詩編31編2~7節(日本聖書協会「新共同訳」)
主よ、御もとに身を寄せます。
とこしえに恥に落とすことなく
恵みの御業によってわたしを助けてください。
あなたの耳をわたしに傾け
急いでわたしを救い出してください。
砦の岩、城塞となってお救いください。
あなたはわたしの大岩、わたしの砦。
御名にふさわしく、わたしを守り導き
隠された網に落ちたわたしを引き出してください。
あなたはわたしの砦。
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。
ルカによる福音書23章44~46節(日本聖書協会「新共同訳」)
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
十字架上の七つの言葉の最後は、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」です。これは、平安と信頼の言葉と説明されてきました。
旧約聖書の時代、比喩的に神を父たとえることはありましたが、祈りの中で、神を父と呼ぶことはありませんでした。ですから、「父よ」という呼びかけは、神の独り子である主イエスのみに可能なことでした。その主イエスが、私たちに神を父と呼ぶことをお許しくださったのです。主の祈りが「父よ」と始まるのも 神の独り子がこのように祈ることを命じられたからです。ですから、神を父よと呼ぶことが出来るのは、神からの恵みなのです。
「私の霊を御手にゆだねます」については、旧約の「神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(コヘレトの言葉12章7節)をまず理解しておくべきでしょう。
ここでの霊とは私たち日本人が考えるような魂のことではありません。そして、霊魂不滅の思想とも違います。詳しいことは避けますが、人間は単なる物質の固まりではなく、その中に神から命の息(霊)吹き入れられて、「生きる存在」になったのです。ですから、「生きる」とは、生物学的な意味だけではなく、神との関係の中で考えるべきであり、それ故、「死」も神との関係の中で理解すべきなのです。しかし、「死」は終わりではなく、来るべき時に、私たちはよみがえらされます。これも、神との関係の中で理解すべきです。
「御手にゆだねます」は、父なる神への信頼をあらわしています。
主イエスは、弟子に裏切られ、ユダヤ人たちの謀略によって捕らえられ、無実の罪をかぶせられて死刑になりました。「わが神、何故わたしをお見捨てになるのか」と叫ばれましたが、それは主イエス個人の恨み辛みの言葉ではなく、すべての罪人の代表となり、その罰をも代わって受けた者としての叫びでした。それが、すべての人を救う神の御計画であり、「成し遂げられた」との高らかな宣言がなされたことからも明らかです。
主イエスの最後は悲惨に見えます。しかし、主イエスは父なる神を常に仰いでおられました。どのような悲惨な状況にあっても、神を仰ぐことを忘れず、神を信頼することを、主イエスはお示しくださいました。「御手にゆだねます」という祈りは、生涯を終えるときの模範とすべきでしょう。
主よ、御もとに身を寄せます。
とこしえに恥に落とすことなく
恵みの御業によってわたしを助けてください。
あなたの耳をわたしに傾け
急いでわたしを救い出してください。
砦の岩、城塞となってお救いください。
あなたはわたしの大岩、わたしの砦。
御名にふさわしく、わたしを守り導き
隠された網に落ちたわたしを引き出してください。
あなたはわたしの砦。
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。
ルカによる福音書23章44~46節(日本聖書協会「新共同訳」)
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
十字架上の七つの言葉の最後は、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」です。これは、平安と信頼の言葉と説明されてきました。
旧約聖書の時代、比喩的に神を父たとえることはありましたが、祈りの中で、神を父と呼ぶことはありませんでした。ですから、「父よ」という呼びかけは、神の独り子である主イエスのみに可能なことでした。その主イエスが、私たちに神を父と呼ぶことをお許しくださったのです。主の祈りが「父よ」と始まるのも 神の独り子がこのように祈ることを命じられたからです。ですから、神を父よと呼ぶことが出来るのは、神からの恵みなのです。
「私の霊を御手にゆだねます」については、旧約の「神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(コヘレトの言葉12章7節)をまず理解しておくべきでしょう。
ここでの霊とは私たち日本人が考えるような魂のことではありません。そして、霊魂不滅の思想とも違います。詳しいことは避けますが、人間は単なる物質の固まりではなく、その中に神から命の息(霊)吹き入れられて、「生きる存在」になったのです。ですから、「生きる」とは、生物学的な意味だけではなく、神との関係の中で考えるべきであり、それ故、「死」も神との関係の中で理解すべきなのです。しかし、「死」は終わりではなく、来るべき時に、私たちはよみがえらされます。これも、神との関係の中で理解すべきです。
「御手にゆだねます」は、父なる神への信頼をあらわしています。
主イエスは、弟子に裏切られ、ユダヤ人たちの謀略によって捕らえられ、無実の罪をかぶせられて死刑になりました。「わが神、何故わたしをお見捨てになるのか」と叫ばれましたが、それは主イエス個人の恨み辛みの言葉ではなく、すべての罪人の代表となり、その罰をも代わって受けた者としての叫びでした。それが、すべての人を救う神の御計画であり、「成し遂げられた」との高らかな宣言がなされたことからも明らかです。
主イエスの最後は悲惨に見えます。しかし、主イエスは父なる神を常に仰いでおられました。どのような悲惨な状況にあっても、神を仰ぐことを忘れず、神を信頼することを、主イエスはお示しくださいました。「御手にゆだねます」という祈りは、生涯を終えるときの模範とすべきでしょう。