八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「キリストの証人としての教会」  2014年6月8日の礼拝

2014年07月15日 | 2014年度
イザヤ書43章21節

わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

使徒言行録1章6~9節

  さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。


  教会の暦では、今日はペンテコステです。日本語で聖霊降臨日とも呼ばれます。ペンテコステは、ギリシア語で「50」という意味です。
  旧約聖書の時代、ユダヤ人が大切にしていた祭りに「七週の祭り」がありました。これは同じく重要な祭りである「過越の祭り」から数えて7週間後に行われたため、そのように呼ばれていました。7週間は49日で、ほとんど50日です。そのため、七週の祭りは、新約時代に世界の共通語であったギリシア語で50日、「ペンテコステ」と呼ばれるようになったのです。
  過越の祭りの時、主イエス・キリストが十字架にかかられましたが、三日目によみがえられました。そこで、キリスト教では過越の祭りよりも主イエスの復活を記念する礼拝を行うようになりました。いわゆるイースターです。イースターは毎年3月から4月の中を移動します。そのため、この祝祭日から50日目を祝うペンテコステも5月から6月の間を移動します。そのため、キリスト教以外では、ほとんどこの祝祭日が意識されることはないようです。
  さて、このペンテコステの日に、聖霊が主イエスの弟子たちに降ったことから「聖霊降臨日」と呼ばれるようにもなりました。この時の様子は、使徒言行録2章に記されています。そして、この時キリスト教会が誕生したとみなされるようになりました。
  このことは、「教会とは何であるか」を考えるとき、とても重要です。使徒言行録1章には、欠員が出た使徒を補充するため、ひとりを選出した様子や、使徒たちが他の信徒と共に祈っていた様子を記しています。しかし、それで教会が誕生したとみなされていないのです。聖霊が降った時こそ、教会の誕生の時とみなしているのです。それは、私たちに次のことを教えています。
  第一に、単に信仰者が集まっただけで教会が誕生するのではないということです。すなわち、教会は、同じ思想や趣味を持った者たちが集まってできる「同好会」のようなものではないということです。
  第二に、使徒を立て、信仰的な組織が出来ると、教会になるというのではないということです。
  第三に、信仰者たちが集まり、共に祈ると教会ができるというのでもないということです。
  今挙げた三つは、いずれも教会にとって大切なことですが、最も重要なことは、聖霊が降るということです。さらに言うならば、教会が誕生し、立ち続けることは人間の働きによるのではなく、神の働きによるということです。これは、人間の働きは無意味であるとか、必要でないということではありません。その事は、使徒言行録1章8節の主イエスの言葉に示されています。
  「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
  キリストの証人となる。これが、主イエス・キリストから教会に託された使命です。
  この言葉は、使徒の補充選挙の時(使徒言行録1:22)、ペンテコステの時(使徒言行録2:32)、エルサレム神殿において(使徒言行録3:15)、大祭司から尋問を受けた時(使徒言行録5:32)にも出てきます。
  キリストの証人とは、どういう意味でしょう? 何を証言するのでしょうか?
  イザヤ書43:21に、次のような言葉があります。
  「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」
これは、旧約の神の民であるイスラエルに対して告げられた御言葉です。神の栄誉を語る。これこそ、神の民に与えられている使命なのです。
  神の栄誉を語るというのは、神を誉め讃えることです。しかし、ただ意味もなく誉め讃えることは出来ません。神がすばらしいことをしてくださったということを誉め讃えるのです。それは、私たちをキリストによって罪から救ってくださったこと、その神の恵みの御業をほめたたえるのです。それは言い換えると、神を喜び、誇りとすることです。誰に対しても、神を喜び、神を誇りとしていることを伝えるのです。使徒パウロは自分自身を誇ることのない用にと警告し、「誇る者は、主を誇れ」と、預言者エレミヤの言葉を引用し(Ⅰコリント1:29~31)、さらには「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と、強く勧めています。
  そこで、神を誇り、喜ぶということで大切になってくるのは、神の救いを私たちが心から喜んでいること、感謝していることです。
  教会において神を礼拝することは、神の私たちに対する恵みの御業をくり返し確認することであり、同時に、身に余る恵みを受けたことを感謝することに他なりません。そして、キリストを証する者として、その礼拝から私たちの周囲の人々へと出かけていくのです。