山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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上南摩上の城

2018-01-19 09:53:58 | 山城ー野州
上南摩上の城(下の城と混同しないように)は栃木県鹿沼市上南摩町にあります。

上南摩上の城地図

鹿沼市上南摩町にはいり、県道177号線で北西に進み上南摩小の道の反対側に広厳寺があります。

広厳寺

中央奥の山が城山です。

寺の西から登り道があります。(登り道は他にあるかもしれません。)

尾根に出て、奥に

古墳かもしれませんが、物見に使われていた可能性もあります。

古墳から北尾根に変わり、延々と北尾根を登ります。300mくらいはあるかもしれません。尾根に着くと堀切が現れます。
薮の曲輪1を東に(ここが肝心です。西尾根に歩けば見つけられません。)進めば第二堀切

第二曲輪

第三堀切

第三曲輪、ここで尾根が下りますが、おっちょこちょいの方は引き返してしまうかもしれません。

第四堀切

ものすごい城壁が見えてきました。

圧倒される鉄壁です。余湖さんの見解では「南摩氏が下の城では戦況が激しくなる中で、守りに不十分なことから、この上の城を築いたのではないか。」と推測されていますが、納得できるほどの要害です。 これ以降は次回に

宇都宮忠綱②
家督相続
当時の芳賀氏の権力は当主である成綱とほぼ同等であったため、宇都宮氏当主の立場は危うい状態だった。その後、父・成綱と高勝の対立が表面化。永正8年頃(1511年)父・宇都宮成綱と芳賀高勝の争いが激化し、武力衝突にまで発展するが、高勝の謀略によって父・宇都宮成綱は強引に隠居させられた。同時に、芳賀高勝によって忠綱が擁立され、遅くとも永正9年(1512年)には、宇都宮氏第18代当主となった。しかし、隠居後も父・宇都宮成綱が実質的な当主であり、実権を握っていた[4]。また、父・成綱はこの間に弟 (忠綱にとっては叔父)の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせており、また、同じく父・成綱の弟 (忠綱にとっては叔父)の兼綱も武茂氏の家督を継承している。
この成綱の隠居と芳賀高勝による忠綱擁立の真相は、実は父・成綱による家中の完全掌握を狙った謀略の1つであった。weblio辞書より




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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (鈴木<佐貫卓球ルーム>)
2018-01-19 18:47:48
こんばんわ~
ブログ拝見してます
私は戦国武将に興味があります
又城なども大好きです
返信する
はじめまして (富岡武蔵)
2018-01-21 22:50:18
鈴木さん、はじめまして。
私は群馬・長野・栃木・新潟・山梨を中心に城めぐりしております。群馬は長野業政、長野・山梨で武田信玄、新潟は上杉謙信、栃木は宇都宮氏ですかね。
 これらの武将に関係した山城を、特に興味を持って山登りをしています。戦国大名の狭間で、選択を誤れば滅亡の憂き目を味わう、地方豪族の山城も縄張りから、いろいろと考えさせられます。
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