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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「忍耐と慰めと希望」 2022年2月20日の礼拝

2022年03月26日 | 2021年度
ホセア書11章1~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
 わたしが彼らを呼び出したのに
 彼らはわたしから去って行き
 バアルに犠牲をささげ
 偶像に香をたいた。
 エフライムの腕を支えて
   歩くことを教えたのは、わたしだ。
 しかし、わたしが彼らをいやしたことを
   彼らは知らなかった。
 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
 彼らの顎から軛を取り去り
 身をかがめて食べさせた。


ローマの信徒への手紙15章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。


  ローマ書14章から教会内の人間関係についての戒めが続いています。その1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」とあり、15章1節の「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」につながっています。すなわち、「わたしたち強い者」というのは、14章1節の「信仰の弱い人」という言葉との関連から「自分を信仰の強い者と思っている人」と考えてよいでしょう。そして、「強くない者の弱さを担う」というのは「信仰の弱い人を受け入れる」ということでしょう。14章では肉を食べるか否か、ある日を他の日より重んじるかどうかという問題とかかわらせて扱われていました。15章も同じと考えても良いでしょうが、何について強い弱いと言っているかは少しあいまいにされています。どういう問題であっても、信仰が強い弱いと言ってたがいに批判してはならないと言いたいのです。
  信仰が強いとか信仰が弱いと言って互いに批判することがあってはならないことは当然のことのようですが、現実には、しばしば起こることです。第一コリント8章、10章を見ると、コリントの教会でその問題が起こっていたことがわかります。福音書の中でファリサイ派のユダヤ人が律法をめぐって主イエスと弟子たちを批判したことが記されていますが、これも律法順守に熱心かどうか、言い換えますと信仰が強いかどうかという問題だと言えるでしょう。
  主イエスの弟子たちも同様です。「信仰が強い弱い」という言葉ではありませんが、互いに誰が一番偉いかと議論(マルコ9:34)していました。ルカ福音書は、主イエスが十字架にかかる前日の夜、いわゆる最後の晩餐と呼ばれる時にも、弟子たちはそのような議論をしていた(22:24)と記しています。
  ファリサイ派や主イエスの弟子たちが特別そのような問題ある人々というのではありません。むしろ、すべての人が陥りやすい問題であり、神に救われていながら罪の残滓(ざんし)を身に着けているということであり、宗教改革者マルチン・ルターの言葉でいえば、「罪ゆるされた罪人」の姿ということです。終末の時、主イエスが再臨された時、私たちからこの罪の残滓が完全に拭い去られますが、それまで、この地上にある間、少しでも罪の残滓を捨てるべく神の助けによって御心に従って生活することが大切なのです。ローマ15章でパウロが伝えていることもそのためなのです。
  そのような生活をするために、「自分の満足を求めるべきではない。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきだ」(ローマ15:1~2)と言います。そこには、忍耐が必要でしょう。しかし、私自身を救い、目の前の人を救うために、神ご自身が忍耐してくださったことを見落としてはならず、忘れてはなりません。「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」(15:4)というのは、神の忍耐、神による慰めを学び、神に結ばれた希望を持つことができるということです。今回とは状況は違いますが、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望はわたしたちを欺くことはない」(ローマ5:3~5)と教えられました。この世での苦難に対しての忍耐が希望へと導かれるのであれば、まして、一緒に救われている兄弟姉妹のために忍耐することは、ますます慰めに満ちており、豊かな希望に満ちていることではないでしょうか。


「愛に従って歩みなさい」 2022年2月13日の礼拝

2022年03月21日 | 2021年度
ホセア書9章3~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

 彼らは主の土地にとどまりえず
 エフライムはエジプトに帰り
 アッシリアで汚れたものを食べる。
 主にぶどう酒をささげることもできず
 いけにえをささげても、受け入れられない。
 彼らの食べ物は偶像にささげられたパンだ。
 それを食べる者は皆、汚れる。
 彼らのパンは自分の欲望のためだ。
 それを主の神殿にもたらしてはならない。


