いていたのであるが、いつの間にか姿を消した。
 また、三人の子供が足を互い違いに組んで足の輪を作り、「でえきた、できた、奴(やっこ)さんが出来た、出来たら踊ろ、ヨイヤサノヨイヤサ」などと囃し立てながら三本足でくるくると回転して遊ぶようなこともした。


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8 コメント

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懐かしい遊び (ロディ)
2006-10-31 09:20:56
懐かしい遊びの数々、同じ遊びとその遊びへのかかわりがユーさんと似ていたので苦笑しながら読んでいました。その頃は外も一部の道路を除いて車等の通行もなく、本通りも路地も近くにいるたくさんの子供達の遊び場でしたね。「にゅうじゅう」「どこどこ」「缶けり」「かくれんぼう」「どうま」勿論「ちゃんばら」も含め、日が暮れるまで遊びまわったものでした。夕飯の時間が来て、親の呼ぶ声で一人二人と去り、いつも一番遅い自分が空腹と合わせだんだんと心細くなっていったことが思い出されます。

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ウン、うん、思い出すなあ~~。 (弓太郎)
2006-10-31 19:14:17
小生が子供の頃(と言っても疎開先から帰って来てからのことなので小学校高学年の頃)の遊びはべったん、こま、ラムネ、そして探偵ごっこだった。
なぜかバイはやらなかった。

探偵ごっこはもっぱら夜だったし、べったん、こま、ラムネはどちらかといえばええ子や勉強の良くできる子はあまりやらなかったような気がする。

小生が住んでいた南桃谷町あたりは長屋中心の住宅街だったので、ええしの子や優等生がいなかった成ので、この種の遊びにはいくらでも遊び仲間がいたのである。

べったんはいろいろな遊び方があるが、大きな勝負になると一度に100枚ずつ賭けてやる勝負もある。小生は小心だしせいぜい10~20枚くらいの勝負しかできなかったけど・・・・

べったん最盛期の頃はあの桃谷湯から当時の盲学校の正門の階段の前あたり迄約200メートルの道が
べったんをする子供で一杯だった。道路が舗装されていたので格好のべったんの遊び場だったのである。なにも小学生だけでなく結構年上の者も混じって熱中していた。

ラムネもよくやった。これもいろいろの遊び方があるが、小生が良くやったのは数人が10個ぐらいずつ出し合い、路地の舗装されていない地道に▽を書き、その中にラムネをおき、2メートル程離れた所に線を引き、ジャンケンで順番を決め、そこから自分のいろつきのラムねで▽の中のラムネめがけて投げ、▽の中からはじけ出されたラムネを自分がもらえるというものだった。しかし自分のラムネが三角の中に入ってしまうと負けとなる。

探偵ごっこは専ら夜の遊びだった。10人ぐらいずつ二つのグループにわ分け、逃げる組と捕まえる組に分ける。眼をつぶって20数える間に逃げる組は
あちこちに逃げて隠れる。それを探し出して捕まえるのである。路地が多く暗かったので逃げ隠れる場所はいくらでもあった。捕まえるといっても見つけて相手の体を触ればつかまったことになるのである。

つかまると最初に決めておいた電柱に手をつないで
一直線になり、若し自分達の仲間の誰かがうまく出てきて見張っている相手に体を触られずに、つかまっている誰かに体を触れば、捕まっている仲間全員が又逃げることができるのである。夜遊びであり、いわゆる真面目な子はいなかったなあ~。 今考えてみると小生は、小学生時代はワルイ子だったのかなあ。
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戻りました (コータロー)
2006-11-01 09:05:26
 本稿はユーさんが早朝の新幹線に乗るため、家を出る直前のあわただしい時間にアップしたのですが、後で読み直すと表現その他見苦しい部分が多数あったので、かなり手を入れて書き直したとのことです。

 ロディーさんも弓太郎君もユーさんの気付かなかった遊びやその中身の具体的なお話をしていただいて、今後、また書き直すことがあれば大いに参考にさせていただきたいと思います。

 それにしても最近の子供の遊びは、自分で作ったり、自分が身体を動かしたり、集団でする遊びがめっきり減りました。昔のものでも結構面白いものがあるので、小学校などでも、みんなに教えてやらせてみたらいいのにと思います。探偵ごっこなど、運動場から屋上まで使って学校中を走り回らせた結構面白いのですがね。「オーライ」とかいって手をつないでやる鬼ごっこみたいなものもいい運動になりましたね。

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昔の子はよく遊んだ (さくらんぼ)
2006-11-03 16:57:33
 
