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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

「坂の上の雲」

2007-11-30 | 読後感
司馬遼太郎を読んだ
タイトルは「坂の上の雲」である
文庫本で8冊あった
今年の夏 
四国松山を訪問したことが切掛けだった
読み応えのある内容であった
明治の初めから日露戦争が終わるまでの30年
ロシヤとの戦争を克明に記した歴史小説である
俳句の正岡子規
松山に生まれ東京で記者となり
若くして病没したが
ベースボールを野球と訳した当人と知って驚いた
打者、走者、直球、死球、すべて子規の発明だそうだ
海軍の秋山真之 陸軍騎兵の秋山好古は兄弟であった
松山伊予藩の貧乏士族の出自だそうだ
子規と交友があり互いに影響し合ったとか
旅順を攻略した乃木希典大将
軍神と聞いていたが
実は凡庸な人であったと書いてあった
死ななくても良い罪なき兵士を1万人も死なせた
無謀な正面突撃を繰り返したと言う
我が心の英雄像が崩壊した
ガッカリした
東郷平八郎連合艦隊長官
対馬海峡にバルチック艦隊を向かえ 
これを撃滅した
最初の1時間で大勢を決したと言う
信じられない戦果であった
戦端を開くにあたり
発した兵員への発令は次の如し
敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊は直ちに出動 
之を撃滅せんとす
本日天気晴朗なれども浪高し 皇国の興廃この一戦にあり
連合艦隊参謀秋山真之の作だそうだ
本日天気晴朗なれども浪高し 皇国の興廃この一戦にあり
我が家を出て会社に向かうとき いつも口ずさみたい言葉だ
イメージトレーニングに最適だ
坂の上の雲の時代
ただ黙々と坂の上の雲を目指して
明治の人は坂道を登って行ったのだ
錚々たる人たちと庶民が綴った歴史があった
坂の上の雲の時代
わが国は明治維新の直後にして世界では赤子であった
国力も兵力もなかった
日露の戦争はアリが象に刃向かうが如き戦争であった
ロシヤは一等国 
今で言えば超大国であった
日本は三等国 
農業国にして太平の眠りから覚めて30年に過ぎなかった
信じられない組み合わせであった
ロシヤにとっては皇帝ニコライ二世の野望に始る侵略戦争であったとか
日本にとっては生きるか死ぬかの祖国防衛戦争であったとか
負ければ対馬、北海道をロシヤに割譲せねばならぬという危機感があったとか
ロシヤにとっては皇帝が統治する官僚機構の軍隊がいやいや戦ったとか
日本は頂点に天皇を戴くといえども素朴な国民の純粋な思いで戦ったとか
ロシヤと日本の庶民の文化の構造が異なっていたとか
日英同盟でイギリスが何かに付け日本を支援したとか
勝っても疲労困憊
余力の全くなかった日本であったが
戦争の早期終結にアメリカ大統領が一肌脱いだとか
あらゆることが日本に味方したのであった
要するに運がついていたのだ
だが
こんな戦争の始まりを小国日本がよく決意したものだ
政府の要人は慎重論であったが
新聞などの世論が開戦を主張し これを抑え切れなかったそうだ
信じられない
自分は人が人を殺す戦争を賛美する気は毛頭ないが
現在のわが国の軟弱振りを見るに付け 少しは思う
偉大な明治の先人の気力を少しは見習えと
一寸の虫にも五分の魂があるのだ
戦う前から負けると思うな
繰り返す
本日天気晴朗なれども浪高し 皇国の興廃この一戦にあり
この意気込みを忘れてはいけない
如何に力の強い相手であろうと
如何に勝つ気のしない相手であろうと戦う前から負けていてはいかんのだ
勝てる勝負も負けて終わる
せめて知力と精神力では相手の上を行け
日清戦争も日露戦争も勝った日本だ
いずれも当時の超大国を相手に立ち上がって勝ったのだ
我々はその末裔だ
明治は遠くなりにけりだがこの事実を時には思い起こせ
同胞よ 同輩よ 仲間達よ
自信を持とう 今よりは強くなろう
精神力とエネルギーが漲った
久方ぶりだった
読むに長時間を要したが読み応えのある本であった


