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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「ゲネサレトで病人をいやす」  2018年2月4日の礼拝

2018年03月12日 | 2017年度
ゼカリヤ書8章23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」

マタイによる福音書14章34~36節(日本聖書協会「新共同訳」)

  こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

  マタイ福音書の中には、主イエスが多くの人々をお癒しになった出来事が何度も繰り返し記されています。ひとりひとりを癒された様子が詳しく記されているところもありますが、今日の箇所のように、短い文章の中で、多くの人を癒された様子を記しているところが何箇所もあります。主イエスの力あるわざを強調すると共に、救いを求める人々を決して退けることなく癒しを続けられたことを強調しています。短い文章によって主イエスの活動をまとめているのです。しかし、単純に主イエスが多くの人を癒されたことを繰り返しているわけではありません。その前後に記されている主イエスの働きと関わらせてもいるのです。
  今日の聖書の箇所では、ゲネサレトという地名が出てきています。ガリラヤ湖西岸の場所です。いつものように、主イエスは人々の求めに応じ、多くの人々お癒しになりました。マタイ福音書は、お癒しになった様子を簡単に記していますが、土地の人々が付近にくまなく触れ回ったことを強調しています。14章1節の「イエスの評判」、16章13節以下で主イエスが「人々は人の子のことを何者だと言っているか」という質問とを関連させているのです。もちろん、主イエスは人々から高く評価されようとして奇跡を行われたのではありません。しかし、主イエスのなさった力あるわざは人々の評判にならざるを得なかったという事実を示しているのです。その評判は人々が求めるメシア像を大きくふくれあがらせていったかも知れませんが、神が主イエスを地上にお遣わしになった意図から大きくかけ離れていきました。それは、後に主イエスが人々から捨てられ、十字架刑に処せられる原因の一つとなりました。マタイ福音書はそのような伏線をここに張っているのです。
  36節で「皆いやされた」とあります。他の所では「癒す」はセラピューオーという言葉が使われていますが、ここではディアソーゾー(救う)という言葉が使われており、マタイ福音書ではここにしか出てきません。主イエスがなさっていたのは、癒しを越える救いであったということを強調したのではないでしょうか。主イエスは、私たちの求めに機械的に応えるのではなく、私たちに最も必要な物を与えてくださいます。それが「救う」という言葉で言い表されているのです。



「沈むペトロに手を伸ばすイエス」  2018年1月28日の礼拝

2018年03月05日 | 2017年度
詩編18編17節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
 大水の中から引き上げてくださる。

マタイによる福音書14章22~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


  「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」というペトロの言葉に重要な意味があります。マタイ福音書は、主イエスが言葉によって奇跡が行われたことをたびたび強調してきました。「水の上を歩くことができるようにしてください」ではなく、「わたしに命令してください」としているのは、主イエスの言葉に権威があることを、ここでも強調しているのです。主イエスは、天地創造の神の力、権威を持っておられるということです。主イエスが水の上を歩くことは、神の独り子としての力の現れですが、主イエスがペトロに命じて水の上を歩かせることは、主イエスがご自身の力や権威を人間にも共有させることを意味しています。すなわち、単に人間を水の上に浮かべたというのではなく、水の上を歩く力を与えたということです。しかし、この力は、後で示されるように、キリストを信じることと密接な関係があります。
  主イエスの力によって水の上を歩き始めたペトロでしたが、主イエスから目をそらし、強い風と波を見て恐ろしくなり、あっという間に水の中に沈み始めました。ペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶが早いか、主イエスもさっと手を伸ばし、ペトロを水から引き上げられました。
  「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主イエスはおっしゃいましたが、ペトロを叱っておられるのではありません。弟子たちに対する訓練の言葉と見るべきでしょう。「信仰の薄い者」は、「小さな信仰の者」という言葉で、小さくても信仰があることを意味しています。信仰の未熟さ、神への信頼があまりにも小さいことを指摘しておられるのです。そして、神を信頼するようにと促しているのです。
  ペトロが経験したことは、主イエスの弟子たちへの訓練であったと言えるでしょう。自分の信仰の小ささを自覚させ、主イエスを信頼するように訓練されたのです。マタイ福音書は主イエスを信頼して水の上を歩いていたペトロが水に沈んだ理由として、彼が主イエスから目をそらしたからだと指摘しています。私たちもいろいろな出来事、現実に取り囲まれており、主イエスから目をそらしてしまいます。それに対する警告として、また信仰の訓練だと励ます意味で、私たちにこの出来事を告げているのです。ペトロの経験は、他の弟子たちにとっても良い訓練でした。彼らは、一連の出来事からよく学び、信仰が成長させられました。彼らの「本当に、あなたは神の子です」という信仰の告白が、そのことを示しています。


