八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「キリストの最初の弟子たち」 2014年7月6日の礼拝

2014年07月31日 | 2014年度
エレミヤ書16章16~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。

マタイによる福音書4章18~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

  「天網恢々(かいかい)疎(そ)にして漏らさず」という言葉があります。夜空の星を天の網に見立て、天の網は粗くて獲物を取りこぼすことが多いように見えるが、実は目が細かく、悪を見落とすことない。悪には必ずその報いがあるという意味です。
  主イエスがペトロとその兄弟アンデレを弟子にした時、主イエスは「人間をとる漁師にする」とおっしゃいました。これは旧約聖書(エレミヤ16:16)の中で、神が人々をその悪の故に罰せられる時、誰一人逃れることはできないということを、魚をとる漁師に例えたことと関係があるかも知れません。また、ペトロやアンデレが実際に漁師であったことも関係するでしょう。
  主イエスがペトロたちに「人間をとる漁師にする」とおっしゃったのは、罪人を罰するための人々と言うことなのでしょうか? そうではありません。そのことは、主イエスご自身が「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ9:32)とおっしゃっておられますし、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」ともおっしゃっておられます。ですから、主イエスが弟子たちに「人間をとる漁師にする」とおっしゃったのは、罪人を罰するためではなく、悔い改めにいたらせるために、彼らをとらえる漁師にするとおっしゃっているのです。
  さて、マタイ4章18~22節には、最初の弟子が選ばれた出来事が記されています。主イエスの弟子たちの中でも中心的な位置にあった人々は12弟子と呼ばれました。ここに登場するペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、その12弟子の中でも特に中心的な人々でした。
  しかし、マタイ福音書は、12弟子がどのように集められたかに関心があるのではありません。福音書は12人全てについて記してはおらず、他に徴税人であったマタイが弟子になった様子を伝えるだけです。
  そして、五人の弟子たちの召命物語は、状況の違いはありますが、ほとんど同じ構成で記されています。すなわち、主イエスが弟子にしようとする人々を見て、彼らをお呼びになりました。そして、彼らはすぐに従ったという流れになっています。
  マタイ福音書が告げようとしているのは、弟子たちがどのように召されたかと言うことの報告ではなく、キリストの弟子になることは、こういう事だと言うことを示すことでした。すなわち、キリストがお呼びになり、人はそれに応えて従うということです。人々の方から主イエスのもとに来て弟子にしてほしいと願い出るのではないのです。
  そのように考えますと、私たちが誰かの弟子になるという時、先生となる人が実力を示し、人々から高く評価されている人を選んで弟子入り志願をするのではないでしょうか?
  マタイ福音書は、主イエスの名声が高まる以前に四人に声をかけて弟子にしたというのです。もし、四人が見知らぬ人から声をかけられて弟子にすると言われても、のこのこ付いて行くでしょうか?
  ルカ福音書5章は、マタイとは違う形でペトロが弟子になった出来事を記しています。主イエスが多くの人々に話をするために、ペトロの舟に乗り、岸から少し離れたところから語られました。話し終えると、沖の方にこぎ出させ、ペトロに網をおろすように言いました。ペトロは「私たちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、網をおろしたところ、おびただしい魚が捕れました。驚いたペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫び、ひれ伏しました。主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃって、ペトロを弟子にしたのです。
  マタイ福音書より、ルカ福音書の方が、現実にありそうなことです。それでは、マタイ福音書は間違っているのでしょうか。ここで大切なことは、どちらが正しくてどちらが間違っているかと言うことではありません。マタイの目的は、弟子になるとは、キリストの呼びかけに従うことだと強調することなのです。
  旧約聖書にも、預言者たちは神に呼びかけられ、彼らはその呼びかけに応え、従ったと記されています。マタイ福音書は、旧約の預言者と同じように、弟子たちもキリストに呼びかけられ、彼らはそれに応えて従ったと告げているのです。
  弟子が先生を選んで弟子入りをするのではなく、キリストの弟子はキリストが弟子を選ぶのです。
  スポーツの世界ですと、スカウトが才能を持っていそうな人を捜し出して、勧誘することがあります。主イエスがペトロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネを選んだのは、彼らになんらかの才能があると見抜いたからなのでしょうか? 聖書はその事について何も語りません。彼らは、特に教養があるとか、信仰深いと言うわけではありません。彼らよりもふさわしい人間は他にもいたかも知れません。律法学者のような聖書の専門家が数多くいたはずですし、信仰深い人なら他にもいたことでしょう。しかし、そういう特に優れた人が選ばれたというのではなく、一介の漁師にすぎない者が選ばれたのです。
  彼らだけではありません。旧約の預言者も、何故彼らが選ばれたのかを説明していません。聖書は、神が何故彼らをお選びになったか、何も説明しません。
  私たちも、神から選ばれキリスト者となりました。また、牧師、長老、またその他の奉仕者に立てられています。「何故、わたしが選ばれたのか?」と不思議に思うことがあります。もっとふさわしい人がいたはずだと思うこともあります。しかし、それを神に尋ねても、「このわたしがあなたを選んだ」という答えしか返ってきません。
  モーセのことを思い起こしてみてください。モーセは、エジプトの王女に育てられ、教育と訓練を受けたと考えられています。しかし、彼が神から召されたのは、若い時ではなく、80才になってからでした。神からエジプトへ行き、神の民を導き出せと言われて、彼が恐れたのも当然のことでした。聖書はそのときのモーセの狼狽ぶり、また何とか逃げ出そうとする様子を記していますが、私たちにも、そのときのモーセの気持ちが良く分かるのではないでしょうか?
  そのときも、神がモーセに告げられたことは、「この私があなたを選んだ」、「「語るべき言葉、為すべき事は私があなたに告げる」ということでした。なおもぐずぐずと渋っているモーセに、兄のアロンを助手として側におらせると言って、ついに承知させるのです。
  私たちは神に選ばれてキリスト者となったのです。周囲の人ばかりでなく、自分自身でもふさわしくないと思うこともあるでしょう。しかし、そのとき、私たちがしなければならないのは、周囲の評価を気にしたり、自分の知恵や才能や経験に頼ろうとすることではありません。「私があなたを選んだ」という神の御言葉を思い起こすことなのです。私たちをキリスト者にしているのは、周囲の評価や自分の力や決意によらないからです。神の選びであり、神の力によることなのです。
  私たちは、周囲の評価や自分の力のなさをふり返って、大きな不安に襲われるかも知れません。「しかし、お言葉ですから」を私たちの言葉として、主イエス・キリストに従っていきましょう。