八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「何故泣いているのか」 2016年3月27日の礼拝

2017年03月13日 | 2015年度
イザヤ書25章6~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 万軍の主はこの山で祝宴を開き
 すべての民に良い肉と古い酒を供される。
 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
 主はこの山で
 すべての民の顔を包んでいた布と
 すべての国を覆っていた布を滅ぼし
 死を永久に滅ぼしてくださる。
 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
 御自分の民の恥を
   地上からぬぐい去ってくださる。
 これは主が語られたことである。
 その日には、人は言う。
 見よ、この方こそわたしたちの神。
 わたしたちは待ち望んでいた。
 この方がわたしたちを救ってくださる。
 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
 その救いを祝って喜び躍ろう。
 主の御手はこの山の上にとどまる。


ヨハネによる福音書20章11~16節

  マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。


  新約聖書にある4つの福音書は、いずれもマグダラのマリアが日曜日の朝早く主イエスが葬られた墓を訪ねたと記しています。ただし、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、墓を訪ねた女性は複数であったと記すのに対し、ヨハネ福音書は、マグダラのマリアひとりが、墓を訪ねたことになっています。
  墓が空であったことをシモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」に伝えた後の出来事が、今日の聖書の箇所に記されています。
  二人の弟子たちが帰った後、マリアはまだ墓の傍らにたたずんでいました。
  マリアは、墓の中にいた二人の天使たちに、続いて復活された主イエスに出会います。マリアには相手が天使や主イエスであることに気づかなかったようです。そのマリアに、天使たちと主イエスは、「何故、泣いているのか」と同じ質問をしています。
  天使たちと主イエスの問いに対して、マグダラのマリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と答えています。マリアは、誰かが主イエスの遺体を墓から移し去ったと考えたのです。この後、マリアは、声をかけた相手が復活された主イエスであることに気づくのです。

  ここでいったん立ち止まって、マリアの言葉に注目しましょう。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
  マリアは、墓が空であったことに驚いています。そして、主イエスの遺体がどこかへ移されたのではないか、心配しています。
  4つの福音書は、主イエスの復活の事実を語りますが、主イエスが復活された時、どんな様子であったか、墓からどんな様子で出てこられたのかは記していません。ただ、墓が空であったということだけです。
  それでは、何故、キリスト教会がキリストの復活を信じ、伝えるかというと、墓が空であったことが墓を訪ねた女性たちに確認された後、復活された主イエスが弟子たちに現れになったからです。
  主イエスの遺体を収めた墓が空であったことを認めているのは、キリスト教会だけではありません。主イエスを十字架に追いやったユダヤの指導者もこのことを認めていました。そのことは、マタイ福音書28章11~15節に記されています。
  「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。』兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」
  「弟子たちがナザレのイエスの遺体を盗み出した」。これがユダヤ人たちの主張でした。ここで重要なことは、彼らは、主イエスの遺体がどこにあるかを示すことが出来なかったことです。すなわち、墓が空であるという事実を否定することは出来なかったということです。
  主イエスの復活を否定する最も有効な手段は、主イエスの遺体を人々に示すことです。しかし、そうすることは誰にも出来なかったということです。主イエスの復活を認めるにしても否定するにしても、墓が空であったという事実以外に証拠はないと言うことです。と言うことは、主イエスの復活を人々に証明することは、不可能だということです。
  主イエス・キリストが復活したことを信じることは、私たちにとって、とても難しいことですが、またそれを人々に説明することはさらに困難です。
  キリストの復活は、証明することによって認識するものではなく、信仰によって、ただ信じることによって示されているだけなのです。
  昔から、「鰯の頭も信心から」と言いますが、それは宗教の頼りなさを表し、また宗教の恐ろしさを表してもいます。すべてを信仰という言葉で説明するのであれば、証明や証拠は必要でなくなり、それは迷信に人々を導いていくことになります。
  かつて、オーム真理教という宗教団体があり、その中には一流の科学者や弁護士もいました。その彼らが宗教にのめり込み、殺人など、反社会的行動をしたことは、日本全体を震撼させました。宗教が持つ恐ろしさに、日本中の人々が震え上がりました。
  キリスト教も非論理的なことを信じるという面があります。キリスト教も破壊的な活動をすることにはなりはしないでしょうか。
  欧米諸国では、合理的、論理的なものに真実があると信じるようになった近代から、聖書から奇跡などの非科学的な内容は受け入れることをせず、人道的な話、教訓的な話だけを読むべきだとする考え方がなされるようになりました。しかし、そのような読み方が、神の恵みを聞き取る読み方になるのでしょうか。そもそも聖書は何のために書かれ、何のために伝えられてきたのでしょうか。それは、神の恵みを語るためであり、私たちのために記されたのです。
  読み方によっては、家族分裂させるような言葉が出てきますし、旧約聖書の中には「老若男女を殺せ」という言葉もあります。これらの言葉を見ますと、やはり宗教は恐ろしい、キリスト教もまた怖い宗教だと考えてしまうでしょう。
  しかし、その言葉の背景、その背後などを考えてみますと、殺すことが目的ではなく、神の恵みをしっかり受けとめさせようとしていることに気づかされます。
  「隣人を愛しなさい」という言葉がありますが、そのすぐ前に「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。」(レビ記19章18節)という言葉があるのです。
  神が私たちに望んでおられるのは、復讐や破壊ではなく、神は全ての人々に対する救いと恵みを伝えることなのです。神の民は、その恵みを伝える器として選ばれたのです。その神の民がその使命を遂行することを忘れてはならないという警告として、厳しい言葉が記されているのです。

