goo blog サービス終了のお知らせ 

しゃりお @ 撮り鉄倶楽部

最近の鉄道撮影記録と懐かしい国鉄時代の写真を気ままに更新してます。

あの頃の 157系 特急 あまぎ

2011-11-28 22:00:55 | 国鉄時代
土日と下松甲種を撮影した以外は非鉄でしたので、今週も懐かしい「あの頃の・・・」などを更新していこうかと思ってます。
鉄に復帰して撮り貯めた写真もあるのでそれを載せていくのもいいかも・・・?
私の気分次第で色々と更新していきます。


本日は東京駅で撮影した157系 あまぎ の写真を

東京と伊豆急下田を結ぶリゾート特急 あまぎ
国鉄時代に国鉄の車両が私鉄に乗り入れる異色の特急でした。
当時 関西では157系は走っていませんでしたから157系はある意味 都会っ子みたいな気がしてました。


157系 あまぎ    昭和50年(1975年)頃            東京駅
これを撮影した次の年の1976年3月には183系に置き換わったと思います。
横には横須賀線の113系が・・・
当時はすでに157系の車体はかなりくたびれていたような記憶があります。

あまぎ と聞けば あまぎ~ 越え~~♪と石川さゆりさんの「天城越え」を一番に思い出すのは私の歳のせいでしょうか? (爆


コメント (5)

あの頃の  車 輸送用貨車 ク5000

2011-11-25 19:11:11 | 国鉄時代
今日の朝は寒かった・・・
布団から抜け出すタイミングがだんだん遅くなってしまいます(笑
風はすでに冬の風で身を切るようです。
伯備線 谷田峠付近では今朝は小雪が舞っていたとか
いよいよ本格的に冬がやって来たようです。

この週末はお天気が良いようで久しぶりに撮影に行きたいところですが、明日も休日出勤になってしまいました。


本日の「あの頃の・・・」は、今では見ることの出来ない鉄道を使った車輸送用の貨車 ク5000形の写真を

ク5000は自動車メーカーで製造された新車を輸出港や販売先へ輸送するのが目的の貨車でした。
その輸送も今では船舶での輸送やトラックでの輸送に変わってしまいました。

私が小学生の頃はよく見ていたような記憶があるのですが、写真を撮影した昭和56年(1981年)頃には余り見かけた覚えがありませんでした。
確か私の住んでいる福山辺りは深夜に通過していて撮影は不可能だった記憶があります。
徳山市(現 周南市)の親戚に遊びに行っていた頃に朝と夕方に何度か走っているのを見かけた事がありますが撮影したのはこの一枚のみです。

下りの九州方面には乗用車を満載して、上りは空車で走っていました。


EF60-129 + ク5000    昭和56年(1981年).8月頃          新南陽~徳山
残念ながら上りの空車での走行写真で、ちょうど夕方の あさかぜ2号の後位の時間だったと思うのですが・・・

山口県内では撮影可能な時間帯に走っていたので撮影しておりました。
ただこれも当時は今のようにダイヤも知らず携帯やネットもなかった時代ですので、ただジッと線路脇に立ち、やって来る列車を撮影し運良くやって来た物を撮影したような感じです。

写真の牽引機 EF60は前期型は前照灯が1灯式で容易に見分けが付きますが、後期型は写真の様に前照灯が2灯シールドビームに変更され、側面は通気口の上に明かり取り窓を配した構造となってEF65 0番台と簡単には見分けが付きません・・・。

地味な色の貨車が多かった時代に赤い塗装で長編成の空車でもかなり目立つ貨物列車でした。
コメント

あの頃の  荷37レ    EF 58 重連

2011-11-23 22:33:11 | 国鉄時代
このところ撮影にも行けず鉄分不足が続いております・・・
今日も勤労感謝の日なのですが、私の勤める会社では仕事でした。
この土曜日も休日出勤になりそうで日曜日には家庭の用事もありますので鉄分不足は続きそうな気配です。
ま、良い年越しを迎える為に気持ちを切り替えて仕事を頑張っておこうかと・・・

そんな感じで撮影に行っておりませんので本日も懐かしの国鉄時代「あの頃の・・・」を
本日は、EF58の重連で走っていた荷37レ
EF58ファンの方ならば荷35レと共に荷37レの重連は有名なお話です。
荷35レは1975年3月10日~1978年10月1日まで、品川から名古屋までゴハチ重連だった列車です。この区間は荷物車15両編成で荷が重かったので重連となっていたようです。

しかし荷37レは1978年10月2日~1979年9月30日までのわずか1年間のみ広島から下関まで広島区のゴハチ重連となっていました。前述の荷35レとは異なり、機関車の 回送を目的とした重連でした。

と、こんな うんちくを書いておりますが、この事を知ったのは最近の事で
荷37レを撮影した当時は私は高校生で当時は今のように運用など何も知らず、もちろん携帯やネットなどもありませんでしたからEF58の重連が走り始めた頃に偶然にその時間帯を見つけて撮影していたようです。
当時は徳山市(現 周南市)の親戚の家によく遊びに行っておりましたから、遊びに行く度に時間を作っては撮影していました。


荷37レ EF58-82+EF58-??     昭和53年(1978年).10月頃          徳山~新南陽
ちょうどEF58での重連での運転が始まった頃です、初めて撮影した時にはかなり興奮した記憶があります。





荷37レ EF58-8+EF58-??    昭和54年(1979年).3月頃
広島区のゴハチ独特の窓のひさしが厳ついイメージですね。





後追いで撮影    機関車の回送を目的とした重連でしたので後機は規定どおり前パンは降ろしていました。





荷37レ EF58-20+EF58-??   昭和54年(1979年).3月頃
雨の降るなか徳山駅を出発する荷37レゴハチ重連  雨で暗かったのか うっすらとライトが点いていますね。





