山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(横尾氏)

2015-03-13 20:03:25 | 氏族の追跡
氏族の追跡といいましても、九州地方に伝わる伝説を取り上げます。しかし、その伝説の中に横尾氏の一族が関係しているのではないかと思われる痕跡があり、それを紹介します。伝説を紹介しているのが『平家秘史』伝奇と真相 地域文化出版 渕 敏博氏著。この本は「九州に伝わる横尾一族の足跡」サイトの和左衛門さんの紹介です。(現在このサイトは認証式ですので誰でも閲覧はできません。)

伝説を紹介する前に二点を前提にして話を進めます。一点は横尾氏は前のブログ(BIGLOBE「山城めぐり」で氏族の追跡の中でふれておりますが、横尾家は平家忠盛(平清盛の父)の六男の忠度から始まり、忠氏ー忠泉ー忠正ー忠澄ー氏光ー氏信ー新光と続きます。この新光から幼名を采女、家名を横尾と改め、横尾丹波守と称す。この横尾丹波守の官命は戦国時代には横尾家の後胤横尾信光が横尾采女丹波守と称して続いています。
 二点目は采女という官職は平安時代においては官女の管理を任されていた職であることを念頭に置いてください。

采女(うねめ)とは、日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった。、『日本書紀』によると、既に飛鳥時代には地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。一種の人質であり、豪族が服属したことを示したものと考える説が有力である。しかし、延喜17年(917年)の太政官符に、出雲国造が「神宮采女」と称して妾を蓄えることを禁止しつつも神道祭祀に必要な場合には1名に限り認める内容のものがあることを根拠に、地方の祭祀を天皇家が吸収統合していく過程で成立した制度で、祭祀においては妾と同一視され後述のとおり子供が出来る行為を伴ったと推測した説[1]など、神職である巫女との関連性を采女の起源に求める説も存在する。

主に天皇の食事の際の配膳が主な業務とされているが、天皇の側に仕える事や諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいたが、当時は母親の身分も重視する時代であったため、地方豪族である郡司層出身の采女出生の子供は中央豪族や皇族出生の子供に比べて低い立場に置かれることがほとんどであった

宮内省の配下にある「采女司」が彼女たちの人事等を管理しているが、実際に所属するのは後宮十二司のうち「水司」に6名、「膳司(かしわでのつかさ)」に60名となっている。定員は計66名であるが、大宝律令の軍防令によると全国の郡の三分の一から采女を募集することとなっており、そこから推測される采女の貢進数はそれを大きく上回っている。この事から、女嬬の代わりとして他の部署に配置される者や職制の定員外にいる者[2]、あるいは皇子女付きの者等も存在すると見られている[3]。(Wikipediaより引用)

要するに横尾家の平安時代の先祖は女官を管理し人事を司る任務に就いていたと推測されます。またこのことが九州に於いて平家の落人に付き従い九州の椎葉村(宮崎県東臼杵郡)に伝承が残っています。
 伝承とは壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)。font>

この伝承を語る前に、安徳天皇生存説から話を始めねばなりませんが次回とします。

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