ローマの信徒への手紙14章13~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。


  教会の中における人間関係についての教えの続きです。先週と同じく食べる物についての問題です。と言いましても信仰に深くかかわることですので、ないがしろにするわけにはいきません。
  もともとユダヤ人には厳しい食物規定がありました。動物を清いものと清くないものに区別し、清いものは食べてもよく、清くないものは食べてはいけないというものです。使徒言行録10章に次のような話が記されています。
  ヤッファでペトロが幻を見ました。天からいろいろな動物が入った入れ物が降りてきて「これらを屠って食べなさい」という声が天から響いてきました。しかし、その入れ物に入っていたのは汚れた動物だったため、ペトロは汚れたものは今まで食べたことはありませんと答えました。それに対し「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」という声が返ってきました。この出来事はユダヤ人の食物規定が関係しています。この使徒言行録では具体的に動物の名前は出てきていませんが、たとえば豚などが汚れた動物とされており、食べることはありませんでした。
  さて、ペトロの物語は異邦人伝道に関わるもので、直接食事に関係しているわけではありませんが、当時のユダヤ人の食物規定を示す良い例と言えます。
  ローマ書に戻ります。14章における食べ物の問題というのは、食卓に上がる肉のことです。当時のローマでは肉が、市場に並ぶ前に異教の神々にささげられることがありました。そのため、その肉が偶像にささげられたかどうか心配する人がいたのです。偶像にささげられた肉を食してはならないということは使徒言行録15章20節に出てきます。旧約聖書にはっきりこれを禁じる言葉は出てきませんが、偶像にささげられた肉を食することが偶像を崇拝することとみなされていたようです。
  使徒言行録とローマ書では状況が違いますが、どちらも食物に関することです。食物と宗教が深く関わっていることを示していると言えます。
  さて、肉を食べることについて、それが偶像にささげられたものかどうか気にする人とほとんど気にしない人がおり、一方が他方を不信仰であるとか信仰が弱いとかの批判した人がいたことがコリントにあてたパウロの手紙に記されており、ローマで実際にそのような問題が起きていたかは分かりませんが、このような問題で教会の中で対立が起きることを心配していることは確かです。
  この問題について、パウロは食物のことで互いに裁きあってはならないと警告します。食物によって清くなったり、汚れたりすることはないのです。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではない。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではない」(Ⅰコリント8:8)とパウロが言っている通りです。主イエスは「どんな食物もきよいもの」(口語訳マルコ7:19)とされました。パウロが「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知った」(ローマ14:14)というのは、このことによるのでしょう。
  私たちが救われたのはキリストによるのです。肉を食べるか否かで互いに裁きあうことはキリストの救いを無にすることです。キリストに救われた人を自分の価値観で裁くことは、神の御心に反することだと警告しているのです。



「神に受け入れられている人」 2022年2月6日の礼拝

2022年03月14日 | 2021年度
詩編51編18~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

 もしいけにえがあなたに喜ばれ
 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
 わたしはそれをささげます。
 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
 打ち砕かれ悔いる心を
   神よ、あなたは侮られません。


ローマの信徒への手紙14章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。
 「主は言われる。
 『わたしは生きている。
 すべてのひざはわたしの前にかがみ、
 すべての舌が神をほめたたえる』と。」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。



  14章1節で「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と言われています。14章1節以下は、同じキリストを信じている者同士の関係を前提に語っています。
  1節で何を問題にしているのかは、次の2~3節で推測できます。「弱い人は野菜だけを食べている」とありますが、問題は野菜ではなく、実は肉を食べてよいかどうかということなのです。弱い人が野菜だけを食べるというのは、肉を食べる時、その肉が異教の神々にささげられた肉ではないかと心配をして、野菜だけを食べるということなのです。このことについてパウロは第一コリント8章、10章23~31節で詳しく説明しています。ローマの信徒への手紙はそれほど詳しくは記されていませんが、肉を食べることについてはコリントの町と同じ状況があったでしょう。この問題については14章13節以下で簡単に触れられていますので、いまここではこのことについて語ることは控えておきたいと思います。
  それに先立つ1~12節でパウロが語ろうとしているのは、意見の合わない人との関係についてです。パウロは相手を裁いてはならないと言い、神がその人を受け入れているからだというのです。さらに「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者か」とまで言います。相手と神との関係を召し使いと主人の関係になぞらえているわけです。召し使いを裁けるのは主人だけで、その主人をさしおいてその召し使いを裁くことは本来あり得ないことです。そして、主人はその召し使いをすでに受け入れているのですから、なおさらその主人を無視するかのように、相手を裁くことがあってはならないということです。主人と召し使いの関係は、神と意見の合わない相手との関係だけではありません。相手を裁いている自分自身も神に対しては召し使いという立場にあります。そうであれば、自分も主人である神の意向に反して相手を裁くことはあってはならないはずです。こうしてみると、自分と相手との関係は、神を通して見ることが大切だということがわかります。神を無視して直接相手を見ようとすると、相手に対する判断は自分を基準としやすいでしょう。しかし、神を通して相手を見、神が受け入れている人であるとわきまえるのです。キリストは罪人である私のために死んでくださいましたが、意見の合わない相手のためにも死んでくださった (ローマ14:15) のです。そこで、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるため」(9節)と言われ、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ。生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(8節)と言うのです。そして、あらためて互いに裁いてはならないと言うのです。
  キリストは私たちのために死んでくださり、私たちの主となってくださいました。そのキリストのために生きるのです。キリストが喜ばれるように生きるのです。神の救いに応える生活です。
  同じ信仰にある者同士の人間関係についての教えでしたが、それはまた、私たちの人生そのものを教えていたのです。



