イザヤ書8章23節b~9章6節(日本聖書協会「新共同訳」)
先に
ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように
折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴
血にまみれた軍服はことごとく
火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
マタイによる福音書4章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
主イエスがガリラヤで伝道を開始されました。マタイ福音書は、それを預言者イザヤの預言が実現したことだと説明しています。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」は、預言者イザヤの言葉です。マタイ福音書は、預言者イザヤが告げた「光」こそ、イエス・キリストであるというのです。
聖書の中で、主イエスを指し示す比喩として「光」という言葉は何度か出てきますが、特にそれを強調したのはヨハネ福音書です。その福音書の冒頭に、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)とあり、主イエスご自身が「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12、9:5、12:46)と宣言なさっておられます。
さて、マタイ福音書は、主イエスがガリラヤで伝道を開始されたのは、闇に光が射し込む出来事だと告げています。
ガリラヤが「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのは、歴史的、宗教的事情によるでしょうが、「暗闇」、「死の陰の地」と呼ばれるのは、希望のない世界という意味で、それはガリラヤだけではありません。ユダヤ人の宗教的中心地であるエルサレムもまた「預言者たちを殺した町」(マタイ23:37~39)であり、かつて主イエスを殺そうとした町、闇が支配する町であると、マタイは告げています。そして、ガリラヤで伝道を開始された主イエスの最終目的地は、ガリラヤではなくエルサレムであり、しかも十字架におかかりになるためにその地に向かわれるのです。それは、すべての人が十字架にかかられたキリストによって救われるためでした。
マタイ福音書はイザヤ書を引用し、ガリラヤ伝道の開始がその御言葉を実現したと告げていますが、ガリラヤだけの救いを考えていたわけではありません。むしろ、全世界が「暗闇」、「死の陰の地」であり、私たちもまた「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」であるということです。主イエスは、私たち全ての者を救うために、ガリラヤで活動を開始されたのです。
私たちが「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」であることに納得できないと言う人がいるかも知れません。また反対に、聖書に指摘されるまでもなく、人生や社会をふり返るだけで、希望を持てないことは、誰でもわかっているという人もいるでしょう。
それぞれの言い分は、もっともなことです。しかし、私たちが暗闇に住むとか、闇の力に支配されていることは、部分的に理解しているだけで、本質的なことは理解できません。神から救われた後でなければ、それまでの状態が闇であり、闇に支配されていたことを知ることができないのです。言い換えるならば、信仰によって、闇とその支配を知るのです。
光のないところに影は出来ません。それに慣れてしまえば、多少の不都合を感じたとしても、「自分だけではない、みんな同じ」と自分に言い聞かせ、半分諦め、半分安心してしまうのです。しかし、太陽が現れると、それ以前は闇であったこと、また私たちには影があると気づかされます。
私たちの生きている場所の問題だけではありません。人間関係や私たち自身が闇の力に支配されているのです。
マタイ福音書は、ガリラヤにだけ光が射し込んだと言っているのではありません。全世界と、そこに生きるすべての人に光が射し込んだと告げているのです。そしてさらに、聖書は、「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっている」(エフェソ5:8)と告げています。キリストという光によって、今、私たちは光となっているのです。ここに、聖書が私たちに語ろうとする最も重要な目的があります。
私たちが闇にいるから、努力して光になれ、と言うのではありません。キリストを信じて生活している私たちは、すでに光の中を歩み始めていると告げているのです。そして「光の子」(エフェソ5:8)、「神の子」(ガラテヤ3:26、4:5、エフェソ1:5、フィリピ2:15、Ⅰヨハネ3:1、2、他)とされているのです。
自分自身をふり返る時、自分が光とされているとは思えないでしょう。しかし、信仰によって自分が闇に支配されていたことを知るのと同じように、信仰によって私たちが光とされていることを知るのです。
月が自分では光ることが出来ず、太陽の光を反射して夜空に輝くように、私たちもキリストの光を受け、その光を人々へもたらすのです。