  聖書に記されている処女降誕やキリストの復活、またその他の奇跡の数々は、神の恵みの目に見える印、神の恵みの御業なのです。
  神の救いを信じることは、神の救いが証明されたから信じるというのではありません。信じることが出来ない事柄によって神の恵みが示されたのです。誰もそのまま受け入れることが出来ない復活。それは、証明することも証拠を示すことも出来ません。論理的に説明することも出来ません。しかし、そういう証拠も証明も論理的説明も出来ない事柄によって、神は全ての人々を救うこととされたのです。
  神の恵みは、人間の理性で理解できるとか、人間の努力や働きによって獲得できるものではありません。神ご自身の働きによるのです。
  科学的な証拠や証明によって、神の救いを獲得できるならば、それははたして、本当に神が与えてくださる救いなのでしょうか。神の御業と言えるのでしょうか。もちろん、自然のすべての法則や力も神の恵みに違いありませんが、人間の理性によって誰もが「これこそ救いだ」と確信できるとするならば、そういう理性を持った人だけが救われるということになります。そして、人間のわざによって救いを獲得したことになります。
  しかし、神は、それとは全く違う救いを用意されました。すなわち、どのような人であっても、どのような理性や知恵、能力を持っていても、絶対に獲得できない救いです。ただ、神の力によってのみ与えられる救いです。このように、神の恵みによってのみ与えられる救いを、御計画なさったのです。人が自分で救いを獲得したと言えないようにするために、このように御計画なさったのです。
  使徒パウロは、次のように記しています。
  「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1章22~25節)
  「しるし」。ユダヤ人たちは、奇跡は神から遣わされた確かな印であり、証拠だと考えていました。論理的な説明がなされるなら、受け入れようというのがギリシア人でした。
使徒言行録17章に、使徒パウロがアテネで伝道したときの様子が記されています。
  最初、人々は物珍しそうに話を聞いていましたが、パウロが主イエスの復活の話をし始めると、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って去って行き、残ったのは数人にすぎなかったというのです。
  アテネの人々はキリストの復活は、理性的でないとして、使徒パウロの前から去っていきました。アテネの人々は、まさに理性的なものを求めていたのです。ですから、復活などという理性的でない話は、「ごめんこうむる」と言って去っていったのです。現代人と同じです。
  使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1章18節)と、告げています。その神の力はどこに現れたのでしょうか。それは、神がお選びになった人々に現れました。その中には、無学な人々、無力な人々、見下げられている人々もいます。誰一人、自分の知恵や力で自分自身を救ったと言えなくするためでした。そのようにして、信じるすべての人を救うという神の固い決意が表れが、神の独り子イエス・キリストの十字架であり、復活なのです。
  先にも言いましたように、キリストが復活されたという証拠は何一つありません。しかし、それでも私たちは、神の恵みとしてイエス・キリストの復活を宣べ伝え、その復活のキリストの命に、私たち一人ひとりがあずかっていると証ししていくのです。人々に証明することは出来ません。しかし、キリストを証する言葉は、私たち自身を通して証しとなっていきます。私たちは罪人であるにもかかわらず、救われました。そこに、私たちに対する神の愛が示されたのです。この神の愛の中で、私たちは生きていきます。その生活の中で、神から救われていることを人々に証ししていくのです。この証は、決して論理的な説明ではありません。神から救われた喜びを、生活の中で表していきます。どのような状況にあっても、神に救われた喜びを、伝えていくのです。
  主イエス・キリストは、無法な裁判によって十字架刑に処せられました。しかし、主イエスはその十字架の上で、人々のための執り成しの祈りをされました。キリストに救われた私たちも、どのような状況に立たされても、執り成しの祈りをささげるようにしていくべきです。主イエスがそうであったように、私たちもこの地上の生活の中で、正当な扱いを受けるとはかぎません。むしろ、不当な扱いを受けることがあるでしょう。しかし、主イエスがそうであったように、私たちを不当に扱った人々のために、神の救いにあずかるようにと執り成しの祈りをしていくべきです。
  主イエスが復活は、私たちのための出来事であったことを心に留めておくべきです。そして、私たちの周囲の人々のための復活でもあったことを心に留めておくべきです。



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