山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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杉山城⑤

2019-01-03 21:01:35 | 山城ー武州
本丸へ

井戸廓から通路を歩き

本丸北虎口となります。

北虎口は左上からの横矢掛かりに守られています。

本丸

本丸東虎口、城壁は屏風のように折れを用いています。奥に見える曲輪は南二の郭

東側通路の下は一段低く、平地(根小屋?)が広がっています。

この説明版では築城主は松山城主上田氏の家臣杉山主水との説を上げています。

本丸から東二の郭・東三の郭を見下ろしています。

本丸を北から見ています。

本丸南奥に

井戸郭の虎口があります。

井戸廓を見下ろしています。

本丸の南側に立って、南二の郭を見下せます

南二の郭の東虎口を見下ろせば、外郭との連携、通路を作るための横堀、実に技巧的で感心致します

次回 北二の郭・北三の郭(縄張り図は前回記事)

上杉憲房(杉山城主)の養父上杉顕定②
古河公方との関係と永正の乱
明応3年(1494年)に古河公方と結びついて以来、顕定は東国における公方-管領体制の再構築を図っていた。特に足利政氏とは、礼的な秩序における待遇の向上を実現させ、さらには政氏の弟[7]・義綱を養子として迎え入れて、「顕実」と改称させるなどして密接な関係を築いた。顕実はそれより以前に養子となっていた憲房を差し置き、顕定の正統な家督後継者に据えられたとみられている。後に政氏と子の高氏(高基)が不和となると、顕定はこれを憂えて出家して「可諄」と称し、両者の仲介に立った。
古河公方の内乱を収めた直後の永正6年(1509年)7月、顕定は養子・憲房と共に越後に攻め入り長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国に追放した。この侵攻は一般的に、永正4年(1507年)に顕定の弟で越後守護を務めていた上杉房能が守護代の為景を主力とした上杉定実軍に追われて自刃したことへの報復と捉えられている[8]。
片桐昭彦はこれに加えて越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと推測する[9]。 また、山田邦明は、顕定が房能方であった色部氏と為景の和睦の道を探っていたり、伊達氏に宛てて「定実に対して一切の余儀(=遺恨)は無い」と伝えていることから[10]、永正5年の段階において顕定と為景は決定的な対立関係に無かったとして、直接的な契機を山内家の所領である妻有庄へ為景方の信濃衆が攻め入ったことに求める[11]。
ともあれ、房能の仇討ちを大義名分として越後に攻め入った顕定軍は府内を制圧した。しかし顕定の越後統治は非常に強硬で上手くいかず、国人の反発を受けた。翌年になって長尾為景らの反攻に遭う。同年、足利義稙の命令で信濃国佐久郡の伴野貞慶と大井行満の争いを和解させている。翌永正7年(1510年)6月20日の長森原の戦いで敵の援軍であった高梨政盛に敗北し、衆寡敵せずして自刃、享年57。




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