美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

ChinchikoPapaさんのブログ「落合道人」

2015-07-08 21:36:41 | 中村彝
Papaさんのブログ読む。彝と小鳥をテーマに書いたもの。
Papaさんのブログにはいつも感心する。感謝のコメントをした。

病が昂進し、俊子との関係ももはや絶望的になったことを思うと、小鳥のモティーフは、彝の作品の中でも何かしら「よかったな」というような明るさを感じさせ、心温まる。

印象派的な陽光の中に描かれた鳥かごのモティーフ。これは見る人にも何かほっとするような温かなものを伝える。

別の作品だが、白黒図版で見ると、一見、どろどろした抽象画のような作品に、鳥籠が描かれていたのに初めて気づいたとき、そこに何か「こころ」のようなものが現れたような気がしたことがあった。

彝には、他に「KODORI NO FUKKATU」というペン画がある。彝は水戸の方言が抜けなかったようだ。小鳥をコドリと書いている。

ほとんどの人がまだ気づいていないが、「目白の冬」の木にとまっているように見えるつがいの小鳥、これもブログを通してみんなに伝えてくれると嬉しい。

晴れた日に、このような、つがいの小鳥を見て、彝は何を思ったのだろう。

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中村彝のルノワール記憶模写

2015-07-08 13:16:44 | 中村彝
 中村彝は記憶によって2点のルノワール作品を模写した。
 いずれも小さな作品だが現存する。
 それらは一般にそれぞれルノワールの「泉」、「風景」と呼ばれている。いずれも大正9年(1920)の模写である。

 そこで最も詳細に記述されていると思われる彝の年譜を見てみる。
 すると、こんな記述がある。

8月19日、今村邸にルノワールの「泉」「風景」を見に出かけ、深い感銘を受け、画室に帰ってから記憶により模写する。

 しかし、上記の記述は曖昧で、問題点を含んでいる。
 この記述だけを読むと、彝の作品について何も知らない人は、こう思うだろう。

(A)今村邸にはルノワールの作品が2点あったんだな。
(B)そして、彼は画室に帰ってから、そのうちのどちらか、もしくは両方を模写したのだな。

 記述が曖昧なので、1点だけ模写したのか、1点だけならそのうちどちらを模写したのか、それとも2点とも記憶で模写したのか分からないのである。
 (このような文は名詞や代名詞に複数形のある外国語に翻訳するとき困ってしまうだろう。)

 しかし、彝の模写が2点あり、そのタイトルが「泉」「風景」であると知っている人は、この年譜から、彝は今村邸にあった2点のルノワールを2点とも模写したと判断してしまうだろう。当然のことだ。

 だが、これは、間違いだ。
 どこが間違っているのか?

 実は、調べてみると、当時、今村邸に2点のルノワールがあったことは検証できないのである。1点は確かにあった。その他の外国作家の絵画も何点もあった。

 もちろん、検証できないことは、もう1点のルノワールがなかったということを証明するものではない。

 だが、さらに調べていくと、ルノワールの「泉」と称されていた彝の模写の対象は、当時「裸」と呼ばれていた別の所有者のルノワールの作品であることがわかった。
 それは現在ブリヂストン美術館の所蔵品となっている。その元の所有者は、今村氏ではなく岸本氏である。

 そしてこの岸本氏のルノワールは、大正9年9月1日、彝が院展の特別陳列のルノワール(複数)を見に行ったときに、ロダン(複数)の作品とともに、大いに感動したルノワールの1点なのである。

 以上の事実から、導き出されることは、1つしかない。

(A)今村邸にあったルノワールは「風景」1点のみである。
(B)今村邸から帰って、記憶から模写したルノワールは「風景」1点のみである。
(C)ルノワールの「泉」なる作品は、当時、岸本蔵の「裸」と称されていたルノワールの作品であり、彝はこれを院展の特別陳列から帰って記憶により模写した。

 私はこの事実を遅くとも1985年には「中村彝とルノワール」という論文で明らかにしているし、その後も、折に触れてこの事実を指摘してきたが、いっこうに改まらない。その際、どうして「泉」というタイトルに変貌していったかも触れた。

 なぜ、こういう重要だが、単純な事実が改まらないのだろう。研究紀要を、誰もあまり真剣に読んでいないのだろうか。
 
 彝の地元の茨城県近代美術館においてはもう改めてくれたのだろうか。その他の美術館ではどうだろう。気づかないで他の人が作った年譜を書き写しているのだろうか。

 展覧会があるたびに、過去の年譜を検証せず、多くが同源の年譜を書き写しているとすれば、悲しいことだ。何のために学芸員は新しいことを研究をしているのだろう。

 上記に関係する事項について言うと、昭和48年(1973)の「中村彝展」の年譜(匠秀夫編)には、既にこうあった。

大正9年8月、今村邸にルノワールの<泉><風景>を見にゆき、感動する。アトリエに帰って記憶によってその模写をする。
9月1日、第7回院展の西洋絵画特陳を見にゆき、ルノワールの小品裸婦に深く感動する。


この記述が、ずっと引き継がれて来たのだろうか。それとも、さらに前からそのように書いてある年譜があったのかどうか。
いずれにせよ、そろそろ改められてもいいはずだ。





 

 








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