北二の郭・北三の郭へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/3d/959c8201e4676656422014315c7a7960.jpg)
本丸北虎口から
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/51/3188f7249400cc0dd50e5395d31e1e1e.jpg)
北の郭へ
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北二の郭、奥に本丸北城壁
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北二の郭の北側虎口
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土塁、左手を進み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/50/54932b9cfc21e828ce3a2e35f60750a7.jpg)
瘤によって、折れを設けています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/43/f41edf359dc3c0641bd96200a931f02e.jpg)
土橋が続き
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/61/2e5673b4ee4cf5f48100e41ecb3741ed.jpg)
北三の郭虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/c8/577010a47c6e295437afcfe0ffd81578.jpg)
虎口を角度を変えて見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/be/e5f71b329c3c105464534f7554783a7d.jpg)
北三の郭
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/0a/09334db86e68287da374daefadb91fd4.jpg)
北三の郭、北虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/f1/a32ca685e555306ec0efaf03afac23ef.jpg)
北三の郭の北側の空堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/ce/4f970182028c9e7616a34eee6dddbc16.jpg)
北二・三の郭位置を確認してください。
次回 東二の郭、東三の郭
杉山城は松山城主の上田氏の家臣上田主水が築いたとの説もあります。
松山城の歴史
戦国時代[編集]
室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国中原の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された。松山城を築城したと考えられる上田氏は当初扇谷上杉氏に部将として属したため、この城は東方の下総国古河に本拠を構える古河公方および北方の上野国から武蔵国中央部への進出を狙う山内上杉氏に対する前線拠点として機能した。
後に北条氏の勢力が相模国から武蔵国に伸張してくると、扇谷上杉氏と山内上杉氏・古河公方の三勢力の間で和睦が成立し、南方より侵攻してくる北条氏に対する拠点となった。天文6年(1537年)には河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらにその余勢を駆った北条勢によって松山城も攻撃を受けたが、城主難波田憲重らの活躍で撃退に成功した(松山城風流合戦)。この結果、松山城は河越城を失った上杉朝定の居城となり、威信をかけた拡張工事が行われた。しかし天文14年(1545年)、河越夜戦での河越城奪還の失敗と朝定および難波田憲重の敗死によって扇谷上杉氏が滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡った。同年に難波田憲重の婿であった上杉方の太田資正が奪回し、同じく縁戚であった上田朝直が城代になるものの、その上田朝直が北条氏に寝返ったため再び北条方の城になった。なお、大田資正は北条方との戦いで実子を失っていた難波田憲重の婿養子として松山城主の地位を継承していたとする説があり、その後実家の太田氏の家督を継いで岩槻城に帰還したものの、引き続き松山城の城主としての立場を主張することになったとされている[1]。
永禄4年(1561年)、上杉謙信が奪取して岩槻城主の太田資正を城代にする。しかし、永禄6年(1563年)に北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、北条氏のもとに戻った。この合戦の影響が房総にも飛び火して第二次国府台合戦へと発展した。この合戦以後松山城は一時北条氏の直轄となったものの、元亀年間以後は一貫して北条氏家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、同氏は松山領と呼ばれる比企地方一帯を支配下に置いた。 ウィキペディアより
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本丸北虎口から
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北の郭へ
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北二の郭、奥に本丸北城壁
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北二の郭の北側虎口
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土塁、左手を進み
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瘤によって、折れを設けています。
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土橋が続き
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北三の郭虎口
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虎口を角度を変えて見ています。
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北三の郭
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北三の郭、北虎口
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北三の郭の北側の空堀
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北二・三の郭位置を確認してください。
次回 東二の郭、東三の郭
杉山城は松山城主の上田氏の家臣上田主水が築いたとの説もあります。
松山城の歴史
戦国時代[編集]
室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国中原の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された。松山城を築城したと考えられる上田氏は当初扇谷上杉氏に部将として属したため、この城は東方の下総国古河に本拠を構える古河公方および北方の上野国から武蔵国中央部への進出を狙う山内上杉氏に対する前線拠点として機能した。
後に北条氏の勢力が相模国から武蔵国に伸張してくると、扇谷上杉氏と山内上杉氏・古河公方の三勢力の間で和睦が成立し、南方より侵攻してくる北条氏に対する拠点となった。天文6年(1537年)には河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらにその余勢を駆った北条勢によって松山城も攻撃を受けたが、城主難波田憲重らの活躍で撃退に成功した(松山城風流合戦)。この結果、松山城は河越城を失った上杉朝定の居城となり、威信をかけた拡張工事が行われた。しかし天文14年(1545年)、河越夜戦での河越城奪還の失敗と朝定および難波田憲重の敗死によって扇谷上杉氏が滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡った。同年に難波田憲重の婿であった上杉方の太田資正が奪回し、同じく縁戚であった上田朝直が城代になるものの、その上田朝直が北条氏に寝返ったため再び北条方の城になった。なお、大田資正は北条方との戦いで実子を失っていた難波田憲重の婿養子として松山城主の地位を継承していたとする説があり、その後実家の太田氏の家督を継いで岩槻城に帰還したものの、引き続き松山城の城主としての立場を主張することになったとされている[1]。
永禄4年(1561年)、上杉謙信が奪取して岩槻城主の太田資正を城代にする。しかし、永禄6年(1563年)に北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、北条氏のもとに戻った。この合戦の影響が房総にも飛び火して第二次国府台合戦へと発展した。この合戦以後松山城は一時北条氏の直轄となったものの、元亀年間以後は一貫して北条氏家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、同氏は松山領と呼ばれる比企地方一帯を支配下に置いた。 ウィキペディアより