「メンタル・タフネス」

2007-08-11 | 読後感
この飛行機 どうかしている
離陸 遅れている
オレ もう30分も前に乗り込んでいる
何だか手間取っているらしい
のろまな整備員の野郎のせいか
間抜けなパイロットのせいか
何時まで経っても飛び立とうとしない
乗客の荷物に問題があったのか
一緒に乗るVIPが間に合わないのか
ちゃんと説明しろ
この航空会社 阿呆じゃないか
オレ 座席に座っていらいらしている
降りかかる災難が次から次へと思い浮かぶ
このままでは交渉相手との約束に遅れる
折角のチャンスを逃す
出世が遅れる
家族や友人に見放される
思えば思うほど 腹わたが煮えくり返る
だが 何もできない
外へ連絡も出来ない
自分に可能な状況を変える方法は何もない
思いはさらに続く
しまったなあ!
別の日に行くと決めていたら良かったのに
別の航空会社にしていたら良かったのに
もう一つ早い飛行機にしていたら良かったのに
ちくしょう ちくしょう こんちくしょう
呼吸が激しくなる
心臓が早鐘を打つ
消化器官がねじれる 痛む
脳神経系が引き攣れる
イライラが喉から出そうになる
だが 怒るな!
一歩下がって冷静に見よ!
怒っていらいらしても遅れることに変わりはない
怒れば自分の寿命を縮めるだけだ
怒ってみても損するのはオレ様だけだ
じたばたするな
遅れることは既に決まっていることだ
済んだことだ
盆に返らぬ覆水ならば無視をせよ!
大切なエネルギーはこれから出来ることに使え!
これってストレスなのか?
ストレス?
そんなものはこの世にはない
あったとしてもさっさとゴミ箱に捨ててしまえ!
深呼吸しろ!
怒りを鎮めろ!
出来ないことにイラつくな!
出来ることに専念せよ!
飛行機が遅れて着いた後の善後策を検討せよ
代わりのチャンスがないか考えてみよ
今座席で出来る仕事があれば即それを実行せよ
何もすることなければ目を瞑って睡眠を取れ
先のことが気にかかるなら予定変更を考えろ
暇なら乗客の顔を眺めて心理学の研究をせよ
あと何分で飛行機が飛ぶかクイズして遊んてみろ
飛行機が遅れたくらいで世の中は何も変らぬ
明日の朝になれば太陽は間違いなく東から昇る
そう言えばこの前も飛行機が遅れたっけ?
なのに 
何のトラブルも起きなかった!
対処できない失敗の結果などこの世にはないのだ!
ストレスなんて
ゴミ箱へ叩き込めばそれで全部済んでしまうのだ!

※ J.レーヤー、P.マクラフリン著「ビジネスマンのためのメンタル・タフネス」(阪急コミュニケーションズ)


