八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「風と湖を叱る」 2016年4月3日の礼拝

2017年03月21日 | 2016年度
イザヤ書54章7~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
 とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
   あなたを贖う主は言われる。
 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
   あのとき誓い
 今またわたしは誓う
 再びあなたを怒り、責めることはない、と。
 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
 わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
   あなたを憐れむ主は言われる。

 苦しめられ、嵐にもてあそばれ
 慰める者もない都よ
 見よ、わたしはアンチモンを使って
   あなたの石を積む。
 サファイアであなたの基を固め
 赤めのうであなたの塔を
 エメラルドであなたの門を飾り
 地境に沿って美しい石を連ねる。

マタイによる福音書8章23~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。


  マタイ福音書8章24~26節は、8~9章に記されている主イエスの四番目の奇跡になります。
  ここには、ガリラヤ湖で遭遇した嵐の出来事が記されています。主イエスの弟子たちには漁師もいましたので、ガリラヤ湖での舟の扱いには慣れていたはずです。しかし、その時の嵐に対しては、ベテランの漁師たちでも全く歯が立ちませんでした。湖での嵐は、そのような人間の力の限界をはるかに超える脅威として、小舟の前に立ちはだかったのです。
  この嵐に直面した弟子たちは、ただ慌てふためき、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びました。主イエスは、そのような弟子たちに対して「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」とおっしゃいましたが、叱りつけたわけではありません。このような危険に対して自分の力の及ばないことを知ったとき、主に助けを求めることは私たちに赦されているのです。
  主イエスは、激しい波風を叱りつけ、嵐を静めました。これは、神としての力を行使されたことを示しています。旧約聖書には、詩編65編8節の「大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎを鎮める方」というように、嵐を静める神の力が記されています。そして、主イエスが、この神の力によって嵐を静められたと告げられているのです。
  「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」という主イエスの言葉は、主イエスが共にいてくださるので、どのような状況にあろうとも、決して真の危険ではないと指摘しておられるのです。本当の危険は、このような嵐などではありません。神の御子が無力ではないかとおびえることなのです。

  ここに記されている湖上で嵐を静める出来事には、旧約聖書のヨナ書の出来事と似ているところがあります。
  物語の主人公が舟(船)に乗り、海で暴風に遭い、船乗りたちが恐怖に襲われるところです。さらに、船乗りたちが、奇跡により嵐が静まるように、眠っている物語の主人公を起こします。最後に、嵐が静まり、船乗りたちの驚きの反応が示される、というところです。
  マタイ福音書の著者は、主イエスが起こされた奇跡とヨナの物語の出来事が似ていると気づいていたと思われます。しかし、だからと言って、主イエスをヨナと同等の存在であると主張しているわけではありません。似ているのは、表面的なところだけです。マタイ福音書は、12章41節において、主イエスの「ここにヨナにまさるものがある。」という言葉を記しています。主イエスは、預言者よりも偉大な方である。これが、マタイ福音書が、この聖書を読む私たちに、力を込めて伝えようとしていることなのです。
  嵐を静めることにより、主イエスが、それまで隠されていた未知の力を明らかにされたため、弟子たちは非常に驚きました。それまで、主イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したりしただけでしたが、8章23~27節において、新しい能力が明らかにされたからです。
  「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。
  マタイ福音書は、この弟子たちの言葉をもって、湖上の嵐の出来事の締めくくりとしています。福音書を読んでいる読者には、この問いの答えが既に明らかだからです。それは、この福音書が初めから語ってきたこと、すなわち、この方こそ、神の独り子であり、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる方ということです。ここに、真の平安があり、心からの喜びと感謝をもって、詩編23編の言葉を、私たち自身の言葉として、証することが出来るのです。
  「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23編4、6節)