結婚して移り住んだ新居は阪急苦楽園口駅の近くであった。阪急甲陽線で夙川駅から一つ目の駅である。来てみれば、ここは、それまで生活していた大阪都心の喧騒と比べるとまるで月とスッポンともいえる閑静な住宅街であった。夙川沿いの松並木が美しく、春には桜が満開となる。新婚旅行から帰って1週間も経たない内に、この桜がいっせいに咲き出し、満開の桜と緑の大きな松の木の群生の織り成す優雅な世界を出現させていた。
南北に流れる夙川の苦楽園口の橋から北を眺めると甲山が正面に見える。その昔、中学や高校生の頃、仁川などへハイキングに来て、見慣れた甲山がすぐ側にあった。当時の苦楽園口駅からの西側は駅周辺の一部を除いて、牧歌的でのどかな田園がずっと広がっており、住家もまばらであった。特に樋の池(ひのいけ)町辺りには、今は町名でしか分からないが、その名の通りの樋の池という大きな池があった。自然池であったが、鮒釣り専用の有料の釣堀になっていた。会社の休みの日にはよく釣りに出かけた。釣り場へ行く途中の菊谷町辺りは、田や畑が続き、そのあちらこちらには匂うばかりの田舎の香水の野ツボが点在していたのであった。苦楽園口近くの菊谷町バス停の前には菊谷という表札の付いた大きな門構えの屋敷があった。町名と屋敷に掲げた表札の苗字が同じと言うからには、きっと、昔から何代も続いた名門であろうと、家の前を通るたびに想像を逞しくしていた。この辺りの春のうららかな日差しの下、きれいな水の流れる田圃のあぜ道を歩いていると、上げひばりが高く舞い上がっていく。これが大阪から20キロほどの距離にある世界とは信じがたいものであった。
苦楽園口駅からすぐ東側の景色も、当時から見るとずいぶんと変わった。夙川公園も次から次へと人手が加わり、自然の景観がかなり失われた。苦楽園口橋も両側に歩道が無い狭い橋であったが、当時は車の通行量も少なく、さして危険や不便は感じなかった。自宅からさらに東の方は名次町という町名で現在も豪邸が並んでいる。民家の密集した我が住処の存する区域とは一線を画した趣がある。その名次町の豪邸の一角に、松下幸之助の名次庵という名の別荘があった。その隣は広大な米国総領事の邸宅に続いていた。総領事の屋敷は現在では転売され、数棟のマンションが建てられるとのことだ。これらの邸宅の前面はニテコ池と言う上水道の貯水池が横たわっており、今でもすばらしい景観が保持されている。ニテコ池の北側には西宮市の満池谷墓地が広がっている。満池谷墓地の隣には西宮市の越水浄水場があり、沢山の桜の木が植えられており、現在でも春には花見客が多く訪れるところだ。
このような環境に恵まれてはいても、この辺りに住むようになってから、自分は何十年にも渡って、昼間にこの地域を跋扈することはほとんどなかった。初めの頃の朝は、早朝に大阪の薄汚れた工場地帯へ出勤し、1日を炭塵とコールタールと汗で真っ黒になり、ほぼ毎日深夜になってからの帰宅であった。周囲の景色などは余程のことが無い限り、注意して見ることは無かった。自宅はただ単に寝に帰るだけの場所であった。
市民税や住民税は西宮市に支払いつつも、大阪市の水道水を飲み、大阪市の道路を歩き、ゴミの大半は大阪市に捨てていたのである。その後、この界隈の田園地帯がどんどんと住宅に変り、マンションなども増えて、景観は著しく変った。会社を辞めて、この地域に留まっている時間が長くなって初めて、この辺りの住環境のすばらしさを見直している。そして、あらためて自分は長い人生の後半の現在の自分の幸福を喜んでいるのである。