「感謝の実を結ぶ」 2022年1月30日の礼拝

2022年03月07日 | 2021年度
箴言8章12~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしは知恵。熟慮と共に住まい
 知識と慎重さを備えている。
 主を畏れることは、悪を憎むこと。
 傲慢、驕り、悪の道
 暴言をはく口を、わたしは憎む。
 わたしは勧告し、成功させる。
 わたしは見分ける力であり、威力をもつ。
 わたしによって王は君臨し
 支配者は正しい掟を定める。
 君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆
 わたしによって治める。
 わたしを愛する人をわたしも愛し
 わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
 わたしのもとには富と名誉があり
 すぐれた財産と慈善もある。
 わたしの与える実りは
 どのような金、純金にもまさり
 わたしのもたらす収穫は
   精選された銀にまさる。
 慈善の道をわたしは歩き
 正義の道をわたしは進む。
 わたしを愛する人は嗣業を得る。
 わたしは彼らの倉を満たす。


ヨハネによる福音書15章5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。


  「感謝の実を結ぶ」という言葉は、実は聖書にありません。この説教題は「ハイデルベルク信仰問答」からつけました。「実を結ぶ」という言葉は聖書に何度か出てきます。ヨハネ福音書15章5節は、特によく知られている個所です。
  「実を結ぶ」というのは、この場合、善い行いをするということです。ヨハネ福音書は私たちの善い行いはキリストに結ばれていなければ不可能であることを教えています。
  そもそもなぜ善い行いをしなければならないのでしょうか。
  真っ先に考えられることは、善い行いをすることによって神から救われるためということです。神は善い行いをする人に恵みを与え、また救ってくださいます。反対に悪い行いをする人に対しては、神は激しく怒り、厳しく罰するからです。ですから、神の恵みを受け、救われるために善い行いをしなければならないということです。
  しかし、主イエス・キリストが現れ、罪人を救ってくださいました。聖書はこのキリストによる救いを語り、人が救われるのは行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によると教えます。しかし、その一方で善い行いをするようにとも教えています。ここから救いと善い行いの関係について二つのことが考えられるようになりました。第一の考え方は、キリストの救いは洗礼を受けるまでの罪に対して効果がありますが、洗礼を受けた後の罪は新たな罪の悔い改めの業が必要だということです。新たな罪の悔い改めの業が善行ということです。そして聖書には出てきませんが、告解(いわゆる懺悔)という制度とか贖宥状も洗礼を受けた後犯した罪に対して効力があると考えられました。このような考え方に対して宗教改革者たちは別の主張をしました。
  宗教改革者たちは、キリストの救いは洗礼を受ける前の罪に対してだけではなく、洗礼後に犯した罪に対しても有効だと主張しました。これが信仰義認ということであり、第二の考え方なのですが、この主張に対して反対する人々は、罪を犯しても信仰によって救われるとの主張は、罪を犯し続けることを承認することになり、無秩序な社会をつくることになると批判しました。
  このような批判に対して、ハイデルベルク信仰問答は「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえない」と答えました。キリストに救われた人、すなわちキリストに結ばれた人は、善い行いをするというのです。救われたならば、改めて善い行いをしなくてもよいのではないかという理屈も出てきそうですが、この信仰問答はそうではないと言うのです。ここで「感謝の実を結ぶ」という言葉を使っていることが肝要で、ハイデルベルク信仰問答の特徴となっています。
  ハイデルベルク信仰問答は、「生きる時も死ぬ時も慰めとなるものは何か」と問うことから始まり、この慰めに生きるために必要なこととして三つをあげます。第一に、罪と悲惨がどれほど大きいかを知ること。第二に、この罪と悲惨から救われるために何が必要かを知ること。ここでキリストによってのみ救われることが教えられます。そして、第三に、この救いに対してどのように神に感謝すべきかを知ること。ここで、善い行いについて教えています。この問答は救われるために善い行いをするのではなく、救われたことへの感謝として行うものと教えているのです。
  このように、ハイデルベルク信仰問答は私たちのなすべき善い行いを「感謝の実を結ぶ」と表現し、私たちの行いは神を仰ぎ見、感謝の心からするものだと教えています。私たちは救われたと言っても、主イエスの再臨の時までは不完全です。それにもかかわらず、キリストに結ばれて神に喜ばれるように生活をし、感謝の実を結ぶことを神は望んでおられるのです。



