美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

安野光雅の世界(1)

2016-01-02 19:37:13 | 日本美術
安野光雅は、大正15年(1926)3月20日、森鴎外や西周(にし・あまね)と同郷の島根県津和野町に生まれた。大正15年は、昭和元年であるから、氏の歩みは、まさに昭和史に重なっている。

大正終わりから昭和初年ごろに生まれた世代の人たちは、太平洋戦争が終わった年、20歳前後であった。

最も多感な青春時代を戦時体制と戦後の混乱の中で過ごした世代である。戦後の混乱した状況の中にあって、とにかく、どんなことをしても生きていかねばないという思いの人たちが多かったに違いない。

「もう戦争は懲り懲りだ」、「空襲警報のあのサイレンは二度と聞きたくはない」という話も、私自身、父母の世代の人たちから何度も聞かされている。

太平洋戦争の末期、19歳の時、安野も兵隊にとられた。
昭和20年、終戦の3ヶ月前に陸軍船舶兵として香川県の王越村に赴いた。

「任務は、上陸用舟艇を操って、『瀬戸内の島陰に出没し、本土決戦に備えよ』ということらしい。…私たち兵隊は、舟艇秘匿場といって、船を飛行機から見えなくするために、岩穴を掘る重労働が仕事だった。…兵隊は毎日、綿のように疲れ、消灯ラッパを待ちかねて日をくらした。」(『繪本平家物語』から「『平家物語』とわたし あとがきにかえて」)

この年の9月、安野青年は両親の疎開先である徳山の里に復員した。

「徳山は焼けてしまっていた。途中広島も列車の窓から見た。日本全土が焦土だった。なんという無常であろう。明日からどうして生きていけばよいかわからない。こんどこそ絵描きへの道をたどれるかもしれないと、かすかな夢を描きはしたが、まったくそのあてはなかった。」(前掲書)

安野光雅の生家は宿屋で、幼い頃から、客が置いていく雑誌の表紙や挿絵などを眺めて楽しんでいた。
津和野小学校2年、4年、5年生の時の担任が藤本一十(かずと)という先生で、この担任の影響が、氏が絵を志す一因になったという。

13歳の時(昭和14年)、安野少年は津和野を離れ、宇部の高等小学校に転校、ここでは、波多野綱好という先生に絵を見てもらっている。

翌年、宇部工業学校採鉱科入学したが、14歳のこの頃はすでに「勉強よりも絵を描いて暮らす」という日々をおくっていたらしい。

昭和17年、16歳の時、初めて倉敷の大原美術館に行き、本格的な美術作品に接した。

大原美術館には、戦後、昭和22年にも2度目の訪問をしており、「ホドラー、オットマン、マチス、セガンチーニ、ゴッホ、モロー、グレコ、ゴーギャン、ルオー」などを震えるような思いで眺めた。

「なにしろあの空間は、わたしが祈りを捧げた神殿だったのだ。」(『安野光雅の世界1974-2001』)
 
氏が名を挙げている画家のうち、オットマンは、今はあまり知られていないが、横座りをした女性の裸体画が大原美術館にあった。女性の裸体画であったためかどうか、彼のこの作品は大正時代から昭和戦前期には結構知られていたようである。

復員してまもなく安野は、徳山市の土木課で測量などのアルバイトをしたり、同市の小学校で代用教員などを務めたりしていたが、昭和23年、教職課程の単位を取るために山口師範学校の研究科に入学した。
ここで氏が「人生の師」と仰ぐ東京美術学校師範科出身の勝見謙信に出会っている。

その勝見の義兄に当たるのが安野の年譜に出てくる杉山司七で、若い安野が初めて上京した時、勝見の世話で宿を貸してくれた人物だった。その時、杉山自身も玉川学園の通信教育学部長として単身赴任して間もなかった。その杉山の部屋には小川芋銭の小品の軸物がかかっていたという。

安野が上京したのは、昭和24年で、玉川学園の創始者小原国芳の講演を聴講したのが機縁であった。その時思いがけなくも、小原に乞われてこの学園の美術教師となるため、本気で上京したものであった。

しかし、それはのちに回想しているように、実は「偶発的な事故」のようなものであり、「ピエロのように、わたしは東京へ出ていったのだった。」(『絵のまよい道』)
そうではあったが、ともかく小原国芳の「『また、やったか』の恩恵」により、上京して玉川学園の教師になった。

しかし、ここは1年で辞することになる。この上京は、「偶発的な事故」のようなものだったのかもしれないが、氏が上京し、以後の生活圏が東京になったことの意義は大きかった。


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