先に
ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように
折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴
血にまみれた軍服はことごとく
火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
マタイによる福音書4章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
主イエスがガリラヤで伝道を開始されました。マタイ福音書は、それを預言者イザヤの預言が実現したことだと説明しています。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」は、預言者イザヤの言葉です。マタイ福音書は、預言者イザヤが告げた「光」こそ、イエス・キリストであるというのです。
聖書の中で、主イエスを指し示す比喩として「光」という言葉は何度か出てきますが、特にそれを強調したのはヨハネ福音書です。その福音書の冒頭に、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)とあり、主イエスご自身が「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12、9:5、12:46)と宣言なさっておられます。
さて、マタイ福音書は、主イエスがガリラヤで伝道を開始されたのは、闇に光が射し込む出来事だと告げています。
ガリラヤが「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのは、歴史的、宗教的事情によるでしょうが、「暗闇」、「死の陰の地」と呼ばれるのは、希望のない世界という意味で、それはガリラヤだけではありません。ユダヤ人の宗教的中心地であるエルサレムもまた「預言者たちを殺した町」(マタイ23:37~39)であり、かつて主イエスを殺そうとした町、闇が支配する町であると、マタイは告げています。そして、ガリラヤで伝道を開始された主イエスの最終目的地は、ガリラヤではなくエルサレムであり、しかも十字架におかかりになるためにその地に向かわれるのです。それは、すべての人が十字架にかかられたキリストによって救われるためでした。
マタイ福音書はイザヤ書を引用し、ガリラヤ伝道の開始がその御言葉を実現したと告げていますが、ガリラヤだけの救いを考えていたわけではありません。むしろ、全世界が「暗闇」、「死の陰の地」であり、私たちもまた「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」であるということです。主イエスは、私たち全ての者を救うために、ガリラヤで活動を開始されたのです。
私たちが「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」であることに納得できないと言う人がいるかも知れません。また反対に、聖書に指摘されるまでもなく、人生や社会をふり返るだけで、希望を持てないことは、誰でもわかっているという人もいるでしょう。
それぞれの言い分は、もっともなことです。しかし、私たちが暗闇に住むとか、闇の力に支配されていることは、部分的に理解しているだけで、本質的なことは理解できません。神から救われた後でなければ、それまでの状態が闇であり、闇に支配されていたことを知ることができないのです。言い換えるならば、信仰によって、闇とその支配を知るのです。
光のないところに影は出来ません。それに慣れてしまえば、多少の不都合を感じたとしても、「自分だけではない、みんな同じ」と自分に言い聞かせ、半分諦め、半分安心してしまうのです。しかし、太陽が現れると、それ以前は闇であったこと、また私たちには影があると気づかされます。
私たちの生きている場所の問題だけではありません。人間関係や私たち自身が闇の力に支配されているのです。
マタイ福音書は、ガリラヤにだけ光が射し込んだと言っているのではありません。全世界と、そこに生きるすべての人に光が射し込んだと告げているのです。そしてさらに、聖書は、「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっている」(エフェソ5:8)と告げています。キリストという光によって、今、私たちは光となっているのです。ここに、聖書が私たちに語ろうとする最も重要な目的があります。
私たちが闇にいるから、努力して光になれ、と言うのではありません。キリストを信じて生活している私たちは、すでに光の中を歩み始めていると告げているのです。そして「光の子」(エフェソ5:8)、「神の子」(ガラテヤ3:26、4:5、エフェソ1:5、フィリピ2:15、Ⅰヨハネ3:1、2、他)とされているのです。
自分自身をふり返る時、自分が光とされているとは思えないでしょう。しかし、信仰によって自分が闇に支配されていたことを知るのと同じように、信仰によって私たちが光とされていることを知るのです。
月が自分では光ることが出来ず、太陽の光を反射して夜空に輝くように、私たちもキリストの光を受け、その光を人々へもたらすのです。