詩編44編2~27節(日本聖書協会「新共同訳」)
神よ、我らはこの耳で聞いています
先祖が我らに語り伝えたことを
先祖の時代、いにしえの日に
あなたが成し遂げられた御業を。
我らの先祖を植え付けるために
御手をもって国々の領土を取り上げ
その枝が伸びるために
国々の民を災いに落としたのはあなたでした。
先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも
自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく
あなたの右の御手、あなたの御腕
あなたの御顔の光によるものでした。
これがあなたのお望みでした。
神よ、あなたこそわたしの王。
ヤコブが勝利を得るように定めてください。
あなたに頼って敵を攻め
我らに立ち向かう者を
御名に頼って踏みにじらせてください。
わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。
自分の剣によって勝利を得ようともしていません。
我らを敵に勝たせ
我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。
我らは絶えることなく神を賛美し
とこしえに、御名に感謝をささげます。〔セラ
しかし、あなたは我らを見放されました。
我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず
我らが敵から敗走するままになさったので
我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。
あなたは我らを食い尽くされる羊として
国々の中に散らされました。
御自分の民を、僅かの値で売り渡し
その価を高くしようともなさいませんでした。
我らを隣の国々の嘲りの的とし
周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ
我らを国々の嘲りの歌とし
多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。
辱めは絶えることなくわたしの前にあり
わたしの顔は恥に覆われています。
嘲る声、ののしる声がします。
報復しようとする敵がいます。
これらのことがすべてふりかかっても
なお、我らは決してあなたを忘れることなく
あなたとの契約をむなしいものとせず
我らの心はあなたを裏切らず
あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。
あなたはそれでも我らを打ちのめし
山犬の住みかに捨て
死の陰で覆ってしまわれました。
このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り
異教の神に向かって
手を広げるようなことがあれば
神はなお、それを探り出されます。
心に隠していることを神は必ず知られます。
我らはあなたゆえに、絶えることなく
殺される者となり
屠るための羊と見なされています。
主よ、奮い立ってください。
なぜ、眠っておられるのですか。
永久に我らを突き放しておくことなく
目覚めてください。
なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
我らが貧しく、虐げられていることを
忘れてしまわれたのですか。
我らの魂は塵に伏し
腹は地に着いたままです。
立ち上がって、我らをお助けください。
我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。
ローマの信徒への手紙8章23~25節(日本聖書協会「新共同訳」)
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
詩編44編の詩人は苦境に直面しています。この詩編の最初は過去の神の恵みと導きを思い起こしつつ、直面している苦境から救ってくれるよう懇願しています。それに続いて、何故神は今の苦境を省みてくださらないのか、何故沈黙しておられるのかと不満を募らせています。それでも、かろうじて神への信仰を捨てないようにと、神に訴え続けています。23節では、詩人と神の民が受ける苦難は、神のせいだとさえ言うほどです。この詩人は神への不信ぎりぎりのところまで追いつめられているのです。
信仰者が何故悩み苦しむのかという問題は、聖書の中で時々取り上げられます。特に有名なのはヨブ記でしょう。そのヨブ記では、信仰者が何故苦しむのかという答えは出てきません。神がヨブに語られたのは、ご自身が天地の全てを創造し支配しておられる神であるということだけです。私たちにはこれだけで納得することは難しいように思われますが、ヨブはこの神の言葉を聞いて納得するのです。何故信仰者が苦難を受けるのかという答えはありませんが、神が全てを支配しておられることを告げることにより、ヨブが受けている悩みについても神は知っておられるということです。そして、神が知ってくださっていることは、苦難の意味を知らされなくとも、神は必ずこの状況を良い方向へと変えてくださるという信頼を生み出したのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章26節で、この23節を引用し、信仰者が受ける苦難について語っています。しかしパウロは、神への不信ではなく、人々から受ける苦難にまさる神の恵みを語ります。たとえどのような苦難に遭おうとも、キリストの愛から決して離されはしないと断言しているのです。パウロは、罪とその呪いの中にある私たちの世界には、神に逆らう者たちによる迫害やその他の苦難は現実にあると告げ、しかし、それにもかかわらず、私たち信仰者は神の愛から決して引き離されることはないと断言するのです。
詩編44編27節に「慈しみ」という言葉が出てきます。この言葉は「契約の愛」と説明されます。それは感情的情緒的な愛情ということではなく、神の変わることのない愛ということです。神は約束されたことを決して破ることはなく、しかも相手の状況がどのように変わろうとも、約束を無効にすることはない誠実な愛ということです。詩人はこのような神との確かな関係の中に置かれていることを前提に、神に訴えているのです。
私たちキリスト者は、神のこのような慈しみを主イエス・キリストによって示されました。それ故、このような神の愛から、私たちを引き離すことが出来るものは何一つ無いのです。(ローマの信徒への手紙8章35~39節)
