山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(横尾氏)九州の伝承⑥

2015-03-25 18:20:47 | 氏族の追跡
椎葉には、鶴富と大八郎が一緒に暮らしたという、「寝殿造り」風を今に伝える「鶴富屋敷」があり、椎葉の古い民家として国の重要文化財に指定され、名所になっている。このような寝殿造りは、京都の「紫宸殿」以外にはないという。
 鶴富屋敷は別名「那須家住宅」と呼ばれ、この那須大八郎宗久から始まって直系の三十二代目の当主、那須初さん一家が別棟に住み、旅館を営んでいる。(休暇が取れたら一度泊めていただきお話を聞きたいものです。)
 集落名には、大八郎に従って入山して住みついた源氏の武士の名前が起源となったされるものに、木裏右京、財木丹後、奥近江、中略晋四郎、横尾万九郎、古川豊前、一の隅大路などがあり、はるかに都を偲んでか、腰越、一の谷、金の尾、神輿、泉の滝、御池など優雅な地名も見受けられる。また椎葉には、平家特有の都育ちの気品漂う風情が色濃く残っているのが、言葉や祭礼である。さらに、平家一族を弔うという珍しい祭りが残っていることも見逃せない。白鳥神社の例祭では「的射節」を歌い、「平家様弔い」という「御武者祭り」が、旧暦三月十七日に催される。これは、壇ノ浦から敗走した、とある平家の一族が、「御池」近くまで来たとき、白く咲き誇る山桜を源氏の旗と見間違えて、もはやこれまでと切腹。その日が三月十七日であったとされ、平家一族の霊を慰めることから始まったという。
 椎葉厳島神社 ここは、平清盛が創建した広島の厳島神社を、平家の守り神として、大八郎が勧請したものという。神社の石段に「平家追討の総大将那須大八郎宗久陣屋跡この上にあり」という標柱がある。 「平家秘史」より


このように椎葉村には「寝殿造りの屋敷」が残り、大八郎の鶴富姫に宛てた「お墨付き」も那須家に残っており、まず平家落人伝説、それを追討軍にあった那須大八郎のことは事実であろうと思います。そして、平清盛の曾孫である鶴富姫に従い、壇ノ浦から随行してきた武士の中に横尾万九郎さんを子孫とした横尾一族がいたと研究調査され推定しているのが「九州に伝わる横尾一族の足跡」というブログを開設されている和座衛門さんです。現在横尾万九郎さんはすでに亡くなっており、調査は残念ながら頓挫しているとのことです。椎葉村の横尾一族の菩提を弔った寺が存在すれば、また道が開けるかもしれません。
 忠盛の六男、忠度が横尾家の祖と系図ではされています。忠度は一の谷の合戦で討死をしており、この時に横尾一族の一部は鶴富姫を警護し九州に流れた可能性があります。もう一つは、忠度の嫡男忠氏は「母者菅家道真公十一代之後胤美作国菅家江見治郎行基女也、薩摩守忠度に嫁す。寿永三年於いて摂州一の谷に忠度討死の後美作国に於いて出生す。建久九年十五歳にして鎌倉に下り北条時政を頼み勤仕す。平氏を隠し、江見と称す。その後承久二年六月北条義時に属し宇治勢田合戦において軍功により、信濃国小県郡に於いて横尾永高三百貫之地恩賞を与えられる。」このように系図では書かれており、忠氏が北条氏に属して軍功を挙げて、我が先祖の信濃国横尾に所領を得たとのことです。つまり、横尾一族は一の谷の合戦に敗れて、九州に土着したものと、鎌倉に落ち江見氏と名乗り生き延びた一族に別れたものと思われます。今後の課題として、江見氏について調べなければと考えております。
 九州の伝承はこれにて 完 

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
831年目の春 (鞍岡出身)
2016-04-13 10:27:05
 源平合戦以来831年の月日が流れましたが、いまだに横尾万九郎の血は現在も脈々と受け継がれております。
事実、椎葉村の山奥山頂には立派なお墓もあり、子孫の方が守られておりますよ。

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831年目の春 (富岡武蔵)
2016-04-26 21:56:51
鞍岡出身さん、はじめまして。
「九州に伝わる横尾一族の足跡」というタイトルのブログがあります。和座衛門さんが管理されています。この方によると、椎葉村を訪ね、お墓も訪れたようです。横尾万九郎さんの子孫の方には会えなかったとのことですが、もしおられるなら、家の特徴とか、お名前をお教え願います。
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