「湖上を歩いて近づくイエス」  2018年1月21日の礼拝

2018年02月25日 | 2017年度
イザヤ書43章10~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしの証人はあなたたち
 わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。
 あなたたちはわたしを知り、信じ
 理解するであろう
 わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
 わたしの後にも存在しないことを。
 わたし、わたしが主である。
 わたしのほかに救い主はない。

マタイによる福音書14章22~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


  マタイ14章13節に主イエスがひとり人里離れたところに行かれたと記されています。ところが大勢の人々がやって来て癒しを求めました。それに応えて人々を癒し、夕暮れになったため、空腹になった人々のため奇跡を起こされました。いわゆる五千人の給食と呼ばれている出来事です。その後、群衆を解散させ、弟子たちには強いて舟に乗せ、対岸のゲネサレトへと向かわせられました。主イエスご自身は、ひとり山に登り、祈られました。おそらく14章13節に記されている人里離れたところに行かれた目的は祈るためであったと思われます。
  主イエスがたびたびひとりで祈られた様子が、福音書に記されています。主イエスはひとりで祈ることを大切にしていたことが分かります。特にこの時は、洗礼者ヨハネが殉教したとの報告を受けた後でした。ヨハネのことを思い起こしていたということもあるでしょうが、全ての人々の救いのために十字架にかかる時がいよいよ近づいたという思いがあったからではないでしょうか。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、そのヨハネが捕らえられたと聞き、伝道を開始されました。また彼の死の報告が届いたとき、神のご計画が次の段階に進んだことを知り、ゲツセマネで祈られたように「あなたの御心が行われますように」(マタイ26章42節)と祈られたのではないでしょうか。ヨハネの出来事は、神のご計画が進行していることを示していたのです。そのようにして神のご計画が進んでいくのを感じ、ひとり山で祈っておられたのです。
  一晩中祈っておられた主イエスは、先に舟で対岸へ向かわせたはずの弟子たちが、風と波によって湖の真ん中で立ち往生していることに気が付かれました。主イエスは、直ちに弟子たちの所へ向かわれます。その場で風と波を静めることができたと思いますが、弟子たちのそばに行くことが重要と考えられたのでしょう。湖の上を歩き、弟子たちの舟に近づかれました。
  この奇跡は、主イエスの神の子としての力を示しているだけではありません。第一に、困難に遭っている弟子たちのそばにいようとしてくださる主イエスの決意が示されています。第二に、たとえ湖であっても、波と風であっても、その他どのような状況にあっても、主イエスの行く手を阻むことができないことを示しています。使徒パウロが「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38~39節)と、告げているとおりです。




「五つのパンと二匹の魚」  2018年1月7日の礼拝

2018年02月20日 | 2017年度
出エジプト記16章33~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。

