平賀玄信について(佐久市史より)
『甲陽軍鑑』には「海野口城攻、付、信虎浪々の事」という題で、有名な信玄初陣の話が載せてある。現代文に直すと、「天文五年十一月二十一日、信虎公は甲府を発って信州へ出陣された。信州海ノ口という城を三十四日間包囲して攻めた。城には平賀玄信が加勢に来ており、城之守り難く、その上大雪が降って、その城を落とすことができず、年末になったので十二月二十六日に信虎公は甲府へ引き上げた。信虎の子息晴信はしんがりとなって最後に退去したが、甲府へは行かず夜半急に途中からもとの海ノ口へ引き返した。その軍勢は三百人ばかりで、城を急襲してこれを陥れた。父信虎公が八千の兵で落とすことのできなかった城である。これは晴信(信玄公)十六歳のしかも初陣の御手柄である
『武田三代軍記』によると「城には強豪七十人力と言われた平賀玄信が手勢三千人をもって立て籠もっていた事(前の山城めぐりのブログに海ノ口城を紹介していますが三千人が籠ることは不可能と思われます。)城では甲州勢が引き上げたので、この日多くの家臣は年取りのために家に帰り、城には玄信以下七・八十人の兵がいた事」などと書かれている。戦死した玄信の体は重かったので胴を平沢峠の頂上にうずめたといわれ、今そこに胴塚とよばれる塚がある。(佐久市史には写真が掲載されています。)玄信の首は山梨県北巨摩郡若神子の道端に埋めたと言われている。現在、若神子のの中程に、江戸時代の中期頃に建てた全長60cmほどの小さな墓があり「平鹿城主玄信墓」と刻まれている。そのすぐ左側には普通の墓の大きさで、天保七年(1836)六月二十八日に再建した「平賀入道玄信墓」と書いてある墓がある。なお玄信の妻と子の墓もあるという。戒名は若神子東漸寺と正覚寺、それに佐久市平賀大琳寺にそれぞれ三つの違う戒名がつけられている。大琳寺のものは「玄心院殿雄山道英大居士」である。なお小諸市耳取の玄江院過去帳には大琳寺と同じ戒名があり「平賀城主大井源貞清公、遺骸を満福寺に葬る」とあり、その城主の字を消して横に玄心入道と書き加えてあり、また貞清を消して貞親と書き直してある。勿論大井貞親が平賀玄信であると後世に書き加えてある。大井貞清は当時、内山城主であり、大井貞隆は小県郡長窪の城にいた実在の人物である。(両城とも「山城めぐり」biglobに紹介しています。)なお『寛永諸家系図伝』には玄信として大井貞隆の弟となっている。玄江院には玄信の墓もあるという。(玄信を源心と記述されている個所もありますが、分かりやすく玄信と統一しています。)
『甲陽軍鑑』には「海野口城攻、付、信虎浪々の事」という題で、有名な信玄初陣の話が載せてある。現代文に直すと、「天文五年十一月二十一日、信虎公は甲府を発って信州へ出陣された。信州海ノ口という城を三十四日間包囲して攻めた。城には平賀玄信が加勢に来ており、城之守り難く、その上大雪が降って、その城を落とすことができず、年末になったので十二月二十六日に信虎公は甲府へ引き上げた。信虎の子息晴信はしんがりとなって最後に退去したが、甲府へは行かず夜半急に途中からもとの海ノ口へ引き返した。その軍勢は三百人ばかりで、城を急襲してこれを陥れた。父信虎公が八千の兵で落とすことのできなかった城である。これは晴信(信玄公)十六歳のしかも初陣の御手柄である
『武田三代軍記』によると「城には強豪七十人力と言われた平賀玄信が手勢三千人をもって立て籠もっていた事(前の山城めぐりのブログに海ノ口城を紹介していますが三千人が籠ることは不可能と思われます。)城では甲州勢が引き上げたので、この日多くの家臣は年取りのために家に帰り、城には玄信以下七・八十人の兵がいた事」などと書かれている。戦死した玄信の体は重かったので胴を平沢峠の頂上にうずめたといわれ、今そこに胴塚とよばれる塚がある。(佐久市史には写真が掲載されています。)玄信の首は山梨県北巨摩郡若神子の道端に埋めたと言われている。現在、若神子のの中程に、江戸時代の中期頃に建てた全長60cmほどの小さな墓があり「平鹿城主玄信墓」と刻まれている。そのすぐ左側には普通の墓の大きさで、天保七年(1836)六月二十八日に再建した「平賀入道玄信墓」と書いてある墓がある。なお玄信の妻と子の墓もあるという。戒名は若神子東漸寺と正覚寺、それに佐久市平賀大琳寺にそれぞれ三つの違う戒名がつけられている。大琳寺のものは「玄心院殿雄山道英大居士」である。なお小諸市耳取の玄江院過去帳には大琳寺と同じ戒名があり「平賀城主大井源貞清公、遺骸を満福寺に葬る」とあり、その城主の字を消して横に玄心入道と書き加えてあり、また貞清を消して貞親と書き直してある。勿論大井貞親が平賀玄信であると後世に書き加えてある。大井貞清は当時、内山城主であり、大井貞隆は小県郡長窪の城にいた実在の人物である。(両城とも「山城めぐり」biglobに紹介しています。)なお『寛永諸家系図伝』には玄信として大井貞隆の弟となっている。玄江院には玄信の墓もあるという。(玄信を源心と記述されている個所もありますが、分かりやすく玄信と統一しています。)