後追いで・・・迫力があります。      今では荷物貨車 茶マニも見る事は出来ませんね。
三月でしかも雨降り、まだまだ寒い季節で GSの蒸気が懐かしい





荷37レ EF58-38+EF58-??    昭和54年(1979年).5月頃        徳山~新南陽





荷37レ EF58-82+EF61-??    昭和54年(1979年).8月頃
この頃はEF58とEF61の併用の重連もありました。





後追いで・・・    この年の10月から運用がEF58からEF61に変わるのをまだ知る由もありませんでした。
写真が白黒なのは、この頃 私は高校生ながら2台の1眼レフで撮影していましたからこの日の荷37レのEF58の運用が重連でないのでガッカリして取り合えずサブのカメラで撮影したような記憶があります。
今となっては何とも贅沢な選択で撮影したいたものです、もちろんカメラも高校生で1眼レフ2台も・・・ 
今の私では考えられない贅沢・・・(爆





荷37レ EF61-4+EF61-??     昭和55年(1980年)          徳山駅
年が明けて親戚の家に遊びに行った時に相変わらず荷37レを狙いに行ったら、そこにEF58の重連の姿は無くEF61の重連運転に変更になっていました。

広島区の初期型のEF58の廃車が進み本務機はEF61形となりました。

余談ですが、バックに写っている山一證券の看板も時代を感じます (^^ゞ

わずか1年の間の運用でしたがEF58の重連を撮影できて、今ではいい記録と思い出となっております。
コメント (4)

あの頃の  0系新幹線    団子鼻の夢の超特急

2011-11-17 22:21:22 | 国鉄時代
昨日、今日と朝はかなり冷え込んでおりますね~。
仕事着の下に一枚余分に着るようになりましたし
毎日、会社に持って行く水筒にも暖かいお茶を入れて行き始めました。
いよいよ冬が近づいてきましたね。


さて、しばらく続いています「あの頃の・・・」の懐かしい国鉄時代の写真
本日は2008年11月に惜しまれながら引退した0系新幹線
早いもので引退してから3年経つんですね~。
0系が引退をきっかけに次々と歴代の新幹線が引退へとカウントダウンを始めています。
500系 のぞみ(こだまとして運用)、100系、300系と・・・

私の子供の頃は今のように新幹線にはバリエーションはなく、新幹線と言えば0系!
当時は新幹線はすべて団子鼻の0系でした。

本日は昭和54年(1979年)頃に撮影した0系新幹線です。

撮影場所は地元の鉄道ファンなら大体察しは付くと思いますが、山陽本線とクロスするあの場所です。


0系新幹線    昭和54年(1979年)頃
今ではここも木々に覆われて、この角度での撮影のスイートスポットはかなり厳しくなってますが、当時は金網にかぶり付きでの撮影も可能で木々に遮られる事もなく広々としていました。
向かい側のトンネルの上には、ちょうど小中高一貫教育の学校が建設されている頃です。





山陽本線をクロスして走る0系新幹線
この頃でもそろそろ木々に覆われ始めていますが、今ではこの角度での撮影は木々に覆われて不可能です。
ここから見える風景も30年経った今はだいぶ変わってしまいました。





この頃の0系新幹線の客席の窓はいわゆる大窓です。
雪害による窓ガラス破損が多発し、大きい窓ガラスの交換には経費がかかります。
その為、交換する際のガラスを小さくする事によって、経費を削減する為に途中から0系新幹線は小窓になってしまいます。
しかしながら、その後の100系新幹線はまた大窓に戻っています。
何でだろ? 100系が運行を始めた頃はイケイケのバブル時代だったからか?(爆


最高速度は違いますが最新のN700系新幹線と比べると、速度以上に何だかノンビリと走っているように感じますね。
当時の新幹線は こだま であろうともすべてが堂々とした16両編成でビュッフェもありの時代でした。
コメント (2)

あの頃の   70系電車   検査明けと廃車留置

2011-11-15 22:21:00 | 国鉄時代
朝が先週とは打って変わって急に寒くなってきました・・・
布団から出るのが辛い・・・

やっと風邪も治ってきましたので、この寒さでまたぶり返さないように気を付けないと・・・


昨日は福塩線 府中駅での試験運転やマヤ検測の写真でしたが、本日は以前の福塩線特集の時には紹介していなかった写真から70系の写真を載せていこうかと。
今日の写真も残念ながらフィルムは残っていませんが、かろうじて写真は残っていました。

府中電車区で止まっていることが多かったクモハ32ですが時には岡山まで70系電車を検査等にエスコートして本線を走ることがありました。


岡山から府中に向けて70系を回送中    昭和53年(1977年)頃       福山駅
貫通扉の踏み板にチョークで回送の文字が・・・





検査明けなのかきれいに塗装されていますね~。

この頃はまだまだ70系電車が元気に走っている頃でした。


しかし、昭和56年(1981年)に105系電車が福塩線に配属になると同時にそれまで主力だった70系電車は追いやられるように運用を離脱して廃車されてしまいました。

廃車回送された70系電車は一時的に西阿知駅に留置されていました。

西阿知駅に留置中の70系      昭和56年(1981年).2月頃           西阿知駅

その後、岡山で70系は解体されたようです。
いつだったか、Yahoo!オークションで解体中の70系の写真が売りに出されていたことがありました。

70系最後の活躍の場となった福塩線、福塩線に70系が配属された当初は福塩線色(紺色)に塗り替えられる予定だったようですが結局 最後までスカ色でした。
ま、70系はスカ色が一番似合っていました。
ただ、80系と同様にあの愛嬌のある顔した車両は一両も保存されていないのは残念でなりません。
コメント