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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第69話「トンボ捕り」(昭和23年~27年)

2006-11-30 | 昔の思い出話
 あの頃はあんなにたくさんいたのに、今はすっかり姿を消したのがトンボの類である。この時代には、特に銀ヤンマが驚くほどたくさんいた。焼け跡に散在する多数の爆弾池や用水池のほとりでじっと立ち止まって観察していると、雌雄二匹つながった銀ヤンマが次から次へと産卵や水飲みのために訪れてくる。本当にひきも切らずと言う感じである。産卵のため水際に停まるときにはトンボの動きが鈍くなるので網で捉える絶好のチャンスである。
 銀ヤンマは大型のトンボで、胴体は緑色又は水色、尻尾は濃いチョコレートのような色をしている。雄と雌の違いは、雄の方は胴体の後部が明るい水色、雌の方はその部分が胴体と同じ緑色である。
 水たまりのなかに目的もなく網を差し入れると、必ず銀ヤンマのヤゴが網の中に数匹入っている。そのくらい水の中のヤゴの生息数は多かった。
 夕方になると、トンボはかなりの高度の上空を、ある方向性を持って飛んでいく。夜が近づいたので山のねぐらへ帰ると言ったような風情である。子供達の楽しみは「ぶり」と称する小道具を作って、ねぐらへ帰るトンボを捕まえることである。「ぶり」は50センチほどの長さの細い糸の両端に5ミリくらいの大きさの小石を飴の紙に包んで、紙をよじって固定したもので、きわめて単純なものだ。トンボの目の前に「ぶり」を放り投げると、「ぶり」の両端の小石の動きが、トンボの餌となる蝿か蚊のような小虫に見えるらしく、トンボはその石の部分を本能的に追いかける。その時に小石の間をつなぐ糸の部分がトンボの胴体や羽根にからみついて、トンボは「ぶり」と一緒に地上に落下するのである。糸の両端には別に石でなくてもピンか針金のようなものでもよかった。トンボはその差が識別出来ないらしく、石でもピンでも同じ効果を上げることが出来る。
 この「ぶり」は昼間は使えない。トンボの視力が低下する夕方でなければならない。真夜中はトンボそのものが飛んでいないのでダメである。夕方の一時間くらいが最適の時間であり、この薄暮の間に上手な子供は10匹も20匹も銀ヤンマを捕まえることが出来た。
 ここ大阪では、子供たちは雄の銀ヤンマを「らっぽー」、雌の方を「べん」と呼んで区別していた。子供たちにとっては、雄の「らっぽー」より雌の「べん」の方が価値が高かった。なぜなら「べん」は、翌日のトンボ捕りで大事な囮(おとり)として「らっぽー」を捕まえる貴重な手段となるからであった。
 捕らえたトンボを翌日まで生かせておくには、濡れ雑巾を直接かぶせておくのが一番良かった。トンボは水気がないと生きていけない。乾いた虫かごに入れておくと、翌朝には多くが死んでいた。濡れ雑巾をかぶせておくと翌朝になっても、捕まえたときと同じくらいに元気であった。そのようにして一晩生かせておいた「べん」を細い糸にくくりつけ、自由に飛べるようにして棒の先に結ぶ。
 日中、「らっぽー」の姿が見えようと見えまいと、「らっぽ、ほーえ」と大声で叫びながら、焼け跡の草むらで糸にくくりつけた「べん」をくるくると飛ばせる。すると、何処からともなく「らっぽー」が現れて、二匹がもつれて飛行の自由を失い落下する。その瞬間に手で捕まえることも出来るが、失敗しないように別に用意してある網でばさりと捕らえるのである。このようにして、昼間で半日もあれば、10匹や20匹くらいの元気な「らっぽー」を捕まえることが出来た。
