八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「イエス・キリストの名によって」 2023年6月18日の礼拝

2023年07月10日 | 2023年度
申命記8章11~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
  もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。


使徒言行録4章5~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、
 『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
 隅の親石となった石』
です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」




  エルサレムの神殿の境内で福音を宣べ伝えていたペトロとヨハネが捕らえられ、翌日、大祭司をはじめとするユダヤの有力者たちから尋問されました。
  事の始まりはペトロとヨハネが祈るために神殿に行った時、足の不自由な人を癒すという奇跡を行ったことでした。それを見ていた人々が驚き、さらに多くの人々が集まってきたので、ペトロたちは主イエスの十字架と復活の出来事を語り、この方こそキリストであると訴えたのです。それを聞いて信じた人々は五千人もの数にのぼりました。
  最初百二十人だった弟子たち(1:15)は、三千人(2:41)となり、ついに五千人という異常ともいえるほどの増え方をしました。使徒言行録は弟子たちの数を記すことにより、キリストを信じる人々が急速に増えていった様子を伝えています。
  エルサレムの神殿がいくら広いとは言え、五千人以上もの人々が集まり、ペトロの言葉に耳を傾けていると知ったユダヤの有力者たちが驚き慌てたのも無理はありません。しかも、主イエスが十字架にかけられたというペトロの言葉は、ユダヤ人たちにその責任があると告発しているとも受け取れるのです。こうして、ペトロとヨハネは捕らえられ、尋問を受けることになりました。
  捕らえられた翌日、ユダヤの最高議会の議員たちが招集され、議長を務める大祭司が尋問を始めました。
  「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。かつて彼らが主イエスにした(ルカ20:2)のと全く同じ言葉で問いかけました。
  ペトロは神殿で多くの人々に話したことを繰り返します。「足の不自由な人を癒した奇跡は、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたイエス・キリストの名によるものです」。続けて「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と答えました。
  「あなたがたが十字架につけて殺した」とペトロは言いましたが、主イエスの死の責任を追求しようという意図があるわけではありません。ただその事実を告げているだけで、ペトロが最も主張したかったのは、主イエスの十字架と復活は神の御計画だということです。神は主イエスを信じるすべての人を救うこととされたのです。「ほかのだれによっても、救いは得られず、私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」というのは、神がそのように定めたからなのだと言いたいのです。
  イエスの名によるというのは、イエスによってということです。イエスに結ばれてと言っても良いでしょう。
  使徒言行録に「イエスの名による洗礼」(8:16、19:5)という言葉が出てきます。その洗礼をパウロは「キリスト・イエスに結ばれる洗礼」(ローマ6:3)と言い、「洗礼によって、キリストの死にあずかるものとなった。・・・キリストが復活させられたように、私たちも新しい命に生きる」(ローマ6:4)とも言っています。
  イエスの名による救いとは、イエスに結ばれることにより罪を赦され、永遠の命に生きるということです。その救いが確かであるということの目に見える保証として「イエスの名による洗礼」があり、それ故、使徒言行録はこの言葉を繰り返すのです。