時間概念に挑んできたのは、何も哲学者だけではあるまい。物理学者だけでもあるまい。そのへんのおっさんだって時が経つのか不思議に思うもんだ。しかし不思議だ。私は熱力学が好きなので、時間の向きは人間が手で入れるものではないと思っている。そうか、まずはその辺から話をしよう。
量子力学を少しでもかじったことのある人はご存知だろうが、量子力学では、物理量の集合は実数体でない。複素数体でもない。斜体だ。定義は、ほとんど体だけどAB != BA(!=はノットイコールってことで)の世界である。この解釈では、粒子の位置や運動量が実数としては確定しない、なんて話はくさるほど聞いているだろう。
じゃあ、時間はなんで確定するんだ?という疑問が起こる。例えば、ある時刻tでの波動関数、とかって言えるためには人間が時間を実数として確定していることになる。
実は、量子力学では時間は物理量ではない。もうちょっと難しい言い方をするとオブザーバブルではない。それは、量子力学の基礎方程式、シュレディンガー方程式の左辺を見ればわかる。ほら、時間微分の項が入ってるでしょ。ってことは時間はパラメータとしてすべての物理的設定に先立って存在していることがわかる。
とは言え、ディラックという天才がこの状況が気持ち悪いと言い出した。なんで時間がパラメータで空間が物理量なのさと。そこで彼は、空間もパラメータにしてしまう。いわゆる相対論的量子論である。時間は空間で空間は時間。右に進むのは左に戻ること。こうすると、数学的にはとても美しいし、対称性があるので見通しがたつ。
まぁいずれにせよ、物理学者には前提が必要なのだ。非相対論的には時間だけ、相対論的には時空ごとの構造を先に仮定しないと先に進めない。ここの仮定についてワイワイ議論するのが宇宙論だと思うのだが、それはここでは無しにする。
そのようにして人間が、時間を、手で入れる。言い換えれば、そこに必然性はまったく無い。(私見を述べさせていただければ、物理学はさかのぼればさかのぼるほど幾何学になると思う。そこでは、結局各自が世の中に救いはあるのかとか神様はいるのか、とかっていう「信仰」が何らかの構造を要求するのだと思う。それが美か善か、はたまた真か。それらは狙って作れないから科学って難しい。)
以上の話が、ミクロな時間論。そこにはいずれにせよ時間は人間が手で入れているという「恣意性」がある。それに対して、熱力学第二法則から帰結されるマクロな時間論もある。これはいたって簡単だ。
まず、平衡熱力学は言う。「時間は、僕には扱いきれません」と。実は純理論的には時間概念を抱え込むことを放棄しているのだ。おいおい、と思うがまぁそれは熱力学がそれを射程としていないからしょうがない。
とは言え、時間を未定義語として扱いながらもそれに方向性を入れることはできる。やり方はこうだ:
誰かがビデオを撮ったとする。でもちょっとずるをして順方向に再生しているか逆方向かを教えないとする。それでも熱力学を使えば判定はできる。なぜなら、時間を順方向に進めれば、エントロピーは増えることになっているからだ。だから、その絵を見てエントロピーが増えていれば順方向、そうでなければ逆方向なのだ。
このようにすると、実は熱力学の論理によっても、時間は(離散的ながら)定義できると思う。要するに、平衡熱力学の範囲では、時間とはエントロピーのことである、としてしまうのだ。そうすると、準静的仮定では連続的に、そうでなければ離散的にエントロピーが変わっていくのだから、エントロピーを時間軸とした離散力学系としてマクロな系を定義することができるのではないか、というのが私のひそかな思いだ。(先に言っておくが、これ以上の根拠は無い。だから誰かに反論されたらそこでおしまいです…。)
いやはや、やはり不思議だ。時空とは仮定すべき構造なのか、それとももっと基礎的な法則から演繹されるべき結論なのか。でも、一つだけ確かなことがある。それは、時間をかけてもわからないはずだ。
量子力学を少しでもかじったことのある人はご存知だろうが、量子力学では、物理量の集合は実数体でない。複素数体でもない。斜体だ。定義は、ほとんど体だけどAB != BA(!=はノットイコールってことで)の世界である。この解釈では、粒子の位置や運動量が実数としては確定しない、なんて話はくさるほど聞いているだろう。
じゃあ、時間はなんで確定するんだ?という疑問が起こる。例えば、ある時刻tでの波動関数、とかって言えるためには人間が時間を実数として確定していることになる。
実は、量子力学では時間は物理量ではない。もうちょっと難しい言い方をするとオブザーバブルではない。それは、量子力学の基礎方程式、シュレディンガー方程式の左辺を見ればわかる。ほら、時間微分の項が入ってるでしょ。ってことは時間はパラメータとしてすべての物理的設定に先立って存在していることがわかる。
とは言え、ディラックという天才がこの状況が気持ち悪いと言い出した。なんで時間がパラメータで空間が物理量なのさと。そこで彼は、空間もパラメータにしてしまう。いわゆる相対論的量子論である。時間は空間で空間は時間。右に進むのは左に戻ること。こうすると、数学的にはとても美しいし、対称性があるので見通しがたつ。
まぁいずれにせよ、物理学者には前提が必要なのだ。非相対論的には時間だけ、相対論的には時空ごとの構造を先に仮定しないと先に進めない。ここの仮定についてワイワイ議論するのが宇宙論だと思うのだが、それはここでは無しにする。
そのようにして人間が、時間を、手で入れる。言い換えれば、そこに必然性はまったく無い。(私見を述べさせていただければ、物理学はさかのぼればさかのぼるほど幾何学になると思う。そこでは、結局各自が世の中に救いはあるのかとか神様はいるのか、とかっていう「信仰」が何らかの構造を要求するのだと思う。それが美か善か、はたまた真か。それらは狙って作れないから科学って難しい。)
以上の話が、ミクロな時間論。そこにはいずれにせよ時間は人間が手で入れているという「恣意性」がある。それに対して、熱力学第二法則から帰結されるマクロな時間論もある。これはいたって簡単だ。
まず、平衡熱力学は言う。「時間は、僕には扱いきれません」と。実は純理論的には時間概念を抱え込むことを放棄しているのだ。おいおい、と思うがまぁそれは熱力学がそれを射程としていないからしょうがない。
とは言え、時間を未定義語として扱いながらもそれに方向性を入れることはできる。やり方はこうだ:
誰かがビデオを撮ったとする。でもちょっとずるをして順方向に再生しているか逆方向かを教えないとする。それでも熱力学を使えば判定はできる。なぜなら、時間を順方向に進めれば、エントロピーは増えることになっているからだ。だから、その絵を見てエントロピーが増えていれば順方向、そうでなければ逆方向なのだ。
このようにすると、実は熱力学の論理によっても、時間は(離散的ながら)定義できると思う。要するに、平衡熱力学の範囲では、時間とはエントロピーのことである、としてしまうのだ。そうすると、準静的仮定では連続的に、そうでなければ離散的にエントロピーが変わっていくのだから、エントロピーを時間軸とした離散力学系としてマクロな系を定義することができるのではないか、というのが私のひそかな思いだ。(先に言っておくが、これ以上の根拠は無い。だから誰かに反論されたらそこでおしまいです…。)
いやはや、やはり不思議だ。時空とは仮定すべき構造なのか、それとももっと基礎的な法則から演繹されるべき結論なのか。でも、一つだけ確かなことがある。それは、時間をかけてもわからないはずだ。