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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「沈むペトロに手を伸ばすイエス」  2018年1月28日の礼拝

2018年03月05日 | 2017年度
詩編18編17節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
 大水の中から引き上げてくださる。

マタイによる福音書14章22~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


  「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」というペトロの言葉に重要な意味があります。マタイ福音書は、主イエスが言葉によって奇跡が行われたことをたびたび強調してきました。「水の上を歩くことができるようにしてください」ではなく、「わたしに命令してください」としているのは、主イエスの言葉に権威があることを、ここでも強調しているのです。主イエスは、天地創造の神の力、権威を持っておられるということです。主イエスが水の上を歩くことは、神の独り子としての力の現れですが、主イエスがペトロに命じて水の上を歩かせることは、主イエスがご自身の力や権威を人間にも共有させることを意味しています。すなわち、単に人間を水の上に浮かべたというのではなく、水の上を歩く力を与えたということです。しかし、この力は、後で示されるように、キリストを信じることと密接な関係があります。
  主イエスの力によって水の上を歩き始めたペトロでしたが、主イエスから目をそらし、強い風と波を見て恐ろしくなり、あっという間に水の中に沈み始めました。ペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶが早いか、主イエスもさっと手を伸ばし、ペトロを水から引き上げられました。
  「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主イエスはおっしゃいましたが、ペトロを叱っておられるのではありません。弟子たちに対する訓練の言葉と見るべきでしょう。「信仰の薄い者」は、「小さな信仰の者」という言葉で、小さくても信仰があることを意味しています。信仰の未熟さ、神への信頼があまりにも小さいことを指摘しておられるのです。そして、神を信頼するようにと促しているのです。
  ペトロが経験したことは、主イエスの弟子たちへの訓練であったと言えるでしょう。自分の信仰の小ささを自覚させ、主イエスを信頼するように訓練されたのです。マタイ福音書は主イエスを信頼して水の上を歩いていたペトロが水に沈んだ理由として、彼が主イエスから目をそらしたからだと指摘しています。私たちもいろいろな出来事、現実に取り囲まれており、主イエスから目をそらしてしまいます。それに対する警告として、また信仰の訓練だと励ます意味で、私たちにこの出来事を告げているのです。ペトロの経験は、他の弟子たちにとっても良い訓練でした。彼らは、一連の出来事からよく学び、信仰が成長させられました。彼らの「本当に、あなたは神の子です」という信仰の告白が、そのことを示しています。