山田城は埼玉県滑川町山田にある森林公園内にあります。
山田城地図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/a3/76c37526fc3b6b0b73abb554e43a4bee.jpg)
公園入り口にある案内板![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/ed/d8e3ea10b9e13712177bce7bf6af11c4.jpg)
園内の南に歩くと、ここに着きます。しかしここは虎口ではないようです。散策用に作られた入り口と思います。
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周囲を浅い空堀を巡らしています。南東に位置しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/6e/186eae5cf7be6e88b1995e60b81347c6.jpg)
西南の堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/d9/0cc09face4141c9d6ccb7ccb05bb22ec.jpg)
本曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/28/bfd56b35c85bc3bcedfc0048a65015d8.jpg)
北東に配されている土塁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/9b/70b29c8df96c85e0616ac48b94882edd.jpg)
本曲輪にある説明板
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南東にある虎口、構えから北条流を想起します。
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角度を変えて、南東虎口を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/4f/4a4afd246ee9134b04fb9f85553969c7.jpg)
虎口を補助する空堀
次回 山崎城
山田氏の主家成田氏について
成田氏は、一説に藤原道長の後裔式部大夫任隆が武蔵国の国司として幡羅郡に住み、任隆の子助広が成田太郎を称したのが始まりという。しかし、そのようにいわれるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことはわかっていない。成田氏は北武蔵の一隅の小さな在地領主から次第に成長していったことは間違いなく、藤原氏に連なる系譜は後世の付会の説というべきであろう。
ちなみに、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。この四人は「武蔵七党系図」にみえる資孝の子の成田成任・箱田三郎・奈良四郎・玉井資遠に該当するものと思われるが、これも相違があって断定することは困難である。しかし、在地武士と思われる成田氏は、武蔵七党にみえる成田氏の子孫と考えるほうが自然なようだ。
いずれにしても、系図上の人物ではっきりしてくるのは助隆からで、助隆がはじめて成田氏を名乗っており、助隆が成田氏の初代として考えられている。この助隆から親泰までは居城を上城に構えており、親泰が文明年間(1469~87)に武蔵七党の一つ児玉氏を滅ぼし、忍城に本拠を移したといわれる。助隆の孫助忠は源義経に従って一の谷の合戦で名を挙げ、助綱は奥州征伐に従って功があり陸奥国鹿角郡内で勲功の地を与えられた。成田氏は鎌倉幕府創業期、御家人として活躍し、「承久の乱」にも幕府方として参加した。乱後、和泉・出雲両国内で新補地頭に補任されたことが『出雲大社文書』『田代文書』などから知られる。
元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。これは、新政崩壊後の南北朝の内乱期に際して、嫡流成田氏が南朝方に属していた結果と思われる。武家家伝より
山田城地図
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公園入り口にある案内板
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園内の南に歩くと、ここに着きます。しかしここは虎口ではないようです。散策用に作られた入り口と思います。
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周囲を浅い空堀を巡らしています。南東に位置しています。
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西南の堀
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本曲輪
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北東に配されている土塁
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本曲輪にある説明板
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南東にある虎口、構えから北条流を想起します。
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角度を変えて、南東虎口を見ています。
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虎口を補助する空堀
次回 山崎城
山田氏の主家成田氏について
成田氏は、一説に藤原道長の後裔式部大夫任隆が武蔵国の国司として幡羅郡に住み、任隆の子助広が成田太郎を称したのが始まりという。しかし、そのようにいわれるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことはわかっていない。成田氏は北武蔵の一隅の小さな在地領主から次第に成長していったことは間違いなく、藤原氏に連なる系譜は後世の付会の説というべきであろう。
ちなみに、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。この四人は「武蔵七党系図」にみえる資孝の子の成田成任・箱田三郎・奈良四郎・玉井資遠に該当するものと思われるが、これも相違があって断定することは困難である。しかし、在地武士と思われる成田氏は、武蔵七党にみえる成田氏の子孫と考えるほうが自然なようだ。
いずれにしても、系図上の人物ではっきりしてくるのは助隆からで、助隆がはじめて成田氏を名乗っており、助隆が成田氏の初代として考えられている。この助隆から親泰までは居城を上城に構えており、親泰が文明年間(1469~87)に武蔵七党の一つ児玉氏を滅ぼし、忍城に本拠を移したといわれる。助隆の孫助忠は源義経に従って一の谷の合戦で名を挙げ、助綱は奥州征伐に従って功があり陸奥国鹿角郡内で勲功の地を与えられた。成田氏は鎌倉幕府創業期、御家人として活躍し、「承久の乱」にも幕府方として参加した。乱後、和泉・出雲両国内で新補地頭に補任されたことが『出雲大社文書』『田代文書』などから知られる。
元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。これは、新政崩壊後の南北朝の内乱期に際して、嫡流成田氏が南朝方に属していた結果と思われる。武家家伝より