護摩堂城は新潟県田上町湯川にあります。
護摩堂山地図
県道55号線でアジサイ園の案内が出ています。アジサイ園は護摩堂城内にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/c6/197e5d06e1db246bb398748f84168d21.jpg)
アジサイ園入り口(登城口)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/bd/2d6e15fb180fabf5275c79c11cd7cca5.jpg)
駐車場にある説明板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ee/da4d788201c4e841238dc9885f9250ef.jpg)
護摩堂城主は甘粕景継、御館の乱では景勝方についています。
甘粕景継
慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐に対して守りを固めていたが、「御家中諸氏略系譜」(『上杉家御年譜』)の記述によれば、景勝の命で会津参府中の留守の隙を突かれて、7月24日に伊達政宗によって白石城を奪われた。慶長6年(1601年)の米沢移封後は6600石を知行している。慶長11年(1606年)、桜田御門普請の頭取を務め、将軍家より時服と銀子を賜った。軍記物等では、妻の急死により会津へ戻った留守中に白石城を奪われたとし、そのことで景勝の怒りを買い死罪になりかけたり、以後景勝から冷遇をうけ、直江兼続の一配下に左遷された等の記述があるが、一次史料からは実証できない。
慶長16年(1611年)年5月12日に死去。寛永10年(1633年)に書かれた「甘糟家先祖書」にはゆえあって自害とあり、6600石は取り潰されたとあるが理由は不明。景勝の死後の寛永元年(1624年)、その子供たちは次代藩主の定勝によって200石で上杉家に復帰することを許されたとされる[2]。また、寛永5年12月18日(1629年1月12日)に米沢北山原で家族と共に斬首され、平成19年(2007年)に日本におけるキリスト教殉教者187名中の1人として列福された甘粕右衛門信綱(洗礼名ルイス)は、景継の次男とされる。
軍記物の中には、家康は景継を高く評価し、景勝から冷遇を受け続けていることを知り、2万石を与えて迎え受けようとしたが、景継は「景勝殿の怒りは私の責任であり、いかなる罰を受けてもそれはもっともなことである。それに長きこと上杉家に仕えており、今さら二君にまみえることは出来ない」と述べてこの誘いを断り、これを聞いた家康は「そういう人物だからこそ配下に欲しかった」と悔しがったという話が記載されている。ウィキペディアより
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/1c/1f9c284df8058bf5808bda9f4e0ccf0f.jpg)
こんな遊歩道が続きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/5b/4d53f45a812edafd6982f6e0aa52def5.jpg)
遊歩道の途中、谷砦が出てきます。本丸、二の丸、三の丸と備えた砦です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/5d/ca58e11036220af87a4aa9431eb99607.jpg)
谷砦の東城壁の麓にある縄張り図、薮で写真にはなりませんが、立派な山城です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/17/2566b8a2c4b3aa80a8ed6f5c35e00ae7.jpg)
谷砦縄張り図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/72/d362b3a2175ddea075e04705e99bf56d.jpg)
途中から東のコースにそれて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/18/dd4eca47e7cedcf5046d00fc24dfbe23.jpg)
三角点に向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/38/f3874869883902608ed88f6170c9670a.jpg)
大きな堀切があり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/d3/fef0d4d8893de5b30303f48971741cd2.jpg)
南尾根を歩き進むと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/4c/a1b0434ad9232647a59d7b8e3f60eedb.jpg)
三角点は南の出丸であったのかもしれません。
次回 本丸へ
護摩堂山地図
県道55号線でアジサイ園の案内が出ています。アジサイ園は護摩堂城内にあります。
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アジサイ園入り口(登城口)
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駐車場にある説明板
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護摩堂城主は甘粕景継、御館の乱では景勝方についています。
甘粕景継
慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐に対して守りを固めていたが、「御家中諸氏略系譜」(『上杉家御年譜』)の記述によれば、景勝の命で会津参府中の留守の隙を突かれて、7月24日に伊達政宗によって白石城を奪われた。慶長6年(1601年)の米沢移封後は6600石を知行している。慶長11年(1606年)、桜田御門普請の頭取を務め、将軍家より時服と銀子を賜った。軍記物等では、妻の急死により会津へ戻った留守中に白石城を奪われたとし、そのことで景勝の怒りを買い死罪になりかけたり、以後景勝から冷遇をうけ、直江兼続の一配下に左遷された等の記述があるが、一次史料からは実証できない。
慶長16年(1611年)年5月12日に死去。寛永10年(1633年)に書かれた「甘糟家先祖書」にはゆえあって自害とあり、6600石は取り潰されたとあるが理由は不明。景勝の死後の寛永元年(1624年)、その子供たちは次代藩主の定勝によって200石で上杉家に復帰することを許されたとされる[2]。また、寛永5年12月18日(1629年1月12日)に米沢北山原で家族と共に斬首され、平成19年(2007年)に日本におけるキリスト教殉教者187名中の1人として列福された甘粕右衛門信綱(洗礼名ルイス)は、景継の次男とされる。
軍記物の中には、家康は景継を高く評価し、景勝から冷遇を受け続けていることを知り、2万石を与えて迎え受けようとしたが、景継は「景勝殿の怒りは私の責任であり、いかなる罰を受けてもそれはもっともなことである。それに長きこと上杉家に仕えており、今さら二君にまみえることは出来ない」と述べてこの誘いを断り、これを聞いた家康は「そういう人物だからこそ配下に欲しかった」と悔しがったという話が記載されている。ウィキペディアより
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こんな遊歩道が続きます。
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遊歩道の途中、谷砦が出てきます。本丸、二の丸、三の丸と備えた砦です。
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谷砦の東城壁の麓にある縄張り図、薮で写真にはなりませんが、立派な山城です。
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谷砦縄張り図
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途中から東のコースにそれて
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三角点に向かいます。
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大きな堀切があり
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南尾根を歩き進むと
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三角点は南の出丸であったのかもしれません。
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