 町中が子供の声で溢れていた。上の子も下の子も一緒になって真似したり背伸びしたりして、仲間にすぐ入っていった。狭い路地裏でがさごそ音がしても、きっと子供が隠れん坊や鬼ごっこをしてるんだろうと、大人達はほほえんでいたようだ。
昨今では「どろぼうかな?」と見構えてしまう情けない世の中になってしまった。
 女の子である私も、べったん遊びもした。皆の真似をして、蝋をぬったり、強い人の絵がかかれてあって、集めたりした。ラムネもそうだ。本当に懐かしい遊びだわ。
 タンス長持ちどの子が欲しい~の遊びはよくした。
その歌と一緒に、「カッテ ウレシイ花イチモンメ
マケテ クヤシイ花イチモンメ  どの子が欲しい
 あの子が欲しい・・・と全く同じ遊びを岡山でもした。悲しいかな、呼ばれる女の子は行ったり来たりでもてもて・・・お呼びのないのも悲しいもので・・・
 女の子の遊びは、手まりや縄跳び ぬり絵 
ままごと 紙で作った人形遊び 蝋石で絵を描いたり
いくらでも遊びはあって、陽が暮れて人の顔も分からない頃まで遊んだ。
 ぬり絵は、わら半紙みたいな袋に入って¥5円もした。紙が悪いので塗り潰すのが大変。蝋石一本あれば、一日中手当たり次第にコンクリートの所を見つけては、くまなく描きつずけた。4才頃からそんなことをして、表通りを出征軍人の列が行くのを見て「お父ちゃんが一杯や!」とさけんでいたらしい。

       その2に続く
 これより永久就職先の任務を果たすべき、包丁を握ることにします。
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昔の遊び その2 (さくらんぼ)
2006-11-03 20:55:44
 女の子は竹籠を持って、野原やあぜ道で花摘みをして、ままごと遊びやレンゲの花の冠、首飾りをつくって遊んだ。
 ままごと遊びやお人形遊びでは自作のセット(紙箱を利用したお部屋に絵を描いて、菓子箱の回りについている紙レースや色のきれいなセロハンを使ったり、紙でつくったテーブルや椅子など)をあっちの家こっちの家と持ち歩いて遊んだが、可哀相なのは下の弟達である。親が連れて行きなさいとお守りを頼むものだから、どこにでもくっついて来て、女の子の遊びを一緒にするわけだ。
 しかし、男の子も3年生ぐらいになると、邪魔ばかり始める。タンスのトッテなどに糸を渡して、マッチ箱に穴を開けて、ロープウエイを始める。喜ばれるとおもいきや、飛び回って尻餅ついて、セットを潰し大喧嘩が始まる。下の子は上手に親に訴えるからいつも上はおこられてばかりである。

 ここで主役を演ずる紙人形の作り主は、このさくらんぼでありました。クラス全部の人の人形とご注文にあわせた、様々な洋服を描いていたのである。
くる日も来る日も、学校から帰ると、ご希望通りの人形と洋服を作り続けていたから、みんなに大事にして貰った。この作業は3年生から6年生まで続いた。
 私は女の子の人形役で、男の子を上手に描く子が一人いて、其の子が描いていた。後に彼女は雑誌「はなこ
や平凡の編集長として活躍していた。ある時までは年賀状のやり取りがつずいた。さっぱりした男っぽい女の子であった。

都会の子は山や野原や河原などの遊びが出来ないので可哀相である。
当時小学校の授業で¥10円でしょっちゅう映画を見に連れられて行った。黄金バットやターザン映画である。すずきすみ子の化け猫などもあった。
学校の裏が津山城趾で、鞄を玄関に放り投げて、お城山に集合となる。そこで見てきた映画の再現を楽しむわけだ。ターザン役はスポーツ万能格好いい男の子
その妻ジエーンはターザンお気に入りの可愛い子
私は酋長の娘。ターザンがお休みの時は、次期ターザンが決まっていて、その時だけ私はジエーンに昇格する。チーター役も決まっていて、全員暗黙の了解があって、みんなはまり込んでやるのである。今では天然記念物になってるだろう松の木に縄をくくりつけ、「あ~あ~あ」と飛び移るのが、最初の儀式である。
スカートもビリビリに破けて、酷い姿で家に帰った。

実にのびのびした子供時代で良い思い出になっている。



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目に浮かびます (コータロー)
2006-11-03 22:08:42
 実はサクランボさんがターザンで、可哀想な男の子がチーターをやらされていたんじゃないですか?
 町の子供も、木に結びつけた紐にぶら下がって、よくターザンの真似をしたもんです。遠い昔のことが目に浮かんできます。
 サクランボさんは本当に発想が豊かです。おかげで、この談話室を覗くことが、最近の大いなる楽しみの一つになってきました。
 ユーさんは、また、この日曜日から二泊三日で、今度は岐阜県です。週末には東京へも行きます。このブログが途切れないように、時計を早めて対応するつもりです。ブログの時間の設定はウソですから、この日付をカレンダーの代わりにしないでくださいね。

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ギリギリ・・・ (さとちえ)
2007-02-17 10:52:48
TBさせていただきました。
私もギリギリ遊んだ世代でしょう。
でも完全にマスターするまではいかず、お手玉は片手で2個が精一杯です。おはじきは今6歳になった娘と遊んでいます。
努力して獲得する技術のいる遊びってだんだんすたれてしまいますね。
手まりはほとんどできません。歌を知らないんです。
ブログに訪問いただきありがとうございます。
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さとちえさんは ギリギリ世代? (ユーさん)
2007-02-17 11:31:50
昔の子供の遊びは一人でやるものもありましたが、大勢でやるものもありました。そこで自然に社会性が身に付いたような気がします。今は家の中に閉じこもっているのか、子供が外で大勢で遊んでいる姿を見かけなくなりました。努力して技術を学ぶ遊びも、子供の神経や筋肉の鍛錬になりました。今は何もなくなりつつあり、20年、30年後の育った後の子供のことが一寸心配です。

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