山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

雨乞山城

2017-09-26 10:57:25 | 山城ー野州
雨乞山城は多気山城より北3kmほど、宇都宮市新里町にあります。おそらく多気山城の支城ではないかと推測しています。史料では何も残されていません。

雨乞山城地図

新里町にあるライフル射撃場の手前900mの町道を右折し北に見える山が城山です。


新里町茗荷沢という集落の北にある目立つ山ですからすぐにわかります。

登り口は城山の南を平行に走る町道にある、墓地横手からの登る道があります。道は途中で薮となり、左手の杉林を登ってゆきます。

山に入って20分で、この大岩を抜けてゆきます。ここは虎口であったようです。

第一堀切10

第二堀切9

第三堀切、堀切間は曲輪がありますが、写真になりませんので割愛しています。

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より

余湖さんの縄張り図で曲輪5に位置しています。

堀切8

曲輪4の北側

次回 曲輪3から本丸へ

9月27・28・29日と名古屋に出かけてきますので、しばしお休みです

雨乞山城は宇都宮氏の支配地域として
南北朝時代
鎌倉時代末期に河内国で楠木正成らが挙兵すると、第9代宇都宮公綱は討伐軍に参加し、正成から公綱を「坂東一の弓取り」、紀清両党を「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と宇都宮氏の武勇を高く評された。幕府滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政がはじまると雑訴決断所を務める。足利尊氏が鎌倉で新政から離反した後も公綱は南朝方として動いたが、子の10代宇都宮氏綱は足利氏に属した。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏方に就いた氏綱が武功を上げ、尊氏の意向で上野・越後国守護職を務め、北関東及び関東全体での支配的地位を磐石なものとした(薩埵山体制)。ところが、尊氏が死ぬと鎌倉公方であった足利基氏(尊氏の子)は自分の腹心でありながら観応の擾乱では尊氏と敵対した前上野・越後守護職上杉憲顕を強引に関東管領に復帰させた上に、上杉憲顕が上野・越後守護職を氏綱から強引に返還させようとして氏綱がこれを拒むと、基氏は関東管領への反抗を理由に氏綱を追討した。その後、下野守護職の小山義政に氏綱の子11代宇都宮基綱が殺害されると鎌倉公方は宇都宮氏を支援した(小山氏の乱)。庶流から宇都宮氏に入った13代宇都宮持綱が上総国守護職に任じられると、一転して鎌倉公方の警戒を受けて討伐を受けた。こうした鎌倉公方の方針に不満を抱いた宇都宮氏は室町幕府直属の京都扶持衆に加わって鎌倉公方に対して抵抗を続けながら勢力挽回を図った。
なお、宇都宮氏綱・基綱親子が下野国守護に補任されたという説があり、これを支持する新川武紀・磯貝富士男とこれを批判して小山氏の世襲が継続されたとする松本一夫・江田郁夫の論争がある。この論争を抜きとしても小山持政が没して小山氏が衰退した15世紀後半の宇都宮正綱・成綱の時代には宇都宮氏は下野国守護職の地位を獲得したとされている。ウィキペディアより





最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (麓の住人)
2018-11-28 06:48:12
たまたま見つけましたのでコメントさせていただきます
麓に住む者ですが城なんでしょうか?
祖父から砦があったと言う話は聞かされていましたが...
自体の裏山にそんな大層なものあったのかなぁ...
返信する
雨乞山城 (富岡武蔵)
2018-11-28 20:58:18
堀切、曲輪と写真では薮があって、判然としないものもありますが、歩いて見れば余湖さんの縄張り図のとうりに存在しています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。