マタイによる福音書14章13~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


  洗礼者ヨハネが殺害された報告を聞いた主イエスは、ひとりで人里離れたところに行かれました。身の危険を案じてではなく、祈るためでした。福音書はたびたび主イエスが祈るために一人になられたと記しています。洗礼者ヨハネの死は、主イエスの十字架と復活の時が迫っていることを告げる出来事だったのです。主イエスの十字架と復活は、全ての人々を救うための神のご計画でした。主イエスの地上の生涯は、この時へと向かっていたのです。そして、いよいよその時が近づき、父なる神に祈ろうとして、人里離れたところへと向かわれたのです。
  しかし、方々の町から集まった群衆が、主イエスの後を追って来ました。主イエスは、彼らを深く憐れまれました。「深く憐れむ」と訳された言葉は、もともと「内臓、はらわた」を意味する言葉から来ており、はらわたが動かされるほどの激しい感情の動きを表しています。この表現は福音書の中だけに、しかも主イエスの感情を表現する時に使われています。そのような人々への激しい憐れみから、病人たちをお癒しになられたのです。
  夕暮れになると、弟子たちが主イエスの所にやって来て、「群衆を解散させましょう」と提案してきました。彼らが空腹になっているのではないかと心配したからです。しかし主イエスは、解散させる前に弟子たちの手によって食料を配るようにとおっしゃいました。弟子たちが持っていたのはパン五つと魚二匹だけでしたが、主イエスが祈られ、弟子たちにパンと魚を配らせると、群衆はそれらを食べ、満腹になりました。奇跡が起こったのです。そこにいた人々は女性と子どもを別にして五千人いましたので「五千人の給食」と呼ばれています。
  マタイ福音書4章に、主イエスが悪魔から誘惑を受けたという出来事が記されています。その誘惑の一つは、「神の子なら石をパンに変えてみろ」というものでした。それに対し主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という旧約聖書の言葉を引用し、その誘惑を退けられました。この出来事を考えてみますと、五千人の人々の空腹を奇跡によって満たしたことは、悪魔の誘惑を退けた言葉と矛盾するように思われます。
  一見矛盾に見える二つの出来事を理解するために、主イエスを誘惑した悪魔の本当の目的を知ることが大切です。悪魔の意図は、「神の子としての働きは、人々に食料を与えることは果たせるのではないか」ということなのです。それに対して主イエスは、「神の子としての働きは、食料を与えることによってではなく、神の御言葉を与えることによって果たされる」と答えられたのです。言い換えれば、神の御心を人々に明らかにすることであり、それは全ての人々のための贖罪として十字架にかかることだとおっしゃっておられるのです。しかし、それは人々の空腹を無視するということではありません。主イエスは、空腹の彼らを深く憐れまれたのです。その結果、空腹のまま帰らせないようにと奇跡を起こされたのです。主イエスのなさった奇跡は、人々に対する憐れみから出たみ業なのです。主イエスはかつて「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要であることをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6章31~33節)と教えられました。主イエスも人々に必要な物が何であるかをよくご存じであり、速やかに行動されたのです。


「神の慈しみによって」  2017年12月31日の礼拝

2018年02月12日 | 2017年度
詩編44編2~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

 神よ、我らはこの耳で聞いています
 先祖が我らに語り伝えたことを
 先祖の時代、いにしえの日に
   あなたが成し遂げられた御業を。
 我らの先祖を植え付けるために
   御手をもって国々の領土を取り上げ
 その枝が伸びるために
   国々の民を災いに落としたのはあなたでした。
 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも
 自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく
 あなたの右の御手、あなたの御腕
 あなたの御顔の光によるものでした。
 これがあなたのお望みでした。

 神よ、あなたこそわたしの王。
 ヤコブが勝利を得るように定めてください。
 あなたに頼って敵を攻め
 我らに立ち向かう者を
   御名に頼って踏みにじらせてください。
 わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。
 自分の剣によって勝利を得ようともしていません。
 我らを敵に勝たせ
 我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。
 我らは絶えることなく神を賛美し
 とこしえに、御名に感謝をささげます。〔セラ