「カラマーゾフの兄弟」

2007-07-20 | 読後感
ドストエフスキーの長編「カラマゾフの兄弟」を読みました
登場人物は何と気の狂ったような人達ばかりでした
カラマーゾフ家の父は変人 
3人の息子もみな変り者
三男坊主のアリョーシャだけが純粋無垢でほっとしますが
こんな親子なんて本当に居るのでしょうか?
これを取り巻く周囲の連中もまた変人ばかりでした
女、子供、僧侶、農民、検事、弁護士、裁判官
ただの一人も正常な人間は居りません
小説の設定ですから仕方がありません
が、一寸狂った異常な世界です
何度も途中で投げようと思いました
しかし、読み進むうちに段々面白くなって来ました
次男のイワンという秀才が夢を見たのです
イワンは弟のアリョーシャに語ります
イワンは何の罪もない幼児虐待の例を挙げて
子供達の苦しみと涙は何のためかと問うのです
イワンは無神論者ですが
罪なき者が言われなく苦しむ不合理は絶対に許すことが出来ないと言うのです
何だか現代の日本のようです
アリョーシャは答えます
すべてのことに対して赦すことが出来る人がたった一人居る
それがキリストだと言うのです
今私達の住む現代日本の私達の周りで起きている幼児虐待の実態を考えると
この世に果たして神が居るのかと思います
その神はわが子への虐待を平気で行う親をも赦しているのかと思うと
一体全体キリストの役割は何であろうかと考えます
イワンはさらに続けます
夢の続き「大審問官」が登場するのです
何とあのキリストが悪魔の変身「大審問官」に弾劾されるのです
大審問官はキリストに言います
「人間は良心の自由などという重荷に耐えられる存在ではない
 彼らはたえず自分の自由とひきかえにパンを与えてくれる相手を探し求め
 その前にひれ伏すことを望んでいるのだ
 だからこそ われわれは彼らを自由の重荷から解放しパンを与えてやった
 今や人々は自己の自由を放棄することによって自由になり
 奇跡と神秘と権威という三つの力の上に地上の王国を築いたのだ」と
「大審問官」のこの弾劾に対してキリストは終始沈黙を守ります
キリストにはすべてが分かっているから
キリストの心の奥底では「大審問官」自身も苦悩していることを知っているから
無言の反論で「大審問官」を屈服させたと言うのです
が、自分にはキリストの偉さが分かりません
が、ドストエフスキーはすべてを見通しています
未来の社会主義の無力も資本主義の無力も同時に見通していたのです
ところで この小説の主人公は長男ミーチャです
ミーチャはイワンとアリョーシャとは腹違いの兄弟です
ミーチャは自分に正直ですが過激な性格に育ちました
色々な経緯を経てミーチャに父殺しの嫌疑が掛かります
長い裁判の土壇場でシベリヤ送りの判決が下されます
裁判を契機に真心に帰った愛人のグルーシェニカが不憫です
グルーシェニカの恋敵、高慢なカーチャには反省が復活しません
真犯人も明るみに出ることなくすべてが終わってしまいます
すべて未解決です
裁判にも不条理が残ります
読者は完全に消化不良となります
誰の心も晴れぬストレスが残ったまま小説が終わります
ストレスが残る一番の原因は陪審制度にあります
陪審制度という多数決原理によって真実が死ぬからです
多数決が常に正しいとは言えないことを正面から認識させられるからです
あらゆる証拠を駆使して検事が立証しました
あらゆる証拠を駆使して弁護士が反論しました
どちらも正しい
どちらが正しいかを決する そこには多数決しかありません
多数決を行使する陪審は人間の集団です
人間は感情や情緒に支配されて真実を見誤ります
そして誤った判決が下ります
読者は真実を知っています
状況は真実の反対側に傾いて判決が確定します
読者の正義感が取り残されてストレスになって余韻を残します
読者はこの物語の結末をこのまま受け入れることが出来ません
腹が立ちます
一方 物語と無関係にイリューシャという子供が病気で死にます
アリョーシャは集まったイリューシャの友達に説教します
友達はみんな小さな子供達です
「みなさん 僕たちは何よりも第一に、善良に、それから正直になって
 さらにお互いにみんなのことを決して忘れないようにしましょう」
「みなさん、かわいい諸君、僕たちはみんな、イリューシャのように
 寛大で大胆な人間になろうではありませんか」
「ああ、子供たち、ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません
 何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです」
「いつまでも、こうやって、一生、手をつないで行きましょう」
取って付けたような最後です
裁判の不条理は残ったままです
しかし そのようなことと関係なく未来に育つ若い命があることを示唆します
「私達は未来という希望を子供たちに託そうではないか!」
ドストエフスキーはアリョーシャの口を借りて言わせます
それから100年過ぎました
我々もまた同じ思いを抱きながら変らぬ社会を生きていることを実感します


「デミアン」

2007-03-31 | 読後感
ヘルマン・ヘッセのデミアンを読んだ
はっきり言って難しい本だった
年寄りの自分が今読んでよく分からんということは
子供の昔に読んでおれば
もっと分からんかったであろうということか?
主人公はジンクレール
デミアンはその兄貴株 
ジンクレールの指導的な友人であった
ジンクレールはデミアンに導かれながら
幼年時代から少年時代
少年時代から青年時代へと心の遍歴を続ける
我が若き青春時代と重ね合わせながら
読んでいる分には肩が凝らなかった
しかし短い話しながら
読み終わった後にどっと疲れが出たのであった
未だにこの本の真髄が理解できないでいる
カインとアベルの話くらいなら少しは知っているが
そのレベルの話では追いつかないのだ
カインの額(ひたい)のスティグマがデーモンをあらわし
デーモンとはすなわちデミアンの語源となっているらしいが
そのデミアンが自分には至って理論派で明快で良識家で
カインを代表しているとは全く見えないのだ
お話ではジンクレールの前に次から次へと人物が現れる
これらの人物と絡まりながらジンクレールは成長していく
幼年時代にはフランツ・クローマという悪ガキにいじめられ
少年時代にはベアトリーチェという想像上の美少女が現れ
坊主崩れのピストリウスが弾くオルガンに魅せられ
アブラクサスを学び
青年時代には何とデミアンの母なるエヴァ夫人に恋して
最後に戦場で負傷してデミアンの幻を見て終わる
何がどうなってここで終わるのか?
何とも分からん結末で終わるお話であった
思うにジンクレールはデミアンであり
デミアンはジンクレールであったのか?
一人の人間が現実界と霊界を往来していただけなのか?
こうなれば
実はカインもアベルも同一人物である
一人の人間の表裏に過ぎない
そんなことを考えさせてくれただけでまあ良しとでもしておこう


