学校で「いじめ」が原因で自殺する子供が後を立たない。現場の先生や子供間のトラブルが表面化されず、放置され、隠蔽されている。文部省が把握している「いじめ」が原因の子供の自殺者数は、何年にもわたって、毎年ゼロであったとのことである。新聞などでは、数年来、いじめが原因と疑わせる子供の自殺が次から次へと報じられているのに、文部省に上がってくる報告で、その件数がゼロということ自体、まことに不可思議千万である。このような数字も一応はデータであるから、責任者として客観的なデーターに基づいて判断していると言えばそれで済む問題であろうか? 役所ならそれで済む? 役所に関しては一般庶民はすでに完全に諦めの境地であるが、企業では、それは許されない。
考えるに、トップに上がる情報は、言語による定性的な情報であれ、データーが付加された客観的情報であれ、真実を伝えていないことが極めて多い。トップはこのことを肝に銘ずるべきである。
失敗や悪い情報は重大になるほどトップに伝わりにくいという性質がある。なぜなら必ず人に責任が問われるからである。その原因が何であれ、それはどこかの部署の責任であり、部署の責任はその上司の責任となり、その責任はさらに上の上司の責任となる。いったん責任を問われれば、減給となり、降格となり、一生の不利が降りかかる。逆に、失敗して褒められることなんてことは絶対にない。誰が好き好んで、このような情報を自分の上司に報告する気になろうというものか?
できれば、発覚する前に何とか自力で解決しようとするのが人間の本性である。しかし、失敗や悪い情報は必ずしも一人で解決できるものではない。また、その原因が個人や一部署の責に帰することができるものばかりでもない。何とかしようと頑張っているうちに、ますますことは重大になり、取り返しが付かなくなってしまうものである。
しかしながら、組織と言うものは、そのような情報を個人や一部署に抱え込ませてしまうという本質的な性質を持っているのである。組織というものが人間から構成されている限り仕方がない問題であるとも言える。
だからこそ、これを個人や部署の責任にして放置してはいけないのである。その対策としては、放置することができない仕組みを作ること。極力失敗や悪い情報を未然に明るみに出すような仕組みを作ること。いつでも何でも何処でも真実が見える仕組みを構築することである。そして、そのような仕組みが健全に機能しているかどうか、常に目を光らせる必要がある。
その役割・権限・責任はトップにしかない。なぜならトップ以外は、すべて何らかの形で部下であり、その上司から責任を問われる立場にある。トップ以外全員が失敗や悪い情報を明るみに出したくない本質的な誘因と傾向を持っている。
事件が報道されて初めて事実を知った社長が、記者会見で「報告を受けていなかった」などと弁解しつつ、部下に責任転嫁しようとすることがある。それは本質的にトップがトップの責任を果たしてこなかったことを自白しているようなものである。




考えるに、トップに上がる情報は、言語による定性的な情報であれ、データーが付加された客観的情報であれ、真実を伝えていないことが極めて多い。トップはこのことを肝に銘ずるべきである。
失敗や悪い情報は重大になるほどトップに伝わりにくいという性質がある。なぜなら必ず人に責任が問われるからである。その原因が何であれ、それはどこかの部署の責任であり、部署の責任はその上司の責任となり、その責任はさらに上の上司の責任となる。いったん責任を問われれば、減給となり、降格となり、一生の不利が降りかかる。逆に、失敗して褒められることなんてことは絶対にない。誰が好き好んで、このような情報を自分の上司に報告する気になろうというものか?