 夏休みの子供たちは、このようなトンボとりで殆ど毎日を過ごして遊んだ。自分は「ぶり」でトンボを捕まえるのが極端に下手であった。一度、「ぶり」を空中に放り投げると、大抵、自分の投げた「ぶり」を見失ってしまって、どこかへ行ってしまう。みんなが一つの「ぶり」で何匹も捕まえている間に、自分は一回投げるごとにその都度、新しい「ぶり」を作らなければならなかった。目的のトンボはそんなに低いところを飛んで来るわけではない。10メートル以上の高さ、普通には、20メートルくらいの高さをかなりのスピードで一直線に飛んでくるのである。そのトンボめがけて、たくさんの子供の投げる「ぶり」が雨あられと放たれるのである。放り投げた自分の「ぶり」をしっかりと見極めていないと、どれが自分のものか分からない。夕方の薄暗い時間帯なので、自分の「ぶり」を見失わないようにするためには健全な視力が必須であった。
 自分は小学5年生まで眼鏡をかけていなかったが、夕暮れ時はトンボ以上に目が見えていなかった。実は、この頃は自分が近眼であることの意識は全くなかった。と言うよりも近眼であることを知らなかった。しかし、今、色々なことを思い起こすと、子供の時からかなり強い近眼であったことは間違いない。
 セミを捕まえに行ったときでもそうだった。竹竿の先にとりもちを塗り、その竹竿をセミにくっつけて取る。自分の場合は、大体がセミの声はすれども姿が見えない。一緒に行った友達はセミをすばやく見つけては、ほいほいと捕まえるのだが、自分の目にセミの姿が見えるのは、よほど条件に恵まれたときだけだ。友達が10回取るあいだに、自分は1回くらいだった。収穫の差は歴然としており、いつも自分の収穫は人より少ない。何故自分はいつもこんなに、セミを取るのが下手なのかと悩む。捕まえる役は他人に任せ、自分は側で見ていたり、脇役の仕事をする方が収穫量が上がるのだった。
 ある夏の夕方、路地の入り口の直ぐ前で、遠く桃谷小学校の屋上から三井病院の方角に向かって火の玉が走った。いわゆる人間が死んだときに、その魂が抜けて飛んでいくと言われているあの人魂である。夕暮れの薄明かりを背景に何か明るいものが飛んでいったらしい。誰かが「あっ、火の玉だ」と指を指したときに、正直、自分は何も見えなかった。しかし、とっさに口をついて出てきた言葉は「あっ、ホンマや」であった。
 一見、運動神経が鈍く、何をやっても下手にしか出来なかった理由は、かなり幼児の頃からの近眼のせいであったように思う。決して運動神経が極端に鈍かったためではなかろう。十分に見えていなかっただけなのに、人も自分もそれを運動神経のせいにしてきたのだった。
 近眼であることに気付く機会がなかったこともあって、自分はずいぶん昔から見えていなくても見える振り、わからなくても分かった振りをして、誤魔化してきたのだ。いつも後でそのことをひどく後悔するのであるが、自分ではコントロールの出来ない悪い癖となって身についていた。
 人が見えるというものは、現実に自分に見えていなくても、見えた振りをする。そんなことを無意識のうちに何千回、何万回と繰り返して来た。それが高じて、本当は分かっていないことでも平気で分かっている振りをする。素直とは言えない子供として育っていったが、このことは必ずしも悪いことばかりではなかった。他人に対して何か言ってしまうと、その後で頑張らざるを得なくなる。ウソから出たマコトを実践せざるを得なくなる。身から出たサビを意識せざるを得なくなる。何とか辻褄を合わせるために、秘かに頑張らざるを得なくなる。努力する。耐える。そのようなわけで、後で頑張れば、何とかリカバリー出来ると思われる範囲では、少々無理と思っても何でも引き受ける。
 子供のときから、かなり強度の近眼であったこと。それを知らずに誤魔化し続けてきたこと。これらが、その後の自分の性格の個性の部分にかなり強く影響していったように思われるのである。


