ゼカリヤ書8章23節(日本聖書協会「新共同訳」)
万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」
マタイによる福音書14章34~36節(日本聖書協会「新共同訳」)
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
マタイ福音書の中には、主イエスが多くの人々をお癒しになった出来事が何度も繰り返し記されています。ひとりひとりを癒された様子が詳しく記されているところもありますが、今日の箇所のように、短い文章の中で、多くの人を癒された様子を記しているところが何箇所もあります。主イエスの力あるわざを強調すると共に、救いを求める人々を決して退けることなく癒しを続けられたことを強調しています。短い文章によって主イエスの活動をまとめているのです。しかし、単純に主イエスが多くの人を癒されたことを繰り返しているわけではありません。その前後に記されている主イエスの働きと関わらせてもいるのです。
今日の聖書の箇所では、ゲネサレトという地名が出てきています。ガリラヤ湖西岸の場所です。いつものように、主イエスは人々の求めに応じ、多くの人々お癒しになりました。マタイ福音書は、お癒しになった様子を簡単に記していますが、土地の人々が付近にくまなく触れ回ったことを強調しています。14章1節の「イエスの評判」、16章13節以下で主イエスが「人々は人の子のことを何者だと言っているか」という質問とを関連させているのです。もちろん、主イエスは人々から高く評価されようとして奇跡を行われたのではありません。しかし、主イエスのなさった力あるわざは人々の評判にならざるを得なかったという事実を示しているのです。その評判は人々が求めるメシア像を大きくふくれあがらせていったかも知れませんが、神が主イエスを地上にお遣わしになった意図から大きくかけ離れていきました。それは、後に主イエスが人々から捨てられ、十字架刑に処せられる原因の一つとなりました。マタイ福音書はそのような伏線をここに張っているのです。
36節で「皆いやされた」とあります。他の所では「癒す」はセラピューオーという言葉が使われていますが、ここではディアソーゾー(救う)という言葉が使われており、マタイ福音書ではここにしか出てきません。主イエスがなさっていたのは、癒しを越える救いであったということを強調したのではないでしょうか。主イエスは、私たちの求めに機械的に応えるのではなく、私たちに最も必要な物を与えてくださいます。それが「救う」という言葉で言い表されているのです。
万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」
マタイによる福音書14章34~36節(日本聖書協会「新共同訳」)
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
マタイ福音書の中には、主イエスが多くの人々をお癒しになった出来事が何度も繰り返し記されています。ひとりひとりを癒された様子が詳しく記されているところもありますが、今日の箇所のように、短い文章の中で、多くの人を癒された様子を記しているところが何箇所もあります。主イエスの力あるわざを強調すると共に、救いを求める人々を決して退けることなく癒しを続けられたことを強調しています。短い文章によって主イエスの活動をまとめているのです。しかし、単純に主イエスが多くの人を癒されたことを繰り返しているわけではありません。その前後に記されている主イエスの働きと関わらせてもいるのです。
今日の聖書の箇所では、ゲネサレトという地名が出てきています。ガリラヤ湖西岸の場所です。いつものように、主イエスは人々の求めに応じ、多くの人々お癒しになりました。マタイ福音書は、お癒しになった様子を簡単に記していますが、土地の人々が付近にくまなく触れ回ったことを強調しています。14章1節の「イエスの評判」、16章13節以下で主イエスが「人々は人の子のことを何者だと言っているか」という質問とを関連させているのです。もちろん、主イエスは人々から高く評価されようとして奇跡を行われたのではありません。しかし、主イエスのなさった力あるわざは人々の評判にならざるを得なかったという事実を示しているのです。その評判は人々が求めるメシア像を大きくふくれあがらせていったかも知れませんが、神が主イエスを地上にお遣わしになった意図から大きくかけ離れていきました。それは、後に主イエスが人々から捨てられ、十字架刑に処せられる原因の一つとなりました。マタイ福音書はそのような伏線をここに張っているのです。
36節で「皆いやされた」とあります。他の所では「癒す」はセラピューオーという言葉が使われていますが、ここではディアソーゾー(救う)という言葉が使われており、マタイ福音書ではここにしか出てきません。主イエスがなさっていたのは、癒しを越える救いであったということを強調したのではないでしょうか。主イエスは、私たちの求めに機械的に応えるのではなく、私たちに最も必要な物を与えてくださいます。それが「救う」という言葉で言い表されているのです。