神よ、我らはこの耳で聞いています
先祖が我らに語り伝えたことを
先祖の時代、いにしえの日に
あなたが成し遂げられた御業を。
我らの先祖を植え付けるために
御手をもって国々の領土を取り上げ
その枝が伸びるために
国々の民を災いに落としたのはあなたでした。
先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも
自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく
あなたの右の御手、あなたの御腕
あなたの御顔の光によるものでした。
これがあなたのお望みでした。
神よ、あなたこそわたしの王。
ヤコブが勝利を得るように定めてください。
あなたに頼って敵を攻め
我らに立ち向かう者を
御名に頼って踏みにじらせてください。
わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。
自分の剣によって勝利を得ようともしていません。
我らを敵に勝たせ
我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。
我らは絶えることなく神を賛美し
とこしえに、御名に感謝をささげます。〔セラ
しかし、あなたは我らを見放されました。
我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず
我らが敵から敗走するままになさったので
我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。
あなたは我らを食い尽くされる羊として
国々の中に散らされました。
御自分の民を、僅かの値で売り渡し
その価を高くしようともなさいませんでした。
我らを隣の国々の嘲りの的とし
周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ
我らを国々の嘲りの歌とし
多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。
辱めは絶えることなくわたしの前にあり
わたしの顔は恥に覆われています。
嘲る声、ののしる声がします。
報復しようとする敵がいます。
これらのことがすべてふりかかっても
なお、我らは決してあなたを忘れることなく
あなたとの契約をむなしいものとせず
我らの心はあなたを裏切らず
あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。
あなたはそれでも我らを打ちのめし
山犬の住みかに捨て
死の陰で覆ってしまわれました。
このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り
異教の神に向かって
手を広げるようなことがあれば
神はなお、それを探り出されます。
心に隠していることを神は必ず知られます。
我らはあなたゆえに、絶えることなく
殺される者となり
屠るための羊と見なされています。
主よ、奮い立ってください。
なぜ、眠っておられるのですか。
永久に我らを突き放しておくことなく
目覚めてください。
なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
我らが貧しく、虐げられていることを
忘れてしまわれたのですか。
我らの魂は塵に伏し
腹は地に着いたままです。
立ち上がって、我らをお助けください。
我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。
ローマの信徒への手紙8章23~25節(日本聖書協会「新共同訳」)
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
詩編44編の詩人は苦境に直面しています。この詩編の最初は過去の神の恵みと導きを思い起こしつつ、直面している苦境から救ってくれるよう懇願しています。それに続いて、何故神は今の苦境を省みてくださらないのか、何故沈黙しておられるのかと不満を募らせています。それでも、かろうじて神への信仰を捨てないようにと、神に訴え続けています。23節では、詩人と神の民が受ける苦難は、神のせいだとさえ言うほどです。この詩人は神への不信ぎりぎりのところまで追いつめられているのです。
信仰者が何故悩み苦しむのかという問題は、聖書の中で時々取り上げられます。特に有名なのはヨブ記でしょう。そのヨブ記では、信仰者が何故苦しむのかという答えは出てきません。神がヨブに語られたのは、ご自身が天地の全てを創造し支配しておられる神であるということだけです。私たちにはこれだけで納得することは難しいように思われますが、ヨブはこの神の言葉を聞いて納得するのです。何故信仰者が苦難を受けるのかという答えはありませんが、神が全てを支配しておられることを告げることにより、ヨブが受けている悩みについても神は知っておられるということです。そして、神が知ってくださっていることは、苦難の意味を知らされなくとも、神は必ずこの状況を良い方向へと変えてくださるという信頼を生み出したのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章26節で、この23節を引用し、信仰者が受ける苦難について語っています。しかしパウロは、神への不信ではなく、人々から受ける苦難にまさる神の恵みを語ります。たとえどのような苦難に遭おうとも、キリストの愛から決して離されはしないと断言しているのです。パウロは、罪とその呪いの中にある私たちの世界には、神に逆らう者たちによる迫害やその他の苦難は現実にあると告げ、しかし、それにもかかわらず、私たち信仰者は神の愛から決して引き離されることはないと断言するのです。
詩編44編27節に「慈しみ」という言葉が出てきます。この言葉は「契約の愛」と説明されます。それは感情的情緒的な愛情ということではなく、神の変わることのない愛ということです。神は約束されたことを決して破ることはなく、しかも相手の状況がどのように変わろうとも、約束を無効にすることはない誠実な愛ということです。詩人はこのような神との確かな関係の中に置かれていることを前提に、神に訴えているのです。
私たちキリスト者は、神のこのような慈しみを主イエス・キリストによって示されました。それ故、このような神の愛から、私たちを引き離すことが出来るものは何一つ無いのです。(ローマの信徒への手紙8章35~39節)