 しかし、あなたは我らを見放されました。
 我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず
 我らが敵から敗走するままになさったので
 我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。
 あなたは我らを食い尽くされる羊として
 国々の中に散らされました。
 御自分の民を、僅かの値で売り渡し
 その価を高くしようともなさいませんでした。
 我らを隣の国々の嘲りの的とし
 周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ
 我らを国々の嘲りの歌とし
 多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。
 辱めは絶えることなくわたしの前にあり
 わたしの顔は恥に覆われています。
 嘲る声、ののしる声がします。
 報復しようとする敵がいます。

 これらのことがすべてふりかかっても
 なお、我らは決してあなたを忘れることなく
 あなたとの契約をむなしいものとせず
 我らの心はあなたを裏切らず
 あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。

 あなたはそれでも我らを打ちのめし
   山犬の住みかに捨て
 死の陰で覆ってしまわれました。
 このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り
 異教の神に向かって
   手を広げるようなことがあれば
 神はなお、それを探り出されます。
 心に隠していることを神は必ず知られます。
 我らはあなたゆえに、絶えることなく
   殺される者となり
 屠るための羊と見なされています。

 主よ、奮い立ってください。
 なぜ、眠っておられるのですか。
 永久に我らを突き放しておくことなく
 目覚めてください。
 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
 我らが貧しく、虐げられていることを
   忘れてしまわれたのですか。
 我らの魂は塵に伏し
 腹は地に着いたままです。
 立ち上がって、我らをお助けください。
 我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。


ローマの信徒への手紙8章23~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

  被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。


  詩編44編の詩人は苦境に直面しています。この詩編の最初は過去の神の恵みと導きを思い起こしつつ、直面している苦境から救ってくれるよう懇願しています。それに続いて、何故神は今の苦境を省みてくださらないのか、何故沈黙しておられるのかと不満を募らせています。それでも、かろうじて神への信仰を捨てないようにと、神に訴え続けています。23節では、詩人と神の民が受ける苦難は、神のせいだとさえ言うほどです。この詩人は神への不信ぎりぎりのところまで追いつめられているのです。
  信仰者が何故悩み苦しむのかという問題は、聖書の中で時々取り上げられます。特に有名なのはヨブ記でしょう。そのヨブ記では、信仰者が何故苦しむのかという答えは出てきません。神がヨブに語られたのは、ご自身が天地の全てを創造し支配しておられる神であるということだけです。私たちにはこれだけで納得することは難しいように思われますが、ヨブはこの神の言葉を聞いて納得するのです。何故信仰者が苦難を受けるのかという答えはありませんが、神が全てを支配しておられることを告げることにより、ヨブが受けている悩みについても神は知っておられるということです。そして、神が知ってくださっていることは、苦難の意味を知らされなくとも、神は必ずこの状況を良い方向へと変えてくださるという信頼を生み出したのです。
  使徒パウロはローマの信徒への手紙8章26節で、この23節を引用し、信仰者が受ける苦難について語っています。しかしパウロは、神への不信ではなく、人々から受ける苦難にまさる神の恵みを語ります。たとえどのような苦難に遭おうとも、キリストの愛から決して離されはしないと断言しているのです。パウロは、罪とその呪いの中にある私たちの世界には、神に逆らう者たちによる迫害やその他の苦難は現実にあると告げ、しかし、それにもかかわらず、私たち信仰者は神の愛から決して引き離されることはないと断言するのです。
  詩編44編27節に「慈しみ」という言葉が出てきます。この言葉は「契約の愛」と説明されます。それは感情的情緒的な愛情ということではなく、神の変わることのない愛ということです。神は約束されたことを決して破ることはなく、しかも相手の状況がどのように変わろうとも、約束を無効にすることはない誠実な愛ということです。詩人はこのような神との確かな関係の中に置かれていることを前提に、神に訴えているのです。
  私たちキリスト者は、神のこのような慈しみを主イエス・キリストによって示されました。それ故、このような神の愛から、私たちを引き離すことが出来るものは何一つ無いのです。(ローマの信徒への手紙8章35~39節)