「車輪の下」

2007-02-28 | 読後感
ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を読んだ
50年前に読んでいたら理解できなかった本だ
「車輪の下」とは何か?
それは「車輪の下」に押しつぶされた青春のことだった
主人公はハンス・ギイベンラアト
大人になる前に散ってしまったハンス・ギイベンラアト
ハンス・ギイベンラアトが神学校に入学した時は誇りと喜びに溢れていた
並み居る秀才の中から何と2番で合格した
朗かで明るい何処にでも居るような少年であった
田舎から町に出て 試験前の緊張、本試験、面接試験の取りこぼし
ハンス・ギイベンラアトの感性は我が青春の受験時代と生き写しだった
100年前のドイツの片田舎の話とは考えられない親近感があった
いつの間にかハンス・ギイベンラアトを過去の自分とダブらせていた
だが、何としたことか?
あっという間もなくハンス・ギイベンラアトの人生が狂ったのだ
詰め込み主義、規則ずくめの寄宿舎生活への反感
同宿の、詩人で、多感で、反抗的な友人の放校から悲劇が始まった
ハンス・ギイベンラアトはうつ病となり
統合失調症の一歩手前で坂道を下っていった
校長や教師達の形にはまった指導、説教、脅迫
成績は急降下して
ハンス・ギイベンラアトもまた放校となった
ハンス・ギイベンラアトは、しかし、かろうじて世界に踏みとどまった
若い娘に片思いの恋をしたのだ
気弱なハンス・ギイベンラアトは何一つ打ち明けることが出来ぬまま
恋人は去った
ハンス・ギイベンラアトは、またも、失意のどん底に落ちた
ハンス・ギイベンラアトは、しかし、ここでも瀬戸際で踏みとどまった
機械工の見習いになった
ハンス・ギイベンラアトは職場の仲間との宴で酒を飲んだ
ハンス・ギイベンラアト飲みたくて飲んだのではなかった
ハンス・ギイベンラアトは断れず飲まされたのだった
夜遅くの帰宅は父にまずいと 宴の途中で一人抜け出て帰ったのだ
ハンス・ギイベンラアトは泥酔していた
暗闇の山道で足を踏み外したのか
原因は不明なるも
小川の流れに
ハンス・ギイベンラアトの死体が流れ漂っていくには
時間が掛からなかった
ハンス・ギイベンラアトの青春は此処で終わった
ハンス・ギイベンラアトの人生とは一体何であったのか?
つくづく思う
この本を若くして読まなくて良かった
人は何のために生まれ
人は何のために生きて行くのか
この基本の哲学を全く分からなくさせてしまう本だった
「車輪の下」とは「車輪の下」に押しつぶされた青春と言う意味だ
この「車輪」とは一体何を意味しているのか?
過剰な期待を抱く親達のことなのか?
生徒を鋳型に嵌めることしか知らぬ教師達のことなのか?
分からない 
よく分からないが
ハンス・ギイベンラアト自身人生を虚しいと思い至らぬまま
往ってしまったのがせめてのもの救いだった
ハンス・ギイベンラアトの頭脳の十分の一も働かないバカモノ達が
ガハハハと笑って生きていく世界がこの世ならば
社会の仕組みや頑迷な大人達の不条理を責めればいいのか
人生とは所詮このようなものだと諦めた方がいいのか
結論は分からない
その結論は読む人それぞれに任せたい
読後暫し暗くなった


