山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

吉窪城

2018-09-14 20:05:12 | 山城ー信州
吉窪城は長野県長野市塩生乙にあります。(松山城二の曲輪は補足しています。)

吉窪城地図

地図を-をワンクリックいたしますと小田切ダムが表示されます。地名の通り吉窪城は小田切氏の居城です。小田切氏は佐久市にある雁峰城を本城としていました。この本城から長野市の塩生乙まで移った背景は、小田切氏は上杉氏の配下に着き、侵攻してくる武田氏に抵抗をつづけた氏族です。葛山城では落合氏とともに守備に就いて小田切駿河守幸長は討死しています。小田切ダムの東、国道19号線で犀川の両郡橋を渡り、すぐに左折し市道に入ります。300mで二又を吉窪本郷への右手に入ります。


吉窪集落に入って案内が出ています。

この道を登ってゆけば城山になります。右手の山が城山です。

アサファルトになっていて車でも登れますが駐車に困ります。この一号墳を右手に進むと

吉窪城登り道が案内されています。

西明寺

西明寺の碑から登れることもできます。

山道は整備されています。奥に虎口が見えてきました。

大手虎口

虎口の手前、神社の階段があります。

虎口に入らず、北側斜面に廻ると

立堀があり、両側に曲輪を配しています。

虎口から入って大小四つの曲輪がありますが薮で写真になりません。ここを出てくると

神社、祠が祭られています。

1557年、小田切幸長は七郡を治める有力武将で、前述の如く葛山城へ籠城したと書いてあります。

次回 本丸へ

葛山城跡

第2回川中島合戦の対陣のとき、善光寺の北西にある葛山山頂に築かれた上杉方の城。上杉謙信が武田方の旭山城に対する向城として整備・拡大した重要な前線拠点であった。もとは葛山衆と呼ばれる地侍の城で、城主は落合氏であった。
弘治3年(1557)2月、雪で上杉軍が出陣できない時期を見計らい、武田信玄は牧之島城(まきのしまじょう)の馬場美濃守(ばばみののかみ)に命じ、大軍で葛山城を急襲した。城主の落合備中守は死力を尽くし奮戦したが、武田軍は水の手を断ち切り城に火をかけ、城兵のほとんどは戦死。このとき、援将として村上氏の支族・小田切駿河守幸長(おたぎりするがのかみゆきなが)が城主落合氏と一緒に戦い籠城したが、馬場信房らの猛攻により、落城とともに討ち死にした。
落城の際、逃げ場を失った多くの女性たちが身を投げた姫谷を呼ばれる谷底からは、後の世まで哀しい鳴き声が聞かれたという。また、この城は水に乏しく米を水に見せかけて敵の目を欺いたという米山城伝説も残る。
葛山城跡へは、武田方と関係も深い静松寺(じょうしょうじ)などから登山道が整備されている。標高822mの山頂にある本丸跡は、展望のよい小公園となっており、旭山城跡や大峰城跡、飯綱山を目の前に、長野市街地から広がる川中島平を一望できる。

 岡澤先生の史跡解説

葛山城が武田軍に攻略される前は、飯縄山一帯は落合氏の所領であった。落合氏は佐久市落合から出た滋野(しげの)氏一族の武士で、葛山城を本城として、裾花川(すそばながわ)流域を領した。一族に在地名を姓にした桜氏・鑪(たたら)氏・広瀬氏・上屋(あげや)氏・立屋(たてや)氏がおり、宗家落合氏を含めて葛山衆という。天文23年(1554)の『下諏訪秋宮造営帳』に落合領中、広瀬之庄七郷として「入山・上野・広瀬・上屋・桜・たたら(鑪)吉澤新曾(あらそ)」の地名がみえる(『信濃史料』十二巻)。これらの郷は葛山城趾のある長野市芋井(いもい)地区である。 
弘治2年(1556)3月11日、武田晴信が横棚(よこだな)の静松寺(じょうしょうじ)に遣わした書状に「落合遠江守(おちあいとうとうみのかみ)・同名三郎左衛門尉(さぶろうざえもんのじょう)、最前より筋目替わらず忠心を抽(ぬ)きんずべきの旨申され候か。なおもって感じ入り候。たとえ惣領二郎左衛門尉方、当方手当に属され候と雖も、両所に対しいよいよ懇切に申すべく候。この趣仰せつけらるべく候」とある。
この書状でわかるように、葛山落城の闇部には、武田晴信に内通していた静松寺の僧侶と落合遠江守・三郎左衛門の存在があった。
 長野市「信州・風林火山」特設サイト川中島の戦い HPより

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。