南北に流れる夙川の苦楽園口の橋から北を眺めると甲山が正面に見える。その昔、中学や高校生の頃、仁川などへハイキングに来て、見慣れた甲山がすぐ側にあった。当時の苦楽園口駅からの西側は駅周辺の一部を除いて、牧歌的でのどかな田園がずっと広がっており、住家もまばらであった。特に樋の池(ひのいけ)町辺りには、今は町名でしか分からないが、その名の通りの樋の池という大きな池があった。自然池であったが、鮒釣り専用の有料の釣堀になっていた。会社の休みの日にはよく釣りに出かけた。釣り場へ行く途中の菊谷町辺りは、田や畑が続き、そのあちらこちらには匂うばかりの田舎の香水の野ツボが点在していたのであった。苦楽園口近くの菊谷町バス停の前には菊谷という表札の付いた大きな門構えの屋敷があった。町名と屋敷に掲げた表札の苗字が同じと言うからには、きっと、昔から何代も続いた名門であろうと、家の前を通るたびに想像を逞しくしていた。この辺りの春のうららかな日差しの下、きれいな水の流れる田圃のあぜ道を歩いていると、上げひばりが高く舞い上がっていく。これが大阪から20キロほどの距離にある世界とは信じがたいものであった。
苦楽園口駅からすぐ東側の景色も、当時から見るとずいぶんと変わった。夙川公園も次から次へと人手が加わり、自然の景観がかなり失われた。苦楽園口橋も両側に歩道が無い狭い橋であったが、当時は車の通行量も少なく、さして危険や不便は感じなかった。自宅からさらに東の方は名次町という町名で現在も豪邸が並んでいる。民家の密集した我が住処の存する区域とは一線を画した趣がある。その名次町の豪邸の一角に、松下幸之助の名次庵という名の別荘があった。その隣は広大な米国総領事の邸宅に続いていた。総領事の屋敷は現在では転売され、数棟のマンションが建てられるとのことだ。これらの邸宅の前面はニテコ池と言う上水道の貯水池が横たわっており、今でもすばらしい景観が保持されている。ニテコ池の北側には西宮市の満池谷墓地が広がっている。満池谷墓地の隣には西宮市の越水浄水場があり、沢山の桜の木が植えられており、現在でも春には花見客が多く訪れるところだ。
このような環境に恵まれてはいても、この辺りに住むようになってから、自分は何十年にも渡って、昼間にこの地域を跋扈することはほとんどなかった。初めの頃の朝は、早朝に大阪の薄汚れた工場地帯へ出勤し、1日を炭塵とコールタールと汗で真っ黒になり、ほぼ毎日深夜になってからの帰宅であった。周囲の景色などは余程のことが無い限り、注意して見ることは無かった。自宅はただ単に寝に帰るだけの場所であった。
市民税や住民税は西宮市に支払いつつも、大阪市の水道水を飲み、大阪市の道路を歩き、ゴミの大半は大阪市に捨てていたのである。その後、この界隈の田園地帯がどんどんと住宅に変り、マンションなども増えて、景観は著しく変った。会社を辞めて、この地域に留まっている時間が長くなって初めて、この辺りの住環境のすばらしさを見直している。そして、あらためて自分は長い人生の後半の現在の自分の幸福を喜んでいるのである。



貴殿とは何か、奇遇と申しましょうか共通の体験が多いように思えます。高校も、疎開先の亀岡もそうでしたが、今日は夙川。
西宮市夙川は我が産土。雲井町に住み、尖塔が目立つ夙川教会の附属幼稚園に通う園児でした。終戦のあと大阪府に移りました。
昭和31年、高校2年の終りに東京に転校して以来、これまで一度も夙川を訪れてはいません。今浦島といったところでしょうか。
貴殿のお名前にある優柔不断は、ユーさんにも他人事ではなく感じられ、間もなくユーさんの優柔不断を話題にした一稿をここに記載する予定です。品行方正も大いに共通する部分であると感じています。
わざわざのコメントどうも有り難う御座いました。