イザヤ書40章1~8節
慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。
呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。
呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
ルカによる福音書1章5~25節
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
教会の暦では、今日から待降節(アドベント)に入ります。12月25日の主イエスの降誕日、すなわちクリスマスまでの約4週間を、このように呼びます。アドベントは「到来」という意味のラテン語から来ており、クリスマスを迎える準備の時、また主イエスの再臨の準備の時として守られてきました。
アドベントの期間の礼拝では、ルカによる福音書に従って聖書を読んでいきたいと思っています。
今日の聖書の記述は、洗礼者ヨハネが誕生するという予告の場面です。
洗礼者ヨハネは主イエスの弟子ではありませんが、新約聖書の4つの福音書全てに登場しています。主イエスの誕生の様子を伝えているのはマタイとルカの二つだけですから、福音書を記した人々がこのヨハネをどれほど重要と考えていたかが良く分かると思います。
この洗礼者ヨハネが絵に描かれる時、人差し指で何かを指さすポーズを取っています。これはヨハネ福音書で、洗礼者ヨハネが周囲の人々に向かって主イエスを指し示し、「見よ、神の小羊」と言ったことによります。いずれの福音書も多少の違いはありますが、洗礼者ヨハネを主イエスの先駆者であり、主イエスを指し示す者として位置づけています。
さて、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生について語るという点で、他の福音書との違いが際だっています。
父親の祭司ザカリアが神殿で務めをしていた時、天使が現れ、ザカリアに子どもが出来ることを告げました。そして、名前をヨハネとせよ命じました。後になって分かることですが、ヨハネという名前は、ザカリアの一族にゆかりのある名前ではありませんでした。親族たちは、一族にゆかりのある名前、特に父親と同じくザカリアがよいと考えたくらいですから、ヨハネという名前をつけることがいかに特別のことかが分かります。
天使がヨハネという名前にこだわったのには理由があります。ヨハネは「ヤーウェは恵み深い」という意味があり、ここに神の御心が示されているのです。このことは、後でもう一度触れることになります。
さらに天使は、ヨハネの使命について語ります。
17節で「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き」とあります。ヨハネはエリヤとしての使命を担っているというのです。さらに、その使命とは主に先立って行くこと、父の心を子に向けさせること、逆らう者に正しい人の分別を持たせること、準備のできた民を主のために用意することだと言われています。
エリヤは旧約聖書の時代に活躍した預言者ですが、彼は火の車に乗って天に昇ったと記されています。そのためでしょうか? 神が審きを行う前に、エリヤが遣わされると信じられるようになりました。たとえば、旧約聖書の最後にあるマラキ書には、その事がハッキリ記されています。
天使がヨハネの誕生を告げるまで、神の審きは不信心な者たちが滅ぼされる時と考えられていました。しかし、不信心な者を救いへと導くことこそが神の御心であることが暗示されたのです。それが、「ヤーウェは恵み深い」というヨハネという名前に示されていたのです。
洗礼者ヨハネは、神の独り子イエス・キリストに先立つ者として世に現れました。不信心な人々を滅ぼすためではなく、神の恵みによる救いをもたらすためにメシアが現れると人々に告げ、イエス・キリストを指し示す者として、その使命を果たしていくのです。
主イエスの先に立って、主イエスの救いの恵みを伝える者として、洗礼者ヨハネは立っています。私たちキリスト者は、主イエスの後に従い、主イエスの救いの恵みを伝えていく使命を担っています。洗礼者ヨハネが書の生涯を通じて主イエスを指し示し続けたように、私たちもこの世にある間、常に主イエスの救い、恵みを指し示し続けましょう。
慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。
呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。
呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
ルカによる福音書1章5~25節
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
教会の暦では、今日から待降節(アドベント)に入ります。12月25日の主イエスの降誕日、すなわちクリスマスまでの約4週間を、このように呼びます。アドベントは「到来」という意味のラテン語から来ており、クリスマスを迎える準備の時、また主イエスの再臨の準備の時として守られてきました。
アドベントの期間の礼拝では、ルカによる福音書に従って聖書を読んでいきたいと思っています。
今日の聖書の記述は、洗礼者ヨハネが誕生するという予告の場面です。
洗礼者ヨハネは主イエスの弟子ではありませんが、新約聖書の4つの福音書全てに登場しています。主イエスの誕生の様子を伝えているのはマタイとルカの二つだけですから、福音書を記した人々がこのヨハネをどれほど重要と考えていたかが良く分かると思います。
この洗礼者ヨハネが絵に描かれる時、人差し指で何かを指さすポーズを取っています。これはヨハネ福音書で、洗礼者ヨハネが周囲の人々に向かって主イエスを指し示し、「見よ、神の小羊」と言ったことによります。いずれの福音書も多少の違いはありますが、洗礼者ヨハネを主イエスの先駆者であり、主イエスを指し示す者として位置づけています。
さて、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生について語るという点で、他の福音書との違いが際だっています。
父親の祭司ザカリアが神殿で務めをしていた時、天使が現れ、ザカリアに子どもが出来ることを告げました。そして、名前をヨハネとせよ命じました。後になって分かることですが、ヨハネという名前は、ザカリアの一族にゆかりのある名前ではありませんでした。親族たちは、一族にゆかりのある名前、特に父親と同じくザカリアがよいと考えたくらいですから、ヨハネという名前をつけることがいかに特別のことかが分かります。
天使がヨハネという名前にこだわったのには理由があります。ヨハネは「ヤーウェは恵み深い」という意味があり、ここに神の御心が示されているのです。このことは、後でもう一度触れることになります。
さらに天使は、ヨハネの使命について語ります。
17節で「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き」とあります。ヨハネはエリヤとしての使命を担っているというのです。さらに、その使命とは主に先立って行くこと、父の心を子に向けさせること、逆らう者に正しい人の分別を持たせること、準備のできた民を主のために用意することだと言われています。
エリヤは旧約聖書の時代に活躍した預言者ですが、彼は火の車に乗って天に昇ったと記されています。そのためでしょうか? 神が審きを行う前に、エリヤが遣わされると信じられるようになりました。たとえば、旧約聖書の最後にあるマラキ書には、その事がハッキリ記されています。
天使がヨハネの誕生を告げるまで、神の審きは不信心な者たちが滅ぼされる時と考えられていました。しかし、不信心な者を救いへと導くことこそが神の御心であることが暗示されたのです。それが、「ヤーウェは恵み深い」というヨハネという名前に示されていたのです。
洗礼者ヨハネは、神の独り子イエス・キリストに先立つ者として世に現れました。不信心な人々を滅ぼすためではなく、神の恵みによる救いをもたらすためにメシアが現れると人々に告げ、イエス・キリストを指し示す者として、その使命を果たしていくのです。
主イエスの先に立って、主イエスの救いの恵みを伝える者として、洗礼者ヨハネは立っています。私たちキリスト者は、主イエスの後に従い、主イエスの救いの恵みを伝えていく使命を担っています。洗礼者ヨハネが書の生涯を通じて主イエスを指し示し続けたように、私たちもこの世にある間、常に主イエスの救い、恵みを指し示し続けましょう。