ホセア書11章1~4節(日本聖書協会「新共同訳」)
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。
ローマの信徒への手紙15章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
ローマ書14章から教会内の人間関係についての戒めが続いています。その1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」とあり、15章1節の「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」につながっています。すなわち、「わたしたち強い者」というのは、14章1節の「信仰の弱い人」という言葉との関連から「自分を信仰の強い者と思っている人」と考えてよいでしょう。そして、「強くない者の弱さを担う」というのは「信仰の弱い人を受け入れる」ということでしょう。14章では肉を食べるか否か、ある日を他の日より重んじるかどうかという問題とかかわらせて扱われていました。15章も同じと考えても良いでしょうが、何について強い弱いと言っているかは少しあいまいにされています。どういう問題であっても、信仰が強い弱いと言ってたがいに批判してはならないと言いたいのです。
信仰が強いとか信仰が弱いと言って互いに批判することがあってはならないことは当然のことのようですが、現実には、しばしば起こることです。第一コリント8章、10章を見ると、コリントの教会でその問題が起こっていたことがわかります。福音書の中でファリサイ派のユダヤ人が律法をめぐって主イエスと弟子たちを批判したことが記されていますが、これも律法順守に熱心かどうか、言い換えますと信仰が強いかどうかという問題だと言えるでしょう。
主イエスの弟子たちも同様です。「信仰が強い弱い」という言葉ではありませんが、互いに誰が一番偉いかと議論(マルコ9:34)していました。ルカ福音書は、主イエスが十字架にかかる前日の夜、いわゆる最後の晩餐と呼ばれる時にも、弟子たちはそのような議論をしていた(22:24)と記しています。
ファリサイ派や主イエスの弟子たちが特別そのような問題ある人々というのではありません。むしろ、すべての人が陥りやすい問題であり、神に救われていながら罪の残滓(ざんし)を身に着けているということであり、宗教改革者マルチン・ルターの言葉でいえば、「罪ゆるされた罪人」の姿ということです。終末の時、主イエスが再臨された時、私たちからこの罪の残滓が完全に拭い去られますが、それまで、この地上にある間、少しでも罪の残滓を捨てるべく神の助けによって御心に従って生活することが大切なのです。ローマ15章でパウロが伝えていることもそのためなのです。
そのような生活をするために、「自分の満足を求めるべきではない。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきだ」(ローマ15:1~2)と言います。そこには、忍耐が必要でしょう。しかし、私自身を救い、目の前の人を救うために、神ご自身が忍耐してくださったことを見落としてはならず、忘れてはなりません。「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」(15:4)というのは、神の忍耐、神による慰めを学び、神に結ばれた希望を持つことができるということです。今回とは状況は違いますが、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望はわたしたちを欺くことはない」(ローマ5:3~5)と教えられました。この世での苦難に対しての忍耐が希望へと導かれるのであれば、まして、一緒に救われている兄弟姉妹のために忍耐することは、ますます慰めに満ちており、豊かな希望に満ちていることではないでしょうか。
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。
ローマの信徒への手紙15章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
ローマ書14章から教会内の人間関係についての戒めが続いています。その1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」とあり、15章1節の「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」につながっています。すなわち、「わたしたち強い者」というのは、14章1節の「信仰の弱い人」という言葉との関連から「自分を信仰の強い者と思っている人」と考えてよいでしょう。そして、「強くない者の弱さを担う」というのは「信仰の弱い人を受け入れる」ということでしょう。14章では肉を食べるか否か、ある日を他の日より重んじるかどうかという問題とかかわらせて扱われていました。15章も同じと考えても良いでしょうが、何について強い弱いと言っているかは少しあいまいにされています。どういう問題であっても、信仰が強い弱いと言ってたがいに批判してはならないと言いたいのです。
信仰が強いとか信仰が弱いと言って互いに批判することがあってはならないことは当然のことのようですが、現実には、しばしば起こることです。第一コリント8章、10章を見ると、コリントの教会でその問題が起こっていたことがわかります。福音書の中でファリサイ派のユダヤ人が律法をめぐって主イエスと弟子たちを批判したことが記されていますが、これも律法順守に熱心かどうか、言い換えますと信仰が強いかどうかという問題だと言えるでしょう。
主イエスの弟子たちも同様です。「信仰が強い弱い」という言葉ではありませんが、互いに誰が一番偉いかと議論(マルコ9:34)していました。ルカ福音書は、主イエスが十字架にかかる前日の夜、いわゆる最後の晩餐と呼ばれる時にも、弟子たちはそのような議論をしていた(22:24)と記しています。
ファリサイ派や主イエスの弟子たちが特別そのような問題ある人々というのではありません。むしろ、すべての人が陥りやすい問題であり、神に救われていながら罪の残滓(ざんし)を身に着けているということであり、宗教改革者マルチン・ルターの言葉でいえば、「罪ゆるされた罪人」の姿ということです。終末の時、主イエスが再臨された時、私たちからこの罪の残滓が完全に拭い去られますが、それまで、この地上にある間、少しでも罪の残滓を捨てるべく神の助けによって御心に従って生活することが大切なのです。ローマ15章でパウロが伝えていることもそのためなのです。
そのような生活をするために、「自分の満足を求めるべきではない。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきだ」(ローマ15:1~2)と言います。そこには、忍耐が必要でしょう。しかし、私自身を救い、目の前の人を救うために、神ご自身が忍耐してくださったことを見落としてはならず、忘れてはなりません。「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」(15:4)というのは、神の忍耐、神による慰めを学び、神に結ばれた希望を持つことができるということです。今回とは状況は違いますが、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望はわたしたちを欺くことはない」(ローマ5:3~5)と教えられました。この世での苦難に対しての忍耐が希望へと導かれるのであれば、まして、一緒に救われている兄弟姉妹のために忍耐することは、ますます慰めに満ちており、豊かな希望に満ちていることではないでしょうか。