山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

桃井城

2018-09-25 21:03:20 | 山城ー上州
桃井城は群馬県吉岡町南下にあります。

桃井城地図

吉岡町役場の西を南北に走る地方道25号線で信号田中を右折し町道を進み600mくらいを右折すると大藪貯水池に着きます。その西の丘陵地が城址です、


貯水池から西の丘陵地

大藪貯水池、周辺を公園地化されて見る影もありません。

二の曲輪の城壁

二の曲輪、北に土塁が辛うじて残っています。

北側下に廻れば、城壁であったことが分かります。

一の曲輪、奥に見える山が榛名山

物見曲輪

物見に説明版があって

南北朝期に活躍した桃井直常の居城であるという。足利尊氏に最初は仕え京都六波羅探題を滅ぼし、その後足利直義に仕えて南朝方として従軍したとのこと。

南曲輪

東側景色、奥に赤城山

南下に大藪不動尊

桃井直常の生涯

直常の生年は不詳、足利尊氏に従い、延元元年/建武3年(1336年)頃に下野上三川城、箕輪城を拠点に戦い、延元2年/建武4年(1337年7月)には高師冬らと常陸関城で北畠顕家ら南朝勢と合戦したことが史料上の初見である。 延元3年/暦応元年(1338年)正月23日の青野原の戦いにも加わり、同年に若狭守護となり、延元4年/暦応2年(1339年)武蔵国榛沢郡横瀬郷(深谷市)に赤城山多門院福應寺(別名福王寺)を朝恵僧都に開山した。
越中国守護へ[編集]
興国元年/暦応3年(1340年)頃に伊賀守護、ついで興国5年/康永3年(1344年)に越中守護に補任された。越中に庄ノ城、千代ヶ様城、布市城、津毛城を築き、越中支配の拠点とした。越中守護補任前後には上野国新田荘に所領を持っていたとみられ、正木文書(新田岩松文書)内の観応元年(1350年)12月23日付、『高師直奉書』に岩松直国の安堵状に世良田右京亮に続いて桃井刑部大輔名で直常の名前が史料にみえる。
観応の擾乱、直義派の急先鋒に[編集]
正平5年/観応元年(1350年)に観応の擾乱が起きると、直常は直義派の有力武将として北陸から入京して翌正平6年/観応2年(1351年)の打出浜の戦いで尊氏・高師直らを追い、引付頭人に補任された。しかし尊氏と直義の抗争が再発し、再び上野国に戻り、勢多郡苗ヶ島城(赤城山)麓を拠点に尊氏方と戦った。出身地桃井庄一帯は一族で尊氏方となっていた桃井義盛がいた為に拠点にできず、近隣の寺社勢力、榛名神社もまた尊氏方に味方していた為、 距離の離れた急峻な崖にある赤城山麓に勢力を持ったと考えられる。
正平6年/観応2年(1351年)正月15日には直義に属して越中の兵を率いて近江坂本に至り京都に入り足利義詮と戦う。また上野国に戻り直義方の長尾大膳とともに上野国那波庄(伊勢崎市名和)近辺、利根川辺りで尊氏方の宇都宮氏綱・芳賀禅可・益子貞正・山上氏、佐野氏らと戦い(上州桃井合戦)に敗れ信濃国に徹兵した。尊氏に降伏した直義が翌年鎌倉で没すると、直常は行方不明となる。ウィキペディアより


次回 渋川市 真壁城・八崎城



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。