「ヴェニスに死す」

2007-02-02 | 読後感
トオマス・マンの「ヴェニスに死す」を読んだ
僅か150ページほどの短い小説だった
この小説でマンは一体何を言いたかったのか?
短いが非常に難解だ
小説家は若くして強い意志を維持し
芸術と生活のバランスを保ち名声を確立した
突然激しい旅心にそそられてヴェニスへの旅に出た
既に世間的な名声を確保していた男がふと息抜きをする気になったのだ
しかし 男が現在の栄誉と精進と静けさに満ちた生活を見捨てた瞬間
バランスは崩れた
バランスの崩れとは気の緩みであったのか?
男は旅先で端麗無比な美少年に魅入られた
半ば意識的に伝染病から逃れることすら放棄した
空想の中で少年と一体となることを夢見ながら
そして少年を遠目に観察しながら
意識を少年に投げかけたまま死んで行った
物語はそれだけのことだ
短いが何と難解な物語であることか
その意味が容易に理解できないのだ
若くして猛烈に仕事をし続けた男は孤独であった
初老になって孤独な男は旅に癒しを求めた
そして見知らぬ少年を愛するに至った
しかしその愛は妄想に過ぎなかった
妄想は死の数分前まで明晰であった
そして誰にも気付かれぬ孤独死を迎えた
死を迎える心の準備もせぬまま
死につつあることの自覚もないまま
死んでいることを誰にも知られないまま
男は旅先で一人で死んだ
男は生の緊張を解き放つと
坂道を下るように転げ落ちていった
転げ落ちる先が不意の死であることなど
想像だにしていなかった
この男にとって仕事とは何であったのか?
この男にとって人生とは何であったのか?
「日光見ずして結構言うな」とは日本のコトワザだが
「ナポリを見て死ね」と英語では言うそうだ
この男はナポリではなかった
ヴェニスで死んだ
ナポリを見てからと思っていたとしたら
この男も多くの仕事をやり残して死んだかも知れぬ
人はいつ死ぬか?
それは誰にも分からぬことだから
何とも致し方ない話だ
人の行為や努力では律しきれぬ話だ
この小説は書いてあることよりも
書いてないことを多く考えさせる小説であった

  

「戦争と平和」

2007-01-16 | 読後感
読んだぞ 
読んだ
トルストイの「戦争と平和」をだ
約700ページの文庫版が4冊
初めから終わりまで
全部読むのに半年以上掛かった
高校生の頃に読もうと思ったが
これまで果たせず
50年後の最近になって
やっと読み始めたのだ
何とも長い長いお話だった
ナポレオンとロシアの何人かの貴族の物語だった
登場人物は500人以上
スケールの大きい歴史を背景に
一人ひとりの人間の生活が刻まれていく
その中で人間とは何か?
人間が生きていくとはどう言うことか?
歴史という時間や必然という制約の中で
人間に意思や行動の自由は存在するのか?
そんなことを考えさせるストーリーだった
人間一人ひとりとは
歴史から見れば何と小さな蟻のような存在なのか!
人間ひとりが懸命に生きたとて
時間と必然に流されて
そこには個人の自由などどこにもなかった
ストーリーを追えば
アンドレイという男が死んでいく
エレンという女が死んでいく
男ではロストフもピエールもみんな死にかけては生きていく
女ではナターシャもソーニャもマリヤもみんな苦しい悩みを生きていく
そこにどのような意味があるのか?
恵まれたロシア貴族と言えども
自由など何処にもなかった
ナポレオンとて
権力のトップに居て
最高の自由を欲しいままにしても
歴史の必然の中では一人の傍観者に過ぎなかった
自由と必然との相克
歴史という時間の制約
その中で営まれる個人の運命
それが「戦争と平和」だった
ここには「アンナ・カレーニナ」のような物語はなかった
ただただ戦争と人間の苦悩が継続するだけだった
読んで退屈
途中で面白いと感じられない本だ
最後まで読みきることにのみ意義がある本だ
トルストイは何を言いたかったのか?
それを考えることにのみ意味がある本だ
しかし
最後まで読み終えれば
やはり読んでよかったと思う
何しろ50年前からの懸案がやっと解決したのだ
肩の荷が下りた
ほっとした
しかし
我が人生はまだまだ終わらない
やり残し満載の人生の途中だ
読みたい本がまだまだある
やりたいこともまだまだある
何時まで経っても死ねない
病気になることもままならない
何時まで経っても楽にならない人生を
「戦争と平和」の登場人物のように
まだまだ生きていかねばならない人間だ
人間として生まれた限り仕方のない運命だ
まあいいじゃないか!
この世界で
いま少しじたばたしながら 
どじばらせていただくとしようではないか!