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11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
とんぼのメガネは水色めがね~ (さくらんぼ)
2006-11-24 11:12:16
~~あーおい お空をとんだから飛んだから~

トンボの生態をこんなに詳しく聞くのははじめてです。捕り方にも工夫があるのですね。
私は止まってるのを狙い定めて、親指と人差し指で捕まえてきました。そんなことを知っていたら、もっと臣白かった事でしょう。糸で結わえて遊んだことはあります。
トンボ博士教えて下さい。
 子供の時から不思議なことがありました。
トンボはどうして、他の昆虫と違って、同じ場所で空中停止ができるのでしょうか?自由研究にしようかとも考えたことがあります。又竿の先に止まってるとんぼの正面から、指をくるくる回すと、目を回して捕りやすいとかで、やったことがありますが、不成功でした。
本当は目をまわすのでしょうか??
返信する
博士の回答 (トンボ博士)
2006-11-24 13:12:31
①同じ場所で空中停止できる理由。
博士;はい、それは羽根があるからです。羽根を鳥の羽根のように上下に動かしています。但し振動数は極めて多く1秒間に10~30回くらいです。振幅が羽根の先端で2、3ミリと小さいので鳥のように羽ばたいているようには見えません。羽根は上向きには遅く、下向きには早く動かせ、上下に圧力差を作ります。羽根の上方の圧力が少し低くなって、トンボは上方向に力を受けて、空中に静止します(すべて見てきたようなウソです)

②トンボは目を回すかどうか?
博士;はい、指の先を追って目を回転させるのは事実です。博士も子供の頃によくテストをしましたが、ゆっくりと指を回すとトンボはそれを目で追います。そのときに顔が動きます。しかし、目を回すというのは事実ではなく、一点凝視で注意がそこに集中するために、逃げるタイミングが遅れるから捕らえやすくなります。実は、トンボを捕らえるノウハウは前から攻めるのではなく、気が付かないように後ろから攻めることです。また、木や葉の先に止まって、1、2秒すると羽根を少し下に下げる一瞬がありますので、ねらい目はその時です。割合簡単に手で捕まえることが出来ます。(以上は長年にわたりテストを繰り返して実証した科学的事実です)

 以上で博士の回答を終わります。よろしいでしょうか?このようなご質問は博士の得意中の得意ですので、また質問があれば歓迎します。

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Unknown (さくらんぼ)
2006-11-24 20:28:11
 とんぼ博士 誠に分かりやすいお話有り難うございました。不思議の一つが解明して、すっきりとしました。夕焼けこ焼けの赤とんぼ~~の歌の意味がなるほどガッテン。
 孫に聞かれたら、答えることが出来ます。「え~おばあちゃんはすご~い!」と尊敬してもらえるでしょう。
 お忙しいところを本当に有り難うございました。
不思議を考えるのが、自分の昔からの癖です。
今後とも よろしくお願いします。
返信する
近眼のつらさ (柿の種)
2006-11-24 21:52:12
 
よ~く分かります。眼さえ良ければ、随分人生変わっていただろうし、得も一杯あったとおもう。
残念なことだが、どうしようもない現実で損
なことばかりの人生であることまちがいなし。これは
眼のいい人には、理解できないだろう。
 田舎に疎開した入学前に、高台にある庭から従兄弟達と一緒に、川に沿ってある街道を、学校から帰ってくる子供達を見ていたが、みんな「Aちゃんだ Bちゃんだ お~い」と手を振っているのに、全然見えない。だけど見えたつもりで、いつも同じように「お~い」と声を出していた。そんな見えた振りをすることは一杯あった。
 入学すると、はっきりと眼が見えないことに周囲も気がついて、黒板の前、教壇と並んで机を用意して貰った。ど田舎故、眼医者などなく、あっても姫路までいかないと駄目だった。3年生になって、岡山の津山に引っ越しして、眼医者に行ったら、「弱視です」と言われて、近眼用のめがねをかけるはめになった。
 それからメガネとは14年のお付き合いであった。
ユーさんのお話を聞いて、私も前から不思議に思っていたことがあるが、5才頃のある夕方、向かいの家の(2階)屋根瓦の上を火の玉が走ったのを確かに見たのである。一緒にいた大人達も「火の玉だ」と叫んでいた。色は柿色で青くも白くにも見えた。後で聞いた話だが、あるおばあさんがひっそりと亡くなっていて、誰にも気がつかれないから、魂がさまよっていたんだろうと。
それが見えたのだから、一体いつ頃から自分は眼がわるくなったのかが
不思議のひとつでもある。そして魂をみた人は霊感が強いとも後にきいたことがある。確かに私は霊感というほどでもないが、ぴったり当たることが多く、姉弟や家族に気味悪がられてもいた。この話は又今度にします。
 ところで、ユーさんと同じ、運動神経は悪くもないのに、苦手があった。鉄棒に飛び移るるときや 跳び箱に手をつく時・・・握り損ねて落下したことがあるので、そのたぐいのテストは大嫌いだった。
 勉強も黒板の字が見えにくく、堂々と宣言して前に行きたかったのに、年頃になったら、カッコつけて見えた振りして、ノートに出鱈目を写したこともある。
 20才の時に、上町眼科(玉造と九条に通じる道)でコンタクトを始めた。実験第一号だったかも知れない。眼の中に入れたのである。とても勇気ある決心と行動で、みんなに驚かれたが、めがねなしで少しはもてるかと期待したが、変わりがなかった。
それから46年コンタクトが自分の身体の一部になってくれた。去年頃にほとほと煩わしくなり、眼内レンズに切り替えた。強い近眼だったから、その上に又、軽い近眼のめがねをかけているのである。
 何て楽なんだろうと、よくも46年も頑張ってきたものだと感心する。

