美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

彝の「裸体」とレンブラント

2015-07-06 13:41:57 | 中村彝
 中村彝がルノワールを称えていたのは間違いのない事実だが、茨城県近代美術館の「裸体」におけるうつむいたモデルの表情を見ていると、私は本質的に愉快な、生の歓びであるルノワールの芸術に登場する多くのどの女性よりも、全く別なもう一人の、絵画史上に登場する女性を思い出す。

 すなわち、ヘンドリッキェ・ストッフェルスである。レンブラントの家政婦であり、内縁の妻であり、その芸術のモデルも務めた女性である。例えばルーヴル美術館にある有名な「ダヴィデ王の手紙を持つ水浴のバテシバ」に登場するこのモデル。

 この作品、「バテシバ」の意味内容については、ここで詳しく紹介するまでもないだろう。
 たとえ、仮にその意味内容を知らなくとも、人はこの作品から直観的にある種の<悲哀>の感情を読み取ることができるのだと思う。

 彝は外国に渡航はできなかった。どんなに憧れていても。

 また、彼がどんなに称賛しようと、さらに、どんなに有名な作品でも、レンブラントの肉筆の油彩画に接することはできなかった。
 
 だから、このルーヴルの「バテシバ」も図版でしか見られなかったわけである。
 だが、それだけに一層、想像力によって、あくまでも自分のものとしたレンブラント芸術が、内面に強く形成されたとも言える。また、彼の画像記憶に残っていたとも言える。
 
 ちなみに彼は、ストッフェルスの名を書簡のどこかで語っていたはずだ。

 彼が、「レンブラントのほとんどの作品を網羅した」と思われる「赤い本」を購入し、それが手垢で真っ黒になるほど眺めていたことは、よく知られている事実である。

 その「赤い本」とは、おそらく荻原守衛がオランダから買ってきた本と同じものだと私は見ている。それは、今も碌山美術館に保管されており、私は、かつて、それを同館の千田学芸員(当時)から見せて頂いたことがある。

 彝は、中原悌二郎と一緒に、碌山のところに何度か行ったが、その時、守衛がオランダに行った記念として買い求めてきたこの画集を見せてもらったことだろう。
 だから彝は、守衛が持っていたこの本を事前に知っていて、それが欲しくてたまらなかったのだろうと思う。

 とすれば、この「赤い本」とは、レンブラントのカタログ・レゾネであるヴァレンティナー本のことである。
 こうした専門的な本を、手垢で真っ黒になるほど眺めていたのだから、有名な「バテシバ」の画像も彼の脳裏に浸み込んでいたはずだ。(彝が持っていたレンブラント画集であるこの赤い本は、今は所在不明。そのうち、どこかの古書店あたりから出て来ないかと、楽しみに待っている。)

 推論を重ねることになるかもしれないが、彝の「裸体」は、レンブラントのストッフェルスのイメージ、特にルーヴルの「バテシバ」のイメージが、外見上も緩やかに鏡像関係で対応しているように見えるかも知れない。

 ルノワール芸術における本質的に愉快なものは、いかに彝がルノワール芸術を強烈に称賛していようとも、この「裸体」には実際、求めがたい。
 
 もちろん、そこには豊満な女性に対する賛美やそのフォルム、色調に対する研究的な態度は認められるだろう。だが、そのような研究的な態度そのものが、もはやルノワールの芸術とはかけ離れているのである。(ルノワールも一時期、イタリアの古典絵画を<研究>したけれど。)
 
 彝のその後の芸術には、小さな花の静物画などルノワール風の流麗な筆触で描いた作品があり、ルノワールを記憶模写で描いた小品2点もある。さらにルノワールの模写かと見紛うような裸体群像の構想画もあるけれども、そこに本質的に愉快な、生の歓びが開花しているようにはあまり見えないのである。

 それに対して、レンブラントの芸術の本質は、彝の芸術と、その内面において絶えず共鳴しあうものがあったはずである。「エロシェンコ」にしても、しかりだ。実際、盲目の人間を描くというモティーフにしても、もはやそれだけでレンブラント的なものを連想させる。

 バロック的な明暗法による彝の自画像に見られるレンブラント的な技法は、初期の作品のみに見られ、その後、完全に払拭されたが、「裸体」にあるのは、そうした技法や様式を越えた、<人生>に対するなにがしかの感情の表現ではなかろうか。

 お島の豊満な肉体は、レンブラントの描いたこのヘンドリッキェ・ストッフェルスのそうした肉体とは明らかに違う。違うけれども、いいささか<人生>を感じさせるその表情は、レンブラントのストッフェルスが演じるバテシバが、その場面の瞬間に自己の宿命を悟ったかのような<悲哀>の「気分」と重なるのである。

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