美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

こんな本を読んだ 松原隆彦著『宇宙に外側はあるか』

2015-07-19 16:36:34 | 個人的なメモ

「私たちは現在という時間にだけ生きています。」

こどものころ、無限に広がる夜空の星々が煌めく宇宙空間を眺めて、どうしてこの広大な宇宙空間というものがあるのだろう?また、時間というものが流れている(悠久に続いている)のだろう?そんなことを思ったことがないだろうか?

この本は、そうした一見素朴な、しかし非常に根本的な問いに、科学者の立場から、ある程度満足できる答え(私はけっこう満足した)をわれわれにとても分かりやすい言葉で語ってくれる。

宇宙は永遠不変なるものというニュートン以来のイメージは、われわれがだれでも素朴に抱いてきたイメージとさほど異ならないが、それが実は違っており、宇宙は、約137億年前、<ビッグ・バン>によって始まった、ということは誰でも聞いたことがあろう。だが私はよくわかっていなかった。でも、この本を読んだことで少しは理解が進んだような気がした。

以前の私は、そうか、宇宙は<ビッグ・バン>から始まったのか、でも、宇宙に始まりがあるなら、それが始まる前の宇宙はどうなっていたのかと、またもや「その前」が気になり、同じ問いを繰り返していたのであった。

が、宇宙の始まりがあるということは、その前には空間も時間もない。だから考えなくていい、考えようがない、自分ではそう理解して、この問題をしばらく封印してみようかという気になった。

「時空間すらない状態を想像するのは困難ですが、とりあえずそれは「無」と名付けられました。
この「無」には時間すらないので、順序の前後関係というものがありません。こうなると、この「無」というものがなぜ始まったかという問いには意味がなくなります。なぜなら、始まりというのは時間があってこその概念なので、「無」には縁のないことだからです。」


何だか『老子』に似ている。・・・

「時間というものを直接見ることはできません。2つ以上の物体の動きを照らし合わせるとき、その順序関係を表すために考えられたものが時間です。・・・物体などの何もない中で、時間だけを観測することはできません。・・・空間も、それ自体を直接見ることはできません。2つ以上の物体がなければ、その間にある空間の存在をうかがい知ることはできません。」

しかし、問題はそれほど単純ではなかったようである・・・

「ものが確固としてそこに存在しているという考え方は、量子論によって覆されてしまいました。・・・小さな世界では、観測が行われるまで物体の(位置などの固有の)性質は決まりません。・・・ある粒子の位置を測定してある場所に見つかったとします。・・・しかし、・・・測定する直前には、その粒子はあらゆる位置に同時に存在していたと、考えなければ矛盾することが知られています。、・・・このことは、測定する直前まで私たちが粒子の位置を知らないというだけのことではありません。測定を行う前の粒子は、決まった位置という属性を本質的に持っていない、ということです。観測者が測定して初めて、決まった位置という量が現れ出ます。」

さて、現代美術家は、ことのほか、<時間・空間・存在・無・記憶>etc.etc.などの言葉が、相変わらず、お好きなようだが、このような本を読むと、なお、想像力が刺激されてよいかもしれない、と思った次第。

これも子供のころから不思議だなと思っていたことだが、「万有引力」、これも、ただ事実としてあるというのでなく、時空間のゆがみとして捉えられるらしい、こうしたことも教えてくれる。・・・これは、難解な、「一般相対性理論」がらみですよ。

※「特殊相対性理論」という言葉の方が、難しく響いていたが、そうじゃなかったんだ。まず、科学の世界では、<特殊>な方を解決してから、より普遍性の高い<一般>の方に行ったというわけ。それが、アインシュタイン博士がたどった道。考えてみれば、道理かも。

われわれは先に<一般>を言ったりして、次に例外的なものとして<特殊>の方に行くので、勝手に誤解してた。







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