八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「救いの約束が与えられている」 2023年6月11日の礼拝

2023年07月06日 | 2023年度
サムエル記下7章5~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。

使徒言行録2章37~42節(日本聖書協会「新共同訳」)

  人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。


  主イエスの十字架の死と復活を語ったペトロの言葉を聞いた人々は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ね、ペトロは「悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めました。このペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受けて信仰に入った人々が三千人ほどあったとあります。
  使徒言行録は、1章25節で使徒たちの集まりが百二十人ほどと記しており、今日の聖書の個所では三千人ほどに増えたと記しています。このように数が増えたことを記すことにより、1章8節に記されている「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの言葉が着々と実現していく様子を伝えようとしているのです。
  さて、ペトロの言葉は「悔い改める」、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」、「罪を赦していただく」という三つの別々の事を言っているようですが、これら三つは一つのことです。
  まず「悔い改める」ということから見ていきますと、この言葉はもともと方向を変えるという意味の言葉です。神から離れて道を逸れた状態を「罪」と言いますが、その道を離れた状態(すなわち「罪」)から方向を変えて、神の方へと向きを変えることを「悔い改め」と言っているのです。
  次に「洗礼」ですが、もともとは水に身を浸すことを意味しており、身の汚れ、罪の汚れを清める目的で行っていました。たとえば、洗礼者ヨハネが行っていた洗礼がこれでした。しかし、キリスト教では、汚れから身を清める、罪から身を清めるというだけではなく、イエス・キリストと一体となるという意味を持つようになりました。それはローマ書6章で「キリストに結ばれる洗礼」と説明し、その洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストと共に生き、新しい命に生きるとあるとおりです。
  キリストの死にあずかるというのは、キリストが十字架にかかってくださったことにより罪の贖いがなされ、この十字架のキリストに結ばれて私たちの罪が赦されているということです。ペトロの勧めの言葉にある「罪を赦していただく」というのは、そういう意味です。そして、キリストの復活にあずかり、キリストと共に生き、新しい命に生きるというのは、キリストに結ばれて、キリストと共に永遠の命に生きるということです。
  ペトロはこれらの勧めをするとき、「約束」という言葉を用いました。神がすべての人々を救うために、約束してくださったということです。神の約束は、神の決意を表しています。そして、その決意は何かの都合によって取り消されたり、変更されたりすることはありません。どのようなことがあっても、この約束を神は守ってくださるのです。ですから、神が約束してくださったということは、すでに成就したのと同じほど確かであり、それ故神の約束は確かな救いの保証なのです。この約束を、私たちも受けており、私たちは自分が救われていることを確信することができるのです。