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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

老年の幸福の条件

2009-05-02 | 雑記帳
 人間と言うものは、生まれてから若年、中年、老年の長い時間を通じて形成される一つのシステムであろうか。最終段階の老年には、時間の経過とともに過ごした若年(青春)や中年時代の経験が含まれている。老年時代だけが孤島のように隔絶した状態で存在するのではなく、過去の経験や知識が連続して存在している。老年の時点で、突然、思いついたように新たな老年人生を構築しようとしても、過去に何も経験や勉強をしてこなかった老人には、相当に無理な相談となってくるのではないか。
 しかし、老年には肯定すべき老年の人生や生活があると考える。やたらと、青春時代を賛美し、老年になっても生涯青春を謳歌することばかりを願っていると、目の前にある老年にしか感受できない豊かな精神生活に気付かずに過ごすことにもなりかねない。いつまでも青春に未練をとどめず、老いを正面に見据え、老いを素直に受け止めることも、老人として賢明な姿勢ではないか。
 老年になり日々の仕事の制約がなくなると、また時に病弱となって、多くの肉体的な制約が課せられると、時間が心の内側を流れるようになってくる。思えば、若年・中年時代には関心が常に自分の外にあり、時間は自己の外側を流れている。仕事などの自己の外側の事情に忙しいだけに、内省する時間的余裕がない。ほとんどの人々は、後に必ず訪れる自分の老後のことなど考える暇もなく、青春の時間、中年の時間をあたふたと過ごす。時にふと老後を考えることもあろうが、大抵の場合は瞬事の出来事として終わってしまう。時間が自分の外側を中心に流れている以上、止むを得ないことなのである。
 現在のわが身を老年の視点において眺めなおすと、随分、いろいろと違ったものが見えてくる。例えば、春が訪れて桜が咲く。もちろん、若かりし頃の昔から、桜の花の咲くのは美しいとは思っていた。しかし、その感じ方が異なる。桜を単に美しいと見るだけではない。来年になって、自分は再び、同じような状態、感慨でその花を見ることができるだろうかと思っている。いつの間にか、自分の内部に桜の時間を投影しているのである。
 老年への曲がり角を通過する頃には、青春時代には容易に可能であったことの多くを断念せざるを得なくなる。自覚があろうとなかろうと、特に身体的な能力においては、実に多くのことを断念せざるを得なくなる。しかし、断念ばかりを継続させ、それを無意識の諦観に連結させているだけではつまらない。
 老いには、老いの時間にしか獲得できない、感受できない、様々な果実がある。ともかくも、今日も生きている喜びがある。季節の移ろいに敏感になる。現在の5月の涼やかで、新緑に映えた山々の何と美しいことか。自然の移り変わりに応じて、時間が自分の体の奥で通り過ぎていくように実感できる。このような生きる喜びは、青春時代の若さへの断念の代償として得られたものに他ならないとも考えられる。
 何が老年の生甲斐なのか。何が老年人生のクオリティーを決定するのか。それは決して、若年や中年時代の価値観の延長線上にあるものではないと思われる。老年への曲がり角で、一度、価値観の変更を模索する必要がある。悔しくはあるが、青春時代の若さ至上主義の価値観を改める必要があるのだ。諦めるべくは諦めなければならぬ。
 幸福感を伴って老いることは決して容易なことではない。老人がさらに老い続け、かつ幸せを感じるためには、それなりの努力が必要である。ただ何となく老いて、漫然と老人の苦痛や悲哀のみを感じて、諦めて、被害者のような気分で死んでいく。それが平均的な老年人生とすれば、人生とは何と悲しいものであろうか。自己の心の中に、老年の積極的な価値や老年を主体的に生き続ける喜びを創造していくことができないものだろうか。


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