「アンナ・カレーニナ」

2006-07-05 | 読後感
トルストイのアンナ・カレーニナを読んだ
アンナの最後の場面では
無残な筋書きを作ったトルストイを恨んだ
アンナは絶世の美人だった
器量もよく、しとやかで
これ以上の女はこの世に居ない理想の女だった
そんな女をトルストイは殺してしまった
もう100年以上も前に作られた作品だから
今更筋書きを書き直せと言っても始まらない
それでも 我が心は残念で残念でたまらない
そんな気持ちがいつまでもいつまでも残って消えない
もしアンナの生まれた時代が現代ならば
カレーニンのような融通の利かぬアホは完全に無視して
恋に忠実に、自分の人生を生き抜いたろうに
アンナ・カレーニナよ
キミは本当に可哀想だ
自らの命を自らの思いで断つなんて
出来ればヴロンスキーかカレーニンのいずれかが
先に死んでしまえば良かったのに
アンナだけは
幸せな一生を最後までゆっくりと送らせてやりたかった

50年前に読んでおくべき本を今頃読むとは汗顔の至りだ
50年前と同じ青春の血が今も流れていることを発見した
読み進むうちに胸がときめき涙が出て心が動き感動した
時間はかかるが読書はテレビや映画よりも密度が濃くはるかに面白い
これからも読み残しの本をどんどん読んで行きたい
我が人生、やり残しの思わぬ仕事をここに発見した

※続けて、トルストイの「戦争と平和」を読み始めました。終わればこのブログに感想か何かを登場させます。どのくらいのスピードで読んでいるかをお楽しみに。1年くらいの長期戦になるかも知れません。


「生きて死ぬ智慧」

2005-05-01 | 読後感
「生きて死ぬ智慧」と言う本を読んだ
複雑な心境だ 全く分らなくなった それは「般若心経」の世界だった
年ならば そろそろ 悟りを開かねばならんが 65歳の若造ではムリだ
まだまだ 娑婆の色香を嗅ぎ 欲しいものがあり したいことがある

ところで みんなは「般若心経」の世界が分るかね?
「無受想行識」(むじゅそうぎょうしき)とは何か分るかね?
それは 形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もない ことだ
「無眼耳鼻舌身意」(むげんにびぜっしんい)とは何か分るかね?
それは 眼もなく 耳もなく 鼻もなく 舌もなく 身体もなく 心もない ことだ
「無色声香味触法」(むしきしょうこうみそくほう)とは何か分るかね?
それは 形もなく 声もなく 香りもなく 触覚もなく 心の対象もない ことだ

これだけ言って この「般若心経」の世界が分るかね?
分らなければ もう一度言って聞かせよう
世界とは 実体がない 物質的存在もない 感覚もない 感じた概念を構成する働きもない
意志もない 知識もない そういう世界だ 「空」の世界だ 「無」の世界だ
生きて死ぬまで 何もない 痛くもない 痒くもない
苦しみもない 悲しみもない 喜びもない 幸せもない
老いもない 死ぬこともない 恐れることは何もない
すべてが硝子のように透き通った 実体があるのに実体のない世界だ

「色即是空」を悟らず 「空即是色」を悟らず 色と物の世界に身をゆだねる者よ
汝は永遠に 煩悩の世界から 抜け出すことが出来ぬ
悟るものよ 悟るものよ 真理を悟るものよ 幸いなれ
彼岸に行くものよ 幸いあれ これがどうも結論だ

ところで みんなはこの世界のことが分ったかね?
オレには難しすぎてよく分らんが 分らんお陰で幸せを感じて生きている
達成感 充実感 満足感 自己実現 これらが幸せの源泉だ
没頭して 時間を忘れて やったことが残る これが幸せの源泉だ
しんどい 辛い 苦しい 疲れた... 副産物はあるかもしれんが
じっとして 何もせぬより 何かして 何かがあれば それが生甲斐だ
成果など なくてもよいと思うときがある その実現のプロセスが尊いのだと思う

とは言っても 「65歳の抵抗」 そんなことして何になるか と思うときがある
もうそろそろ年ではないか と思うときがある
疲れたね みんな休んでいるから オマエも休んだら と思うときがある
そんなときがあるから それが原因で悩んでいるときがある
しかし 明日の予定があり 今日はそれを済ませて 
1日の充実を感じて やったぜ 今日も幸せだ と思う日々は幸せだ

「菩提薩埵」(ぼだいさった)であることは 後で考えよう
「究竟涅槃」(くきょうねはん)の境地は まだまだ先だ
オレの幸せは 衆生(しゅじょう)の中で呻吟して 分らんことに悪びれず
無理せず 背伸びせず 正直に まっ直ぐに 生きること ただそれだけのことだ 

オレは難しいことは分らんがそれで良い オレは何も出来んがそれで良い
オレはオレなりに ぼちぼちゆるりと慌てずに
年を取ったからとて 遠慮しないで 胸張って 勝ちもせず 負けもせず
精一杯の人生を続けるだけのことよ

※「生きて死ぬ智慧」;柳澤桂子・堀文子、小学館(2004)