ところが一つ疑問点がある。果たして近眼だったのかと。
私の娘が幼稚園に行っていた時、授業参観で絵の時間があった。一人の男の子が、身長を測る台に横向きに立っているのを、子供達が描いていくのである。
そこで異変に気がついた。他の子達は、目盛りまで書いているのに、娘は茶色の棒を塗っていた。家に帰って聞くと、「見えない」と云った。大きな綺麗な眼をした子だったから、まさかと思い、近所の眼医者に行ったら、近眼ですとか弱視ですとか・・・4件とも同じ答えだった。どうしても納得いかないから、澁谷にある国立小児病院の眼科に連れて行ったら、専門だけに、字の読めない子供にもきちんと調べることをしてくれた。
結果は小児遠視であった。町医者は近眼のめがねを勧めたが、そこでは、遠視用のレンズで丸反対であった。
良く聞くと、赤ちゃんはみんな遠視だそうで、発達することで、正常な眼になっていくのだが、未発達だと遠視の状態であるとのこと。先生の指導の元、嫌がる娘をなだめなだながら、めがねを1.6ヶ月掛けさしたら。 1.2まで回復した。
 そうなると、私の眼もレンズが反対だったかとも思う。勉強もしないのに、どんどん悪くなり、めがねをいくつ変えたか数え切れない。
 今でも見方の悪い感じの子供を見ると気にかかるのである。ある子のことがどうしても気になって、お母さんに私の経験を話して見たら、矢っ張り遠視だったそうで、早速めがねをかけて回復したことがある。

長い話になってしまったが、もっと見えない人のことを考えると幸せで、有り難いことと感謝をしている。
今日はユーさんの話を聞いて身につまされる思いで、又、自分の性格もこの近眼の影響でもあることが解るのです。
 長らくのご静聴ありがとうございました。
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見えることの幸せ (コータロー)
2006-11-25 07:54:44
 寄る年波とともに、少し見えないだけで文句を言っていてはいかん。見えることを感謝しろと考え始めています。
 夕焼けの赤い太陽を見たり、遠くの山のふもとにカスミがたなびいていたり、日に日にモミジが赤くなって山が色づいてきたり、空に浮いた綿のような白い雲の陰の部分が微妙に立体感を持っているのに感心したりするようになって、見えると言うことの素晴らしさを毎日感じています。
 ユーさんはここでは過去のことを書いているので、視点は過去から現在に向かっていますが、一番大事なのは現在のことです。ユーさんが本当に書きたいのは過去をぼやくことではありません。ユーさんが本当に書きたいのは、未来の夢を見つめて現在を如何に生きていくかと言うことです。
 ユーさんは、本当はあまり過去に没入したくないのです。だから、7話ずつ区切ってガス抜きをしています。
 柿の種さんの話もユーさんとの共通点が多く、改めて驚いています。昔は火の玉なんていうのも実際に出てきたりしたんですね。今は夜でも外が明るくてめったに見えるようにはなりませんね。
 それと逆近視(遠視)の話もビックリしました。そんなことって本当にあるのですか?