できれば、発覚する前に何とか自力で解決しようとするのが人間の本性である。しかし、失敗や悪い情報は必ずしも一人で解決できるものではない。また、その原因が個人や一部署の責に帰することができるものばかりでもない。何とかしようと頑張っているうちに、ますますことは重大になり、取り返しが付かなくなってしまうものである。
しかしながら、組織と言うものは、そのような情報を個人や一部署に抱え込ませてしまうという本質的な性質を持っているのである。組織というものが人間から構成されている限り仕方がない問題であるとも言える。
だからこそ、これを個人や部署の責任にして放置してはいけないのである。その対策としては、放置することができない仕組みを作ること。極力失敗や悪い情報を未然に明るみに出すような仕組みを作ること。いつでも何でも何処でも真実が見える仕組みを構築することである。そして、そのような仕組みが健全に機能しているかどうか、常に目を光らせる必要がある。
その役割・権限・責任はトップにしかない。なぜならトップ以外は、すべて何らかの形で部下であり、その上司から責任を問われる立場にある。トップ以外全員が失敗や悪い情報を明るみに出したくない本質的な誘因と傾向を持っている。
事件が報道されて初めて事実を知った社長が、記者会見で「報告を受けていなかった」などと弁解しつつ、部下に責任転嫁しようとすることがある。それは本質的にトップがトップの責任を果たしてこなかったことを自白しているようなものである。





教育に携わるものが虚偽の報告? 一体どうなっているんだろうか。教育委員会は全く見抜けなかったのだろうか。とすれば高校から舐められていたといっても過言ではない。舐められるような教育委員会だから高校側も虚偽の報告をしていたのだろう。
一方高校側も必須科目を教えないとは、法律違反と同じことではないか。教育に携わるものが法違反を犯す。こんなことが許されていいのだろうか。もし必須科目に問題があれば、そのことを現場で教育に携わるものとして、文部科学省に問題を提起するなど、何らかの方法があったのではないか。
現場としては大学進学率をよくするためとか、いろいろ言い分はあろうが、いくら言い分があろうと守るべきルールは守らなければ、どうして全うな人間教育ができようか。学校のみならず、父兄の方にも責任がある。大學進学率がよければ少々の事には眼をつぶっているのではないだろうか。
いじめの問題にしても、事件になってから、実は知らなかったとか、そんなに深刻だとは思わなかったとか、とかく担任教師から校長に至るまで責任逃れの発言ばかり。
一般企業にも同じような事がある。企業に問題が起こった場合、知らなかったと発言する社長がいるがとんでもないことである。たとえ知らなかったとしても社長は組織のトップであり、率先して全責任を負わねばならないのだ。
失敗や悪い情報はなかなか上の方に上がりにくい。火事でもまだ小火(ぼや)なら消し止めることができるが、火が一面に広がってしまうと手がつけられなくなってしまう。
学校でも企業でも、まだぼやのうちに速やかに上に報告され組織が一丸となって対処することができないのだろうか。
ユウさんが指摘しているように失敗や悪い報告は必ず責任が問われ、減給、降格、ともすれば一生の不利となる。誰しも皆生活がかかっている。出来れば一人で、またはうちうちに処理したいと思っているうちに、火の手が燃え広がり、場合によっては企業なら倒産し、何千人、何万人という人々が路頭に迷うこともある。
何故、失敗や悪い情報が上に上がりにくいのだろうか。これは減点主義の組織になっているからではなかろうか。失敗などでひとたび減点になるとこれを取り返すことが極めて難しい、いやほとんど不可能に近い組織になっているからではないろうか。
悪いことや失敗は処罰するが、リカバリーのチャンスも与え、情報が上に速やかに上がり、組織が一丸となって対処していくような組織が出来ないものだだろうか。
また組織のトップ(企業なら社長、学校なら校長や教育委員会等)の資質も大切である。えてしていい情報には耳を傾けるが、悪い情報には耳を傾けなかったり、時には耳に痛い情報をもたらす者を叱りつけるトップがいかに多いことか。これではどうして失敗や悪い情報がトップに届くだろうか。トップにとって耳に痛い情報ほど耳を傾け、すぐ対応しなければならないのに。
ここでトップの人間としての資質が問題になってくる。組織の最高責任者であり、最後の決断を下さなければならないのはトップである。私はトップに求められるのは、業務の知識も重要だが、最も大切なのは人間性だと思っている。事を処理する場合、耳の痛いことにも耳を傾け、私心を離れ、何が正しいのか正しくないのか、この問題はどう処理すべきか等、客観的に判断し、実行することは至難の業であり、勇気を要することである。だからこそ、それができるトップは尊敬されるのである。
人間性が問われ、本来ならトップの資質や資格がない人物が教育の世界であれ、企業であれ、役所であれ、あまりにも多いのではなかろうか。
昨今、頭(成績)を鍛える人間は多いが、心を鍛える人間が少なくなってきていると思われてならない。
給料を査定する人の見識や人格が世の中を支配している世界ですが、まともな人の少ない時世です。何とか、一寸でも、と思い、自分の持ち場で、せめて一隅を照らすことに頑張らざるを得ませんが、ごまめの歯軋りの毎日ですので、歯もだいぶ磨り減ってきました。