これらは、氏の作画全体において目立った要素を思いつくまま列挙したもので、作家の個人様式とは異なる。
作家の個人様式は、同種の作品にあっても、その制作年代によって当然変化するが、安野の場合、それ以上に作品である絵本の内容、性格、対象年齢などによっても、かなり激しく変動するので、実際上、氏の個人様式の展開を把握するのは、容易なことではない。
安野が絵本のために制作する絵(原画)は、個々の作品(絵本)の内容、および作品のジャンル(絵本、画文集、風景画文集、装丁・挿画・カット、ポスター、イラストレーション)などにより、同時期の作品においても、異なって現れてくる場合が多い。
作者は、想定される読者の対象年齢や筋書きの内容などに応じて様々な要素から主要なものを直観的に選んだり、幾つかの要素を作家としての本能に従いながら複合させ、描いていくのだろう。
しかし、シリーズ作品などにおいて、すでに先行する作画スタイルのあるものは、そのスタイルを踏襲することも多い。
例えば『旅の絵本』シリーズは、基本的に同じ作画スタイルと構成で描かれており、童画的・イラスト的・淡彩スケッチ的・引用的・あそび絵的などの要素が総合された安野様式となっている。
『ABCの絵本』や『あいうえおの絵本』には細密画的な要素が主要なものとなり、童画的・イラスト的な要素が若干加わる。また、しばしば安野作品に見られる装飾的なスタイルが各ページを縁取っている。木製文字には、トリック・アート的な要素も見られる。
<風景画文集>のスタイルは、その実景を描く性格からして、専ら生真面目な淡彩スケッチ的要素が単発的に前面に出たものとなる。水彩によるいわゆる「淡い色調」の安野様式の典型は、このジャンルにおいて見られる。
しかし、一方で様々な深読みができる筋書きや内容をもちながらも、他方で読者の対象年齢が非常に異なって想定されることもある<絵本>や<画文集>においては、個々の作品に応じて、強調される作画スタイルの要素も当然異なってくる。
時には、漫画的なキャラクターを取り入れて作画しているものもある。また、『繪本シェイクスピア劇場』(松岡和子・文)などの作品を見ると、透明水彩的な効果ばかりでなく、グワッシュ(不透明水彩)、またはそれ以上の厚塗り的な技法も一部の原画や原画の一部分に駆使されている。
<絵本>、<画文集>、<風景画文集>の仕事は、当然、絵によって表現されたものが不可欠であり、絵がなければ、これらのジャンルは成立しない。
しかし、その絵は、言葉を伴って、もしくは全く伴わないか、極端に制限されて、「本」という形態で多くの人々の目に触れるようになった。
つまり、これらは、「作品」が、まず何よりも複製出版物の「本」なのである。
<絵本>、<画文集>、<風景画文集>などにおける「絵」の部分は、「原画」として、近年、美術館などにおいて、多くの人々の前にその姿を見せるようになった。
その中には『繪本平家物語』のように、大和絵的な「原画」部分において、絹本彩色の技法で挑戦したものもある。こうして、ようやく画家・安野光雅が前面に登場してきた。
安野作品における<絵本>、<画文集>、<風景画文集>、これらは順次、「絵」と「文」とが次第に一体的なものからそれぞれが独立的な傾向を帯びてくるものとしても捉えることができる。
このうち<絵本>は、「絵」と「文」とがもとより分かちがたく一体化したものであると考えられる。これは、「挿し絵」入りの本とは明らかに違う。「挿し絵」入りの本は、その「挿し絵」を取り除いても、作品として成り立ちうる場合が多いが、<絵本>は、複製された「絵」ではあるけれども、それがなければ「作品」としては成立しない。
従って<絵本>の中の「絵」または「文」だけを独立して取出し、鑑賞するのは、必ずしも望ましいことではない。特に多くの安野作品のように「絵」と「文」の作者が同一の場合は、「絵」と「文」とはいっそう密接したものと考えられる。
<絵本>における「絵」と「文」との切り離しが許されるのは、すでに<絵本>に親しんでいる読者が、「原画」の鑑賞者として想定される場合であろう。
しかしながら、安野作品の<画文集>や<風景画文集>では、当初「本」という形式で発表されたものであっても、「絵」の部分が、もとより、その「エッセー」部分から独立的に、もしくは実際上独立して制作されたものも多くあると思われるから、そうしたものは、単独の絵画作品として鑑賞することも許される。「エッセー」部分の方も同様である。