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トンボつり (弓太郎)
2006-11-26 14:53:46
そう、そう、夕方になるとかなり上空をトンボが飛んでくる。それをユーさんの言う「ぶり」(小生はぶりと言ったのかななんと行ったのか忘れてしまった)でトンボをとる。我々はこれをトンボつりと呼んでいた。日曜の夕方などは大人も子供も入り混じってトンボつりに熱中したなあ。

「ぶり」はできるだけ細い糸がいい。その細い糸を得るために友達に無理を言ったり、あの手この手で細い糸を手に入れる為に躍起になったものです。
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近視 (上町太郎)
2006-11-26 15:19:36
サクランボさんもユーさんも幼い頃から近視で苦労さされたんですね。そういう小生も現在、近視、老眼、乱視とオンパレードなんですが、小生が近視になったのは中学2年のときです。それまでは1.2ぐらいだった。

中学1年から2年にかけて本を読みすぎて近視になってしまったのです。当時(昭和27~8年)は蛍光灯もなく、薄暗い裸電球で本を読みまくっていたのです。勉強の本だったら優等生になっていたんでしょうが、私が熱中したのは剣豪小説だったのです。上泉伊勢守や塚原ト伝など。学校近くの貸し本屋で借りてきては呼んでいたのです。

教室では真ん中あたりに座っていたのですが、次第に黒板の字が見えにくくなってきたので、めがねやさんでめがねを買ったのですが、これがどうも合っていなかったようで、その後どんどん近視が進行してしまた。

近視で困るのは風呂でめがねがすぐ曇ってしまうこと。大學時代友人数人と九州一周旅行をした時、指宿温泉のジャングル風呂が混浴だったので「ようし」と勇んで入って行ったところ眼鏡が曇り、すぐ湯で洗ったがまたすぐ曇ってしまい、結局期待した戦果が得られず残念無念と涙を飲んだものです。
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太郎さんが二人に! (コータロー)
2006-11-26 16:05:29
 弓太郎君が元気に復帰したら、今度は上町太郎さんが現れた。指宿の話なんて言うのは、何だか覚えがあるなあ。ひょっとしたら、同じお風呂だったかな?違うかも知らないけど、お風呂の中は真っ暗だったから、めがねが曇らなくても一緒だったかもね? 小生は、もちろん、初めから蚊帳の外だったけどね。

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ジャングル風呂 (ラン&りゅう)
2006-11-26 19:19:25
ここに話の出てくる指宿は確かみなさんとの九州旅行の途中の出来事と思います。
私もめがねは小学校の低学年から掛けており、その時は同様のことを感じました。
しかしもしはっきりと見えていても、当時のこの道の先輩がご伝授いただいた時間には間に合わず、かなり、中途半端なときに行ったので、きれいな観音様に出会わなかったのは仕方がなかったのかも知れません。
ただ名前のようにジャングル風呂と言われていたので、少しの時間辛抱強くそうしたやしの木の茂みに隠れており、そして何かしら人影が現れた時、どこからか、合図のターザンの叫び声がして、どきどきとしたことが思い出されてきました。
お互いの青春のひとコマです。
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ブリでとんぼとり (高石の昭和7年生まれ)
2006-12-12 22:32:46
大阪南部の高石でも夕方、はらっぱに雲のように雌の銀ヤンマが集まって来ました。とんぼとりのしかけは、やはりブリと言っていました。メスはメンタと呼ばれていました。また羽に茶色がかかったのはドロメンと呼んでいました。特に茶色の濃いものは、マンドロといって珍重したものです。これは羽化後、産卵の時期になった雌トンボで、雄の目を引きやすくなっている状態を表しているのだと思われます。
子供は経験的にこれを知っていて、珍重したのでしょう。雄のヤンマの羽を絵の具で茶色に塗ったものでも
雄ヤンマを騙して採ることがが出来ました。
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