「神の時と今」 2022年1月23日の礼拝

2022年03月04日 | 2021年度
イザヤ書21章11~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 ドマについての託宣。
 セイルから、わたしを呼ぶ者がある。
 「見張りの者よ、今は夜の何どきか
 見張りの者よ、夜の何どきなのか。」
 見張りの者は言った。
 「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。
 どうしても尋ねたいならば、尋ねよ
 もう一度来るがよい。」


ローマの信徒への手紙13章11~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。


  ローマの信徒への手紙12章からキリスト者の生活についての話が続いています。13章11節の「あなたがたは今がどんな時であるかを知っている」という言葉は、突然話の内容が変わったような印象がありますが、キリスト者の生活は「神の時」を意識する生活であることを言おうとしているのです。「神の時」という言葉は出てきませんが、神が定めておられる時ということで世の終わりの時、終末のことです。
  終末というと、世の終わりという面にことさら注目が集まりますが、聖書はむしろ、新しい始まりをこそ強調します。それは主イエスが再臨される時であり、私たちが栄光ある神の独り子のお姿に変えられる時です。また、神の都に迎え入れられる時でもあります。
  そういう主イエスの再臨の時、神の都に入る時が近づいていることを意識して生活するようにと言っているのです。その時が近づいているので「眠りから覚めるべき時」だと言い、それに備え、救われた者にふさわしい生活をするようにと言っているのです。
  「今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」、「夜は更け、日は近づいた」と、その時がもう目の前に差し迫っていることを強調します。
  そして「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」とキリスト者の生活を象徴的に表現します。「闇の行いを脱ぎ捨てる」ということを「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てる」、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはならない」と説明しています。もちろん、他にもいろいろあるでしょうが、それを逐一上げません。自ら信仰に即して判断せよということでしょう。
  「光の武具を身に着ける」、「日中を歩むように、品位をもって歩む」。ここでの「品位をもって歩む」という言葉には「ふさわしく生活する」という意味です。主イエスに救われた者にふさわしく生活するということです。
  「光の武具を身に着ける」とはいささか物騒な表現ですが、今私たちが生活している世界は罪が満ちた世界であり、闇が覆っている世界だということを言おうとしているのです。罪の誘惑から身を守る武具として「光の武具」という言い方をしているのです。
  旧約聖書には、神の導きによってエジプトを出発し、神が約束しておられた「乳と蜜の流れる地」に行く話があります。その約束の地に入るまで40年の間、荒れ野で生活することになりました。神を信頼するための訓練の時として、荒れ野の40年が用いられたのです。荒れ野での生活は水や食料を神によって与えられ、襲ってくる敵から守られた40年でした。こうして神に養われ、守られることを繰り返し経験することによって神を信頼することを学ばされたのです。また特に重要であったのは、昼は雲の柱、夜は火の柱によって神が共にいてくださることを確認しながらの生活だったということです。荒れ野の生活が長くとも、彼らの目的地ははっきりしていました。乳と蜜の流れる地です。この荒れ野の神の民と同じように、私たちは罪が満ち闇が覆っているこの世で生活していますが、目的もなくただ彷徨っているのではありません。私たちの歩む目的地ははっきりしています。神の都です。その目的地に向かっていることを意識し、私たちと共にいてくださる神に目を向けつつこの旅を続けるのです。私たちを迎える神の都を意識しつつ、救われた者にふさわしく生活しましょう。