山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

杉山城④

2019-01-02 20:46:29 | 山城ー武州
南二の郭から井戸廓へ


南二の郭

南二の郭の西側を進むと

井戸廓南虎口

井戸廓の南側空堀

井戸廓の北側空堀





井戸廓の南虎口(土橋)から南二の郭を見ています。

井戸廓の北側堀越しに南二の郭を見ています。空堀をこれほど駆使し巧みに郭を守っている縄張りは武州では稀な丘城です。

井戸廓から西に空堀を下ると

西下の横堀へと降りてきます。

横堀を北に歩いてゆくと本丸西虎口へと通じています。

井戸廓を確認してください。

次回 本丸へ

杉山城を築城した(古河公方、足利髙基の古文書)上杉憲房
応仁元年(1467年)、上杉憲実の子で僧籍にあった周清の子として誕生。又従兄弟にあたる関東管領・上杉顕定の養子となるが、

養父上杉顕定
生涯①
山内上杉家の家督相続[編集]
享徳3年(1454年)、上杉房定の子として誕生。寛正7年(1466年)2月、関東管領・上杉房顕が武蔵国五十子陣にて陣没したが男子がいなかった。家宰・長尾景信は長尾景仲の遺言であるとして房顕の従兄弟で上杉一族の重鎮である越後国守護・上杉房定の子に房顕の跡を継がせようとしたが、房定はこれを拒否した。このため同年10月には室町幕府8代将軍・足利義政からも改めて房定の子を後継とするよう命じられ、房定の次男である龍若(顕定)が山内上杉家の家督を継いで当主となった[4]。
享徳・長享の争乱[編集]
時は享徳の乱の最中であり、古河公方・足利成氏と関東の覇権をかけて五十子の戦いなどで争い、文明3年(1471年)には古河御所を占領してこれに勝利している。しかし文明8年(1476年)に有力家臣の長尾景春が古河公方と結んで離反したため苦境に陥り(長尾景春の乱)、翌文明9年(1477年)正月には五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。この乱の背景には顕定の入嗣前に既に顕在化していた上杉氏体制内部の矛盾、即ち権力闘争があったとされる。
更にこの乱に乗じて攻め入った成氏軍に上野国白井付近まで追い詰められた顕定と扇谷上杉家の上杉定正は、文明10年(1478年)正月に幕府と成氏の和睦を取り持つことを条件に古河公方と和睦した。その後、景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されたが、道灌の活躍を通じて扇谷上杉家が台頭するようになった。
文明14年(1482年)に顕定の父・房定の仲介で幕府と古河公方の和睦が成立し30年に及んだ享徳の乱は終結したが、顕定は定正と対立し、定正が道灌を暗殺したのを契機に長享元年(1487年)に長享の乱が起こる。長享2年(1488年)に両者の抗争は本格化し、「関東三戦」といわれる実蒔原・須賀谷・高見原の合戦で顕定は定正に押されるが、関東管領の山内家とその分家的存在の扇谷家とでは実力が隔絶しており、抗争が長期化するにつれて顕定が次第に有利に立つようになった。
明応2年(1493年)、もとは山内家の領国で堀越公方に譲られていた伊豆国へ伊勢宗瑞が討ち入るという事件が起こった。明応3年(1494年)に両上杉氏の抗争が再発すると、定正は伊勢宗瑞の軍を相模国・武蔵へ招き入れたが、荒川を挟んで対陣していたところで定正が急死したため伊勢軍は撤退した。長享の乱初期に扇谷家を支援していた古河公方もこの頃には一転して山内家方となっていた。
明応5年(1496年)には顕定の軍勢は相模に攻め入り、7月に宗瑞の弟・伊勢弥二郎の立て籠もる小田原城を自落させた。この戦いで相模の西郡は「一変」したという。その後、東郡へ軍勢を進め上田氏の実田要害を囲み、更に定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて河越に軍を進めた。明応6年(1497年)に顕定は河越城に対する前線基地として武蔵上戸[5]に陣を置き古河公方・足利政氏を招いた。政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還するが、上戸陣はその後も7年にわたり山内家の陣所として機能した。
永正元年(1504年)に駿河国守護・今川氏親と伊勢宗瑞の援軍を再びえた上杉朝良と戦うが(立河原の戦い)、2,000人余りの死者を出して大敗する[6]。しかし実家の越後上杉家の援軍を受けて反撃に及び、翌年には朝良を河越城に攻めて降伏させ、朝良の江戸隠居を条件に和睦した。長享の乱における事実上の勝利宣